I'll mourn your death in my own way.






 一目見たときから癪に触る男だった。端正な顔立ちもそうだったが、何より、こんな、落ちるところまで落ちたゴミであるにも関わらず、野糞に埋もれたビー玉くらいハッキリしている眼差し、濁っていない目が気にくわなかったのである。しかしそれも、自身のことながら、おそらく、としか言いようがない。もちろん目が気にくわないのは事実だったが、オレが抱くこの不快感は、もっと別の場所に要因があるはずだからだ。漠然とした不快感。漠然とさせたくないからこそ、オレは無意識のうちに、それを奴の目からくるものだと決めたのだろう。
 新しくやってきた十人の囚人のなか、顔を伏せ大人しく服従する本来ならば印象に残らないような姿。オレの寝ぼけていた頭に囚人番号100869番が妙な輪郭を描いたのは、冬の厳しい寒さが段々目立ちはじめた朝のことだった。


 アシュッヴィ刑務所にやってくる囚人は大きく二種類。一ヶ月以内に死刑が執行される囚人か、懲役が百年以上の囚人のどちらかで、100869番は前者だった。自身の一ヶ月以内の死を予め通告されている囚人は自棄になることが多いため常に特殊な鎖で身体の一部を縛っており、100869番も例に違わなかった。やってきて早々に首輪をつけられ、鎖が繋がれ、その全てに対して奴は従順であった。まさに無気力。典型的な廃人であったにも関わらず、オレの不快感は増すばかりだったのである。
 そして幸いなことに、ここは、その不快感を本人にぶつけることが出来る環境なのだ。
 歩いている背後から蹴るなんて当たり前、妻と喧嘩した気晴らしにサンドバッグ、飯は三日に一度くらいの頻度でしか与えなかったが、まわりの看守も「ほどほどにしておけよ」とニタニタ笑みを浮かべるだけなのだからなんて恵まれた職場だろうか。しかし100869番だけが特別ひどいわけじゃない。特別扱いは良くないことだ、そういう自制心くらいは持っている、いや、持っている、つもりだったのだ、でもあの目が……。どうしてこんなに、不快感が沸き上がってくるのだろうか……。まあ、奴はあと二週間もしないうちに死ぬのだ、もうしばらくの辛抱である。奴が首をつられ死ぬ瞬間を想像する。オレの押したボタンが奴の死因になればどれだけ良いか。土色に染まった奴の死に顔を踏みつければ、この不快感だって収まるだろう。
 ああ、そういえば以前にも同じような不快感を抱いた囚人がいたか。共通して目だ。あいつらの目にはどうにもいけ好かない何かがあるのだ。
「お前さんくらいのもんじゃねェかな。少なくともオレァ何とも思ったことねェよ」
 そもそも目なんざしっかり見たことねー、とロバートがタバコに火をつける。何十本もの短いタバコが捨てられた彼の手元にある灰皿は、確か元カレからの誕生日プレゼントだったろうか。ライターはオレが去年渡したものだ。囚人が持っていたものだが、彫られているイニシャルが偶然ロバートと同じだったこともあり、誕生日プレゼントにちょうど良いと渡したのである。妙に足の数が多い蜘蛛が薄くプリントされているが、ロバートはその柄も気に入っているようだった。
「アイツらの目なんざマジマジ見るもんじゃねェよ。情が移る」
「ハハハ、冗談だろ。畜生に情なんか持つってのかお前」
「豚を飼ってた。昔さ。これが結構可愛い目をしてる」
「そりゃ囚人より豚のほうがよっぽど可愛い」
「まーな。しかしオレのママは目を見たことがないらしい。気がつきゃソースかけられてテーブルに運ばれてたよ」
 悲しかったがそれ以上に美味かった、とロバートは心底可笑しそうにケラケラと笑いながら灰皿にタバコの灰を落とした。今の今まですっかり忘れていたが、そういえばオレも小さい頃、ニワトリなら飼っていた。うるさくて汚くて世話なんざ絶対にするものかと小屋に近寄りすらしなかったし、半年もしないうちにどこかへ消えていたから記憶にも薄いのだろう。あいつは結局、ロバートの豚のように食卓に並べられたんだったろうか? チキン料理なぞ数えきれないほど食べてきたから分からない。それに食べていたとして、どうでも良い話である。そのときのオレの腹が満足したなら。
 チキンといえば、囚人の主食もそうだ。料理に使われる肉なら鳥が最も多いが、まあ、それもオレの気分によっては、そもそも飯にありつけるかどうかだ。一五日間飯を与えず、九日目に目の前で飯のトレーを蹴り上げたら、薄汚れた床に散らばる飯を必死の形相で食ってたっけな、いつかのゴミは。ゲロみたいな残飯だ。思い出しただけで笑えてくる。あれは面白かった。そうだ、100869番にもやってみようか。一五日、いや、二〇日だ。二一日目に、ヤツの前にスープをボトボト溢してやろう。這いつくばって、手のひらを床につけて、カエルさながら。床を舌で一生懸命舐める100869番の姿を想像しただけで、ファックなんかよりよっぽど楽しいじゃないか。しかし、あの、目だけがどうしても想像出来ないのだ。あの目が、床の汚物をうつすところを。頭ん中でさえ、這いつくばるアイツの目は、床ではなく生意気にもオレをうつしている。……。
 翌日から100869番には適当な罰を言い渡し、一食分のかわりに水だけを与える生活がはじまった。そのうち飯が食えず体力が落ちるだろう、そのせいで作業や運動に少しでも緩みが出れば鞭を振るうのだ。これがもうひとつの楽しみなのだが、100869番は、なかなかしぶといやつだった。一日目、自身だけ飯がないことに対して何を言うわけでもなく、二日目、三日目も同様、飯にありつく同房の傍ら、ヤツは鉄格子の隙間からぼんやりとした顔で外を見ていた。ふと、その横顔の耳たぶに、小さな穴が空いていることを、はじめて知った。ここに来るまでピアスをしていたらしい。ほぼ塞がりかけている、ホクロよりもずっと小さな穴だ。気づいたことに我ながら驚く。
 飯がない、ということ以外、100869番には何の変化もなかった。普段の態度も、作業も、見た目も、驚異的なほど正常だった。カメラの死角になるところで同房から飯をもらっているのかと思い二日ほど監視したが、それも違う。一度、ファックさせてくれるなら飯をやってもいいという話をひそひそと持ちかけられていたが、ヤツは眉ひとつひそめることなく、薄い微笑みさえ浮かべたまま、親切な提案だがやめておくよ、と余裕の態度で断ったのだった。ああ、ああ、くそ、100853番、汚ねえことを想像させやがって。お前らのセックスなんざ豚の糞以下だ。しかしまあ、女のいないこんな場所じゃあ、少し目鼻立ちの整ったクソ野郎でも極上の女にでも見えてしまうのだろう。憐れだなあ、お前らはよ。オレみたいにもっと賢く生きれたら良かったんだ。
 振り向いた足元で立ち止まっていた蜘蛛を踏み潰す。どいつもこいつも鬱陶しい。オレを見るんじゃねえ。


「なあ、アイツ何日目だ? 二週間は経った気がしてたんだが」
「今日で三週間だ」
 ロバートがさすアイツ、つまり、100869番の配給を停止してから、すっかり日が過ぎた。にも関わらずヤツは依然として顔色も様子も変わらないのである。隠れて食ってんじゃねえのかと笑うロバートの言葉に同意する他ない、オレは確かにヤツを監視して、そのなかでヤツは一口も水以外のものを口にしなかった、しかし、それでは説明出来ないほど、100869番の身体は異常に正常なのだ。どれほど強がっていても人間は本能、空腹には抗えない、きっとオレの知らぬところでファックし得た僅かな飯を必死に貪ってきたのか。憐れなヤツだ。ともすれば、そろそろヤツの眼前の汚ェ床にエサをぶちまけば、あの平静な面をとり地べたに顔をつける100869番の姿が見れるかもしれない。ファックで得る飯と床の残飯に違いなんてありゃしないだろう。三週間ぶりにヤツの分も含めた食事をワゴンにのせ、100869番の房に向かう。まずはいつも通り餌を配り、それから最後に100869番を呼ぶと、ヤツは数秒じっとオレを見つめてから立ち上がった。のろのろと歩いてくるのは衰えからではない。期待していないからだ。ああ、その通りさ。涎でも垂らしゃおもしろかったのに、どこまでいってもつまらねえ野郎だ。
「ご念願の飯だぜ」
 プレートをひっくり返す。
 100869番は地面にぶちまけた飯を見てはいなかった。どこまでも癪に触る目を、逸らさず、ずっとオレに向けていた。じっと。……いや、そんなに長い時間ではなかったはずだ。しかし、随分長いこと見つめあっていたような気分にさえなってくる。こいつの目は……。そうだ、こいつの目は。
 100869番はようやく視線を床へ落とし、ゴミも同然となった飯を一瞥した。そして微かに口角を上げ、何事もなかったかのように、元いた場所へ戻ったのだった。
 夢を見た。すぐに夢だと分かったのは、目の前にいる相手がとうの昔に死んだゴミで、オレはそのゴミのことなどすっかり忘れていたのだが、一度思い出せば、我ながら驚くほどありありとまあ忠実に再現されるものだから、オレは存外、このゴミのことを見ていたのか。それとも、脳が勝手に、補っているだけなのか。夢を見た。ゴミをゴミとして扱っているだけの、なんてことはない光景の。夢を見た。その目。夢を見た。その目をやめろ。夢を見た。夢を見た。やめろ。目。ゆ目を見た。
 夢を見た。
 その翌日、気がつけば100869番を殴っていた。タバコを吸うよりも、糞をするよりも当たり前のように、オレの暴力はオレの意識の外側で奴を捕らえていたのだ。むしゃくしゃする。どうしようもなく、すベてが。唇に血を滲ませる100869番を見ても憂さが晴れない。何なんだ、お前らのその目は。こんな肥溜めにいて何故そんな目が出来る。お前らの瞳が特別なのか。えぐり出してやろうかと伸ばした指を止める。相手がどうせ死ぬゴミとはいえ、さすがにそれはやりすぎだ。こんなゴミのために罰せられるのは気分が悪い。
「なんだ、やらないのか」
 100869番が言う。切れた唇の端を僅かにつり上げて。オレの暴力が透かさず奴を捕らえる。オレはなぜこんなに苛立っているんだろうか。分からない、ただ不愉快なのだ、その目が。
「お前もアイツも」
「アイツ?」
「そんな目を向けるな」
 ああ、腐れよ。おかしいだろ、こんな世界に生きていて。


 いよいよ100869番の死刑が執行される日がきた。その日は朝からいい日だった。妻の機嫌も良く、過ごしやすい気温で、空の雲はほどほどに流れ、ゴミたちは従順で、ロバートとの駆けには二万ジェニー勝った。100869番は最後まで大人しかった。身体の首と名のつくすべての部分を厳重に鎖で繋がれ、死刑台へと向かっているはずの足はうしろの道に一欠片の未練も落としていなかった。瞳は相変わらずだったが、もうすぐこれが濁るのだと思えばなんて気分の良いことか。
「お前ともようやくおさらばだな」
 自分の声の機嫌の良さに、我ながら笑ってしまう。ああ、もうすぐ。もうすぐだ。
「いつだったか。そんなに遠い昔のことじゃあない。お前同様、ムカつく目をしたゴミがいたよ。さんざん虐めてやったがな、アイツもなかなかしぶといやつだった」
「細い見た目の割には、かな。戦闘員じゃないとはいえ当たり前だよ。彼は戦闘が苦手でね、自分の身を守るのが精一杯の人間だったな。ただ、良い能力を持っててさ。それに何より、良いやつだった」
 何を言っているかはさっぱり分からなかったが、驚きのあまり口をつぐむ。これほど饒舌な100869番は初めてだった。黙れ、と100869番に警告するロバートは、話の内容までは聞いていないらしい。聞いていたとして、ロバートにだって分からないだろう。100869番が構わず続ける。
「捕まったと聞いて助けてやろうとも考えたんだが、用事があって出来ず仕舞いになってしまった。彼もクモだ。ある程度自分で何とかするだろうと思っていたら、死んだと聞いたときは驚いたよ。随分手厚い扱いを受けたようだな、アイツは」
「黙らないなら轡をつけるぞ」
 ゆっくりと振り返った100869番の目が。
「オレたちの目は、似てたのかい」
 死刑台へ続く扉を開く。眼前には逃れようのない死が準備されている。
 執行部隊へ100869番を引き渡そうとした、100869番の手のひらがオレの腕に触れた。瞬間。
 オレはオレを見ていた。
「……は?」
「行くぞ」
「いや、待ってくれ、ちょっと待ってくれ」
「騒ぐな! 轡をもってこい!」
「待ってくれ、なんでオレがいるんだ!?」
 自身のあらゆる部位にはいつの間にか鎖が重くのし掛かっている。執行部隊はなぜか100869番ではなく、オレを連れていこうとしている。何故。何が起きたんだ。夢でも見ているのか。これが白昼夢とやらなら、胸糞悪い昼寝にもほどがある。
「ロバート! おい! ロバート! 言ってくれ!」
「来い!」
「クソッ、やめろ! 畜生! どうなってんだよ!」
 首の鎖を引っ張られ、死刑台へと乗せられる。首の鎖が死刑台の頭上にかけられ、足元の台は死の口を開くのをいまかいまかと待っている。どうなってるんだ。どうしてオレがこんなところに。何故。何故!
 何故! オレがオレを見ているんだ!
「100869番、執行します」
 踏み台の口がぽっかりと闇を開けた瞬間、上の階からオレを見ているオレと目があった。ゴミを見るような、豚の糞を見るような。
 ああ、オレは、あんな目を。
 ……あんな目を、していたのか。


地獄(20230925)


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -