暑い日だった。首筋を伝う汗は止まらず、一見では分かりづらいが白いシャツの首元をじわじわと湿らせている。このままだと本が焼けそうだと、クロロは急ぎ足で図書館へ歩いていく。脇に抱えた二冊の本を自分の汗で濡らさないよう配慮しつつ、と、気を遣っていたのも短時間。少しでもこの暑さをなんとかしたいと思ったのだろう、片方の本を額に当て日光を避けようと奮闘するクロロの姿は微笑ましくもあるがちょっぴり滑稽だ。婦人がひとり、暑いわねえと話しかけてきたが、そうですねと頷く前に通り過ぎてしまったのでクロロは返事を諦めた。しかし本当に暑い。夏本番がやってくる前には、そうだな、あと一週間もしたら違う国へ行こう。できる限り涼しい国へ。
 一五分程度歩いて到着した図書館は、今のクロロには恐ろしいほど冷えていた。まず入った瞬間に汗が引き、本の返却手続きを済ませているうちに涼しい、から寒い、と感じるようになる。そのうち慣れるだろうとクロロは自身の右腕を軽くさすり、迷いのない足取りで二階へと向かった。歴史、美術資料、教養、児童書の棚を抜け、文学の棚にまでやってくると立ち止まる。読むものは決めていない。背表紙に人差し指を滑らせ、なんとなく気になったものを取り出した。日が落ちるまではこれを読んで過ごそう。それから帰る前に数冊借りれば良い。
 クロロが何とはなしに手に取った本は、とある映画監督が嘆きのルビーという、いわくつきの宝石を題材に映画をつくろうとする話だった。主人公はリックスターという男で名を馳せる映画監督だが、スランプに陥りなかなか新作が出せない。思い付いたアイデアも全てゴミのように思える。そんな折、ひょんなことから嘆きのルビーを手に入れるのである。耳をすませば、なかから女の泣き声が聴こえてくる、美しい宝石を。
 ある日、主人公はルビーを主演女優のローズに見せるべく、待ち合わせ場所のホテルへと向かう。ページにして二二八ページ。全体でいうと三分の二程度の部分だ。美しい宝石を懐に忍ばせながら、寂れた路地を曲がり、直進し、主人公は目的地である小さなホテルを目指す。薄暗い道を歩く。その道中ふと、今にも消えそうな蛍光灯の下で魚を食べる女の描写が出てきたので、クロロはそれまで流していた眼差しを止めざるを得なかった。それくらいあまりにも突然、魚を食べる女の一文が出てきたのである。
 何かの伏線だろうかとクロロは考え、再び文を追いかけた。主人公はホテルに到着すると、主演女優の待つ部屋へと入り、自身の心臓を披露するような繊細さで女にルビーをそうっと見せた。素敵ねと見惚れる主演女優に、主人公は耳を澄ませば女の悲しい声が聴こえてくるんだよと言いルビーを主演女優の耳元へと寄せる。しかし、主演女優に、ルビーの声は聴こえない……。
 物語は、実は嘆きのルビーから女の声が聴こえてくるなどという噂はなく、主人公が映画のアイデアのために殺してきた女たちの声が、ルビーを通して主人公にのみ聴こえていたという事実が判明し終わる。あとがきにまで目を通しパタリと本を閉じたところで、そういえばあの、突然登場した魚を食べる女の存在が作中で全く触れられていなかったことを思い出し再度ページを捲った。主人公が主演女優の待つホテルへ向かう道中の……「あれ」とクロロは思わず声を出した。自分の記憶とは違い、魚を食べる女が出てくることはなく、主人公はホテルに着いている。記憶が前後したのだろうかと近くのページを捲るがどこにも魚を食べる女の一文は見当たらない。最初から存在していなかったのか? クロロは顎に指を添え思案した。以前読んだ作品に登場する文章を勘違いで「ある」と思い込んでしまったのか。しかし魚を食べる女の描写などどんな本にも記憶にない。あったとしても、そんな描写などわざわざ記憶していない。それに自分は確かに主人公がホテルへと向かう道の途中で、魚を食べる女の描写を見たのだ。
 生温い霧にでも包まれたような気持ちでクロロは本を再び閉じ、窓から外を見た。あと一冊読み終える頃にはちょうど良い具合だろうかと同じ棚から本を取り出すと早速ページを開き、黙々と目を通した。彼の読み通り、その本を一冊読み終えたあたりで、太陽の光は威力を発揮することを止めたようだった。
 クロロは今しがた読み終えた本を元の棚に戻し、最初に手を取った「リックスター=キューブ」と、それから適当に気になった二冊を脇に抱え、貸し出し手続きをしてから図書館を出た。既に読み終えたリックスター=キューブを借りたのは、やはり例の魚を食べる女が気になったからである。
 住まいに戻り、新たに借りた二冊を読み、それからリックスター=キューブをもう一度最初から読み返してみたが、己の記憶には確かに存在する魚を食べる女の描写が文章として登場することはなかった。クロロはうーんと唸り、それからネットでリックスター=キューブの感想やら考察やらを調べてみたが、どうにも魚を食べる女の話など出てこない。試しに目を"凝"らして本を見ても、どこにでもある古びた紙の束だ。こうなってくると疑うのは自分の記憶である。クロロは最後まで唸りながらも、とうとうリックスター=キューブを、読み終えた二冊の本の上にポンと重ねた。
 しかし、魚を食べる女の存在が決して白昼夢でなかったことが後日判明する。
 図書館にて順調に本を読み進めていたクロロがピタリと指を止めたのは、唐突に、魚を食べる女が登場したからだった。彼が読んでいたのは「墓参り」という、そのタイトルの通り、家族で墓参りにやってきた少年が不気味な体験をするという内容の本だった。少年がお墓の上でしなる太い木の枝で首を吊っているおじさんに語りかける。そんなところで何をしているの。おじさんは答える。楽をしているんだよと。おじさんがいくら揺れようと、木の枝は丈夫で折れる気配がない。本当に立派な木だ。そんな木に凭れかかり、ひとりの女が、魚を食べている。少年はおじさんの答えに対して、でも楽しくはなさそうだよと不思議そうに眉をよせる……。と、こんな話である。クロロは慎重に、魚を食べている女の描写を読み返した。確実にある。指でなぞる。「リックスター=キューブ」同様、あまりにも突然登場した、魚を食べる謎の女。クロロはそのページを指で挟み、本を読み進めながらも、定期的にそのページを確認した。ある。魚を食べる女は、太い木に凭れている。けれどクロロが最後の一行まで読み終わったとき、魚を食べる女の一文は、幻のように消えている。今回は、自分の記憶を疑うまでもない。確実にあった。目を凝らしても見た。しかし、ただの本である以上の特別なものでもなければ、その一文のみからオーラが見えることもなく。クロロは溜め息を吐いてから、その日、五冊の本を借りて図書館を出たが、残念ながらどの本にも、クロロの期待した一文が登場することはなかった。つまり「魚を食べる女」はいずれにも登場しなかったのである。一体どういう基準で登場するのか? クロロは本の山に手を添え短い唸り声を上げた。今のところ、自分はあの図書館に五回通っている。大半は貸し出し。借りた本は計一六冊。はじめて魚を食べる女を発見したのは、館内で読書をしたあの日。何気なく手に取った一冊だ。次に女を見たのも、図書館で読んだ本のなか。しかしその日借りた五冊の本のなかに、女は登場していない。
 図書館で本を開いたときに女を見つける確率が高いのか、とクロロは考え、早速翌日図書館に向かい適当な本を一冊開いた。館内は相変わらずクロロ以外の利用者はなく閑散とし、司書の女が暇そうにパソコンを弄っている。妙な気持ち悪さがあるミステリー小説だ。小学生の主人公とその五歳の聡明な妹のもとに、ある日、主人公の死んだクラスメイトが虫になってやって来る。自分は殺されたのだと。そしてクラスメイトを殺した犯人に目星をつけた主人公が妹と共に犯人のうしろを追いかけるシーンで、待っていました、通りがかりのテラス席で魚を食べる女がいつも通り唐突に登場したのである。しかしさて、登場した。だからと言ってどうしたものであろうか。クロロは出来うる限りでこの謎に満ちた現象の正体を知りたいと思い、まずは写真を撮った。カメラには魚を食べる女の一文が、しっかりと写っている。なるほど、データには残るらしい。ということはこれは、まさにいま、紛れもなく実在している文章ということだ。次にクロロは、そのページを破ることにした。本でなくなりただの紙と化したときの反応が見たいという理由からだった。遠慮なくその一ページだけを破り、それからすぐに件の箇所を見たが、魚を食べる女の一文は、瞬く間に消えている。これは面白い発見だとクロロは頷き、それから、ページを破ってしまった本を素直に司書の元へ持って行った。破りました、弁償しますと。司書は目をぱちくりさせてから、どうして破ったのかと理由を尋ねた。

「魚を食べる女は破ったページにも存在するのか気になったんです」

 司書は困ったように、ああそれはそれは、と眉を下げた。
 破ってしまった本と同じものを買って持ってこいと言われたが、クロロが破った本は比較的新しいものだったため、代わりの本はすぐに見つかった。本を持ち図書館を訪れた際に、クロロは再び魚を食べる女を探すべく、棚から適当な本を手に取った。小説ではない、中世の歴史書だ。どんなジャンルに登場するかに興味があったからだった。今日の館内はいつもより活気があり、小学生の姿を数人見かけた。みな児童書を一生懸命顔に近づけていた。
 結論から言えば、歴史書のなかに魚を食べる女は出てこなかった。クロロはもう一冊、今度は美術資料を手に取り、それにも出てこなかったので、いつも通り小説を読むことにした。九九ページまで読み進めたとき、近くで児童書を読んでいた小学生がふいに「あっ」と声を上げたので顔を向ける。少女は慌てて口を閉じ、本を見てクスクスと笑い声を立てた。その様子を見てクロロがもしやと反応する。

「突然ごめんね。今、何に笑ったの?」

 表面上はあくまで遠慮がちに、そう少女へ声をかけた。
 
「ごめんなさい」
「あ、いや、怒ってるんじゃなくて。本が面白かったの? それとも、誰か出てきた? 例えば……」
「魚を食べてる女の人?」
「そう、それだ。やっぱり」

 少女はそうよと当然のように頷き、その女の人について知ってることはないかと尋ねたクロロに快く答えた。
 それはこの館内で読書をしたときにだけ出てくる人物らしい。何の脈がらもなく、突然魚を食べている女の一文が出てくるのだ。しかしそれ以外のことは何も分からない。誰も知らない。そのくせ、魚を食べる女の存在は、この図書館の利用者には案外広く知られているのである。本のなかを転々としながら魚を食べている女だと。
 クロロは話を聞いてから、少女が開く本のページを覗いた。小さな指が示す文章は、確かに魚を食べる女の描写が記されている。魔法使いの主人公が敵と戦うシーンだ。物陰に隠れて頭を悩ませる主人公。表にはたくさんの敵がいる。そんな主人公の隣で、呑気に魚を食べている女。クロロはふっと笑ってから、少女に「こんなところでも見たことがある」と、以前撮影したページの写真を見せるべく携帯の画像アルバムを開いた。
 しかしどこを探しても例の写真は見つからない。「この人はね、図書館の本のなかか誰かの記憶のなかでしかお魚を食べれないのよ」お姉ちゃんが言ってたわ、とお下げを揺らす少女に対し、完敗だなと一言呟いて、クロロは携帯のアルバムをそっと閉じた。
 


──元ネタ「魚を食べる女」糸宮さんのツイートより

親愛なる鈴蘭さんへ【2022.07.26】


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