コーヒーの匂いがツンと鼻をついた。
 あ、と思う間もなくコーヒーを手にした男性二人が私の傍を通り過ぎる。最近コーヒーを飲んでいないなと、ふと立ち止まり考える。
「どうかしたのかい」
 なんでもないと私は首を振った。ウイングが、疲れたんなら休憩しようかと喫茶店を指差す。私はまた首を振った。鼻の奥にツンとしたコーヒーの匂いが残っている。青い空のなかにひとつだけ浮かぶ濁った雲のように、強く頭に焼き付いて離れない。「休むなら公園がいいな」と私は笑った。自分で言っておいて、なんだかおばあちゃんみたいな提案だと思ったからだった。ウイングは頷いて、いいね、今日は快晴だからと私の手を引いた。シャツから石鹸の匂いがふわりと鼻を掠める。相変わらずだらしない寝癖が目についた。彼の言う通り、本当に良い天気だ。繋いだばかりの手が汗ばんでくる。
「なにか飲む?」
「ウイングと同じの」
「買ってくるよ」
 財布を取り出し自販機に向かうウイングの背中をベンチに腰掛け見つめていれば、彼の足元にころころとボールが転がってきた。続けて子供たちがやってくる。ウイングは子供たちにボールを渡した後、せがまれて人数分のジュースを買わされていた。完全に舐められている態度だが彼は心が広いので気にしていないだろう。優しすぎて時々不安になるが、私は彼のそういうところを好いている自覚がある。あの笑みにめっぽう弱いのだ。そのくせベッドで見せる眼差しの艶かしいことといえば、私は毎回ギャップにしてやられているのである。
 缶ジュースを二本抱えウイングがベンチに戻ってきた。
「さっきの子供たち」
「ああ。喉が乾いてたみたいで」
「フフフ、ねえ、一緒にサッカーしてきたら」
「ええ〜?手加減が難しいよ」
 ボールが彼方まで飛んでいってしまいそう、とウイングは私の隣に腰を下ろした。だらしなくて、シャツなんか年中ズボンからはみ出ているけど、彼が案外力強いということを私は十分知っている。私の太ももを掴む手のひらが実はごつごつしていると、さっきの子供たちは思いもしないだろう。彼は子供にも猫にも犬にも舐められやすい。見ているこっちがヒヤヒヤしてしまうくらい優しくて、穏やかで、だから私はこのひとが大好きなのだ。キスをするたび、セックスをするたび、私はこのひとの一部になりたいとさえ思っていることを彼が知ったらどう思うだろう。彼の血でありたかった。骨でありたかった。肉であり、皮膚でありたかった。その熱に溶かされてなくなってしまいたいと幾度思ったことだろう。
 まさに春の陽気だった。私たちはぼんやりと太陽の光に煽られながら、何をするでも話すでもなく、ただベンチに腰を下ろし缶ジュースをちびちびと飲み続けた。風はほとんど吹いていなかったが、遠くの木々は揺れていた。次のカーテンは緑色がいいなと呟いたら、ウイングはこのあと見に行くかいと言った。少し考えてから、今日はいいやと首を振る。
「映画観て帰ろう。アクションが観たいな」
「ロマンスじゃなくていいの?」
「今日はアクションの気分なの。ウイングもそっちの方が好きでしょ」
「どっちも好きだよ」
 缶ジュースを飲み干してからウイングは立ち上がった。公園の中央では元気にサッカーを続けていた子供たちを、親が迎えに来たようだった。
 近くのシアターにて上映中の映画のなかで、アクション要素が比較的含まれているのはハンターが主人公の物語だった。子供でも大人でも楽しめるという宣伝を何度かテレビで見たことがあったが、その謳い文句通りシアターには親子から私たちのような恋人まで幅広い年齢層の客が座っている。ハンター、と私は唇のなかでひとりごつ。引き出しの奥で見つけたハンターライセンスを思い出す。あれは本物なのだろうか。だとすれば彼は、一体いつ、話してくれるのだろうか……。
 物語は主人公の女ハンターが新たな仲間と旅の約束を交わすところで幕を閉じた。画面いっぱいに花びらが舞う美しいラストには、大人だけでなく子供も涙を誘われたらしい。隣で静かに涙を流す少年につい見とれてしまうが、彼は私の視線になど気付かずただ画面を眼差し、頬を拭い、物語から去らんとしている主人公の後ろ姿を一生懸命に見送っていた。私は映画ではなく、その少年の美しさに感動し、子供とはなんて尊い生き物なのだろうと涙せずにはいられなかったのだった。
 ウイングも映画を気に入ったらしい。ここが良かったあれが面白かったねと私たちは語り合いながら、頭の隅ではやはり、あの少年の涙を浮かべていた。子供。私の腕には、決して抱けない、尊い生き物……。
「ご報告があります」
 帰路に買った缶チューハイを何本か空け、ほどよく酔いがまわった頃に我ながらわざとらしい咳払いをすれば、つい先ほどお風呂から上がりソファーで寛いでいたウイングは「えっ」と目を見開き慌てて本を閉じた。栞を挟んでいなかったが、いつものことなので指摘はせず、実は先週からカラテを習いはじめました、とピースサインをつくる。ウイングは三秒間ぽかんと口を開いたあと、遅れて言葉を飲み込んだ風に「運動音痴のあなたが……!?」と目を丸くした。
「うん。ウイングのことは私が守らなきゃって思って」
「ナマエはボクを何だと思ってるんだい……」
 シュッシュッと拳を突き出す動作をすればウイングは「ハハハ」と柔らかくそして愉快そうに笑ったあと、本を開こうとして「ああっ」と焦ったような声を出した。栞を挟んでいないことを察したらしい。パラパラと本を捲りながら「それにしてもびっくりしたなあ」と溜め息を吐いた。
「改まって報告だなんて、てっきり妊娠でもしたかと」
「やだ。ゴムつけてるのに」
「ほら……この前つけなかったでしょう、お互い酔った勢いで」
「もし赤ちゃんの報告だったらどうしてた?」
「急いで指輪を買いに行ったよ」
 思わず左手の薬指がぴくりと反応した。この男は、ときどきこうしてずるいことを言う。「じゃあ、嘘つけば良かったね」なんてバカみたいなことを呟けば、今からつくるかいなんてウイングはもっとバカみたいなことを囁いた。彼の筋肉質な腹部をシャツ越しに思い出し疼く。ああ、ソファーじゃ嫌なんだけど、わざわざベッドに行くのも恥ずかしい。
 セックスをした日は、必ず赤ん坊を抱く夢を見る。腕のなかに赤ん坊がいる。私の子供であると分かる。ああ、どうしよう、どうやって捨てよう、いや、捨てられないのだ、私は母親になってしまったのだと赤ん坊に怯えている。どうしようと震えているうちに、目が覚める。隣でウイングが眠っている。またメガネを掛けたままだ。そうっと外してから、彼は赤ん坊が欲しいのだろうかと太い髪に触れ考える。
「いま何時……」
 ウイングが掠れた声で言った。六時と答えながらモゾモゾと動く彼のお腹に腕を回す。あったかい。ウイングの体温が好きだ。溶かされてそのまま一緒になってしまえたら良いのに。「もう少し寝てられるね」うん、と返事をした私の声も掠れて弱々しかった。出来ればずっと寝ていたい。こうしていたい。ウイング、と甘ったるく名前を呟けば、彼は「ねえ」と私の背中を撫でた。
「ん」
「武術なんか習わなくても大丈夫だよ」
「なんで」
「ボクが守れるから」
「ん〜……」
「結構強いんだよ」
「まあ、筋肉は、あるよね」
 知っている。私が守らなくてもウイングが自分の身を守れるくらい強いことも、引き出しの奥にあったハンターライセンスが、本物なんだろうってことも。出会った当初の私が「普通」を求めていたから明かしてくれないんだろうってことも、ほんとうは全部分かっている。普通じゃなくても、こんなに愛してしまったのに。
 ウイングの身体は引き締まっていて、余計なものがほとんどない。比べて私には醜い脂肪ばかりが乗っているのに、このひとの身体はなんて美しいんだと、何度胸が鳴ったことだろう。美しく逞しいが、脆い腕だ、と相反することも私は感じている。私も同じだから。私たちは十分に結婚をしておかしくない年齢で、十分に赤ん坊をつくれる年齢だけど、お互い赤ん坊を抱くには脆すぎる腕であり、子供を抱えることは出来ないのだ。
「ウイングは、子供好きだよね」
「ええ、まあ」
「欲しい?」
「ナマエは?」
「私は欲しくない、かな……」
 こたえながら、私はウイングの腕に抱かれる赤ん坊を想像する。脆い彼の腕に抱かれた赤ん坊は力なく泣いている。ウイングが困って赤ん坊を落としてしまおうとする。そこに、赤ん坊の母親がやってきて、その逞しい腕で抱き止めるのだ。ウイングは安心して、ようやく本の続きを読める。けれどその母親は、私ではない……。
「じゃあボクも子供は欲しくない」
 私の耳たぶをふにふにと触りながらウイングは言った。
「じゃあって何」
「先生には憧れるけどね。父親になる自信はないなァ」
「……私もおかあさんになりたくない……」
「ハハハ、お互い親には向いてなさそうだ」
 いいえ、きっとウイングは良いお父さんになるだろう。その脆い腕を支えてくれる女性に、力強く子供を抱き締めるお母さんに出会えたら、彼は世界一素敵な父親になれるはずなのだ。私は母親になれない。なるのが怖い。子供を産んだその瞬間から、一生母親であり続けるということが恐怖でしかないのだ。どうしてだろう、私は、普通の家庭で、普通に愛情を受けてそだったはずなのに。どうして母親になるのが怖いのだろう。このひとと幸せな家族を築きたいと思う気持ちは嘘じゃないのに。
 二人でいれば幸せだよとウイングは笑った。鳩時計が七時を告げたが、もう少しだけ眠っていようと私は腕に力を込める。きっと赤ん坊なら死んでしまうほどの力でもウイングなら平気だから、私はなんの不安もなく目を閉じていられるのだ。彼はほとんど吐息のような声で、ナマエの気が済むまでと私をよりいっそう引き寄せた。乳房に彼の割れた腹筋が触れる。ああ、本当に溶けて消えてしまいそう。カーテンの外で鳥が鳴いている。子供の笑い声がする。隣の部屋から漂うコーヒーの匂いがツンと鼻をついた。この二人のまどろみが、出来るだけ長く続けばいい。


【20220412】ここはあたたかい羊水のなかで


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