クロロがひとりの女に惚れ込んだ、という話が旅団のなかで囁かれるようになったのは、そう遠くもない、つい一週間前の話である。言い出しっぺはフィンクスだった。本拠地に留まるクロロに対して「珍しいな」程度に考えていたのが二週間前で、正装をして毎晩どこかへ出掛けているなと怪しんだのが一〇日前、そして、ふとしたときに、クロロがなにか、歌のようなものを口ずさむことに気が付いたのが八日前。ごくごく小さく短い鼻歌だったが、フィンクスには心当たりがあった。隣町で現在クラシックコンサートが行われていると、町を適当にぶらぶら歩いている際ポスターでちらりと見ていたのだ。ポスターに大きくうつる女がなかなか美人だったので、なんとなく記憶の片隅に残っていたのである。
 そんなわけなので、フィンクスにはなるほどと合点がいった。クロロが珍しく本拠地に留まっていることも、正装で毎晩出掛けていることも、時折口ずさむ鼻歌のことも、あのポスターの美女のことも。ニタリ顔でまず最初に連絡をいれたのはシャルナークだ。うそだあと笑って流そうとするシャルナークに根拠を上げれば「オレも帰る」と数日後には本拠地へ帰ってきた。おそらくシャルナークが連絡を入れたのであろうが、彼が本拠地に到着する頃には、ほとんどの団員が揃っており、フィンクスとクロロの二人だけだった静かな本拠地は、いまから大仕事でもはじまるんじゃないかという雰囲気に包まれている。
「とうとう団長にも春が来たってか」
「ハ、何が春ね」
 酒を煽るノブナガの隣でフェイタンが鼻を鳴らす。
「私は信じられないわ。マチはどう?」
「同感。だって団長だよ? 舞台女優に惚れるとかないでしょ」
「おーよー、でもかなり美人だったぜ」
「ちょっと黙ってて」
 口を挟むフィンクスにパクノダがぴしゃりと言った。心なしかいつもよりピリピリしている様子である。シャルナークが「あ、あった。これだろ」とパソコンの画面を一堂に突き出せば、そうだそれだぜ、とフィンクスは頷き、他の面々は食い入るように画面に表示されている公演情報と、その主演女優の顔を見た。確かに美しい女である。月光姫、というタイトルを見たシャルナークが「オペラじゃん」と小さく溢したが、クラシックとオペラの違いを把握していないフィンクスには通じなかったようで、だからそう言ってるだろうがよ、と返されてしまう始末だ。音楽って点は一緒だしどうでも良いかと諦め、電脳ページで主演女優ナマエ=カライスの情報を表示させた。
 今世紀で最も美しい声を持つと言われるオペラ歌手。その美貌の虜になった男は数知れず。ある富豪が彼女のために資産の半分以上を費やし宝石を捧げたという話は有名。
 顔を寄せて画面の文字を黙読する団員の姿に驚きながら団欒室にやって来たのはクロロである。「何かあったのか?」と目を丸くして尋ねたのは、出掛けている数時間のうちに、昨日まですっからかんだった本拠地が賑やかになっていたからだ。まさか自分が騒ぎの中心だとは思わない。クロロはクリーニングから返ってきたスーツと買ったばかりの五冊の本を抱えているのも忘れ、シャルナークのパソコンへ一直線に向かう。映っているのは例のオペラのポスターだ。
「いいタマじゃねェか、オイ団長さんよォ?」
 ノブナガがニタニタと画面を示す。
「ああ……」
 クロロはやや目を細めてから「写真より実物の方がいいな」と薄く笑った。その目が獲物を狙う鷹の眼差しをしていると同時に、僅かだが熱を持っていることに気付いた団員たちは素早く目を合わせた。それからサッと逸らした。これはすごいぞ、本気だ。完全に惚れている。
「いやァ、そこまで言うなら相当だな。その実物とやらを拝んでみたいぜ」
「意外だな。ノブナガも興味あるのか?」
「あったり前だろ」
 どこが意外だ、興味を持って当然だろうという気持ちでノブナガは大きく頷いた。クロロは腕のなかのスーツとノブナガを交互に見てから「サイズは無理そうだな」と独りごつ。
「興味があるなら今晩来るか? それまでにスーツは自分で用意しろよ」
「おっ!? おお、まじか!」
 すぐに盗ってくるぜ、と興奮した様子で本拠地を飛び出したノブナガに、クロロはなんだそんなに興味があったなら最初から誘ってやれば良かったなと心のなかで満足気に微笑んでから、さて自分も支度をするかとさっさと自室に行ってしまった。心なしかその足取りが軽く見えるのは、団員たちの目にフィルターがかかっているからかもしれない。そもそもクロロの足取りはいつだって軽いのだ。
 一七時三〇分開場、一八時開演で、クロロとノブナガは一七時四〇分には入場者列に並んでいた。「なかなか進まねェな」と耳打ちするノブナガはクロロの言い付け通り堅苦しいスーツをぴっちりと着こなし、髪を一本に結んでいる。クロロもクロロで赤の蝶ネクタイなんかつけて、それでも様になっているのでノブナガは馬鹿に出来なかった。本当は赤の蝶ネクタイダッセーくらい言いたかったのだが。
 クロロは前方を一瞥してから伏せ目がちにくすりと笑った。ネオンライトが彼のピアスに反射する。
「チケットがないと騒いでる客がいるらしいな。今日はもう満席のようだし、失くすとは残念な奴だ」
「ほォ。で、その残念な奴のチケットは?」
「これだ」
 と、クロロはスーツの内ポケットからチケットを二枚取り出すと、一枚をノブナガに渡し「わざわざお前のために盗ったんだから有り難く思えよ」いたずらそうに口角を上げた。確かに、自身のチケットを前日から用意していたクロロからすればわざわざな話である。「ビール三杯でどうだ」ノブナガが立てる三本の指を見てクロロは眉を寄せ、ケチだな、五にしてくれとノブナガの手を軽く小突いた。そうこうしているうちに列が進んだので、二人はチケットを係に渡し、半券を切ってもらい入場した。二人のチケットはバルコニー席一階のAからF列内での自由席だったので、ノブナガはクロロに着いてゆくままにE列の真ん中あたりに腰掛けた。初見だとこの辺りがオススメらしい。
「音響だけでいうなら最後列に座ったほうがいいんだが、今日の目的は歌じゃないしな」
「今日どころか毎日通ってるヤツがよく言うぜ」
「それくらい魅力的なんだよ。今に分かる」
 ノブナガは口笛でも吹きそうな気分を紛らわせようと周囲を見渡し、壁を見てから「あんなとこにまで席が埋まってんのかよ」と目を見開き、横からじゃ舞台も見えづらいだろうによォと続けた。クロロも釣られて壁に視線を送る。
「ボックス席か。ミッテルロージェは皇帝の指定席だったこともあって今でも人気は高いらしいが、三階以上になってくると舞台はほとんど見えないぞ。観劇ならバルコニー席が一番だ」
「なんだよそのミッツェルなんとかって」
「中央二階のボックス席のことだよ。今じゃ金持ちアピールがしたい見栄っ張り用だろうな」
「ほーん。オレにゃあ一生縁のない文化だぜ」
 ノブナガはまだまだ珍しそうに会場内を見渡し、今度はオーケストラピットに目を止め「舞台の下で演奏するのか?」と不思議そうに人差し指をさした。
「舞台上だと芝居の邪魔になるだろ」
「あんな狭苦しいところで演奏しなんざ、曲ならテープにでもすりゃァいいのにな」
「……」
 言いたいことは色々あったが溜め息だけに留めた。
「あ、ノブナガ、先に伝えておくが」
「?」
「拍手のタイミングはオレに合わせろ。間違えるとかなり浮く」
 ノブナガが顔をしかめたちょうどその時、拍手が沸き上がった。指揮者が登場したための拍手だったが、ノブナガには指揮者の登場した瞬間が見えなかったのでクロロを含めた観客らが一体何に対して拍手をしているのか全く理解できず、おそらく会場のなかで唯一不思議そうな、キョトンとした表情で手を叩くばかりだ。女を見に来ただけのはずが、へんてこりんな儀式にでも連れて来られた気分である。
 ノブナガの気持ちを知ってか知らずか、クロロは指揮者に目を向け拍手をしたままニヤリとした。
「ちなみに上映は四時間だ」
「よっ!?」
「たまには芸術を楽しめ」
 勘弁してくれと漏れたノブナガの声は拍手に消され、ほとんど聞こえなかったのは幸いか。
 ストーリーはよくある悲劇だった。主人公は結婚を控えた貴族の娘で、ある日、屋敷に忍び込んだ義賊と恋に落ちてしまう。女の父親は非道な悪党であるため義賊は殺すつもりでいたのだが、女の悲しむ顔を見たくない、しかしそんなことを言ってるようでは仲間に顔向け出来ないと葛藤を抱きながら娘に会いに行くのだ。娘は娘で指名手配中の義賊を好きになってしまった自身の心や、間近に迫った結婚の問題で悩む日々を送っている……。
 ノブナガはあくびを噛み殺しながらも、貴族の娘にはそれなりにしっかり意識を向けていた。確かにクロロの言う通り、画像で見るよりも実物の方がより美しい。胸元に光る赤い宝石が小道具のひとつなどではなく、本物であることにノブナガは気が付いた。良い女がつけると一層輝いて見えるモンだせなどとノブナガは考えながら、隣をちらりと盗み見れば、クロロは熱心に女を見つめている。笑いを堪え、ノブナガも舞台上の女に視線を戻した。そう遠くない未来、仲間になっているかもしれない女である。酒が飲めるといいな。ワインよりビールが好きなら上手く付き合っていけるだろう。仲間に見せる顔とはまた違うクロロの一面を女の口から聞くのも楽しみである。
 ノブナガはなんだかしみじみした気分で舞台、というより女を見ていた。しかし途中休憩があったと言えど四時間はさすがにキツかったようで、舞台が終わるとくだびれた顔で、居酒屋にも寄らず、本拠地に帰ってくるや否や「どうだった?」と尋ねてくる団員を無視しそのまま寝た。


「今日オレ付いてっていい?」
 クロロが自室で着替えている最中、そうひょっこり顔を覗かせたのは、タキシードに身を包んだシャルナークである。付いていってもいいかと聞いているものの既に準備万端といった姿にクロロは小さく笑ってから「好きにしろ」と蝶ネクタイを結んだ。今日は藍色。ちなみにシャルナークは無難に黒の蝶ネクタイを着けている。
「シャルは歌劇目的か?」
「まさか。本物を拝みにってとこ」
「揃いも揃ってそんなに興味があるのか」
「当たり前じゃん」
 興味があるどころか団員の大半は二度の飯よりクロロの女のことしか考えられなくなっており、当のクロロは知るよしもないが、今日こうして同行する団員がシャルナークに決定するまでにも一悶着あった程である。しかしそもそも何故一日一人までなのかといえば、さすがに大人数でクロロの逢瀬の邪魔をするのは気が引けるという、暗黙の配慮のためだった。
「あ、もうチケット持ってるから。前列用でしょ?」
「オレが断っても付いてくる気満々じゃないか」
「まァね。明日も行くならパクとマチも行きたいってさ」
「二人が? 構わないが同時には無理だな。別日にしてもらわないと」
「え、なんで?」
 女に限り一人ずつではなく二人で着いていこうとしたのは、万が一カップルに見えないようにというマチとパクノダなりの配慮だったのだが、それが通じないほどクロロは鈍感だっただろうか? とシャルナークは小さく首を傾げる。クロロはさも当然と言わんばかりに鏡から目を離すことなく答えた。「二人のレディを同時にエスコート出来るほど器用じゃない」。惚れた女が主演の舞台観劇に行かんとしている男の言葉じゃないだろ、とシャルナークは突っ込む代わりに「相っ変わらずだな〜」と唸った。今度はクロロが首を傾げる番である。
「そーゆーの、これからは止めた方がいいと思うなァ。ヤキモチ焼かれるぜ」
「? 誰に?」
「惚けなくていいよ。今から会いに行く女」
「…………ああ、なるほど。お前そんなロマンチシストだったか?」
「何がロマンチシストだよ。絶賛ロマン中なのは団長でしょ」
「ハハハ、確かにな。実物見て惚れるなよシャル」
「おっと、それはどうかな」
「困るな。オレの獲物なんだが」
 クロロと女の話で盛り上がる日が来るなんて、とシャルはちょっと嬉しくなって、会場へ向かいながら一目惚れだったのかだの、もう声は掛けたのかだのと根掘り葉掘り尋ねた。野暮な話題かと若干避けていた節があるが、キッカケを手に入れたとあれば別である。「ああ、以前から存在は知っていたが、偶然ポスターで見かけたときは想像以上の美しさに驚いたな」「まだ声は掛けてない。手元に置く前に舞台上で堪能するのも一興だろう。公演が全て終わったらいただくさ」クロロもあっけらかんと話した。なるほど、女をまるで宝石の如く例えたセリフ回しは盗賊団の長としてふさわしいだろう。ややクサい気もするが浮かれているなら仕方ないか、とシャルは微笑ましく頷いた。
 ノブナガほどではないにせよ、さして興味のない公演を四時間見続けるというのはシャルナークにとっても些か辛かったようだが、帰り道に物語の感想や解釈を語れるくらいの余力は残っているようだった。本拠地に戻りクロロが自室の扉を閉じると、待っていましたと言わんばかりに全団員がシャルナークを振り向く。両手を上げヒラヒラと手を振る。
「ベタ惚れだね。女ばっか見つめちゃってさ」
「そりゃな。昨日もそうだったぜ」
「女を指差して「美しいだろ」とか「輝いてるだろ」とか聞かれたときには参っちゃったよ。公演終わるの五日後? 手にするのが待ち遠しいってさ」
「ヒュー! あんまりオレらの前でベタベタされるのは勘弁だな」
 ガハハハ、と笑い声が沸き上がるなか、全く笑っていないのはマチとパクノダである。コイツらのノリには付いていけないね、乗りたくもないわ、と目とジェスチャーで会話していれば「盛り上がってるな」と上着を脱ぎ額の包帯を外した姿でクロロがやってきた。
「団長も飲むか。酒ならまだあんぜ」
「遠慮しておく。今日中に読みたい本があるんだ」
「お熱い夜の後でも本の虫は健在か!」
「マチ、パクノダ、シャルから聞いたがお前らも行きたいんだってな。明日はどっちにするか決めといてくれ」
「あ、アタシら二人で」
「一人ずつにしてくれ。明日のチケットはオレのと合わせて二枚分しか用意してない」
 ドレスは自分で用意してくれよ、と言い残し、クロロは再び自室に戻った。マチとパクノダが目を合わせ、それからシャルナークを見た。肩を竦める他ないので彼はそうした。「ん」フェイタンが投げたコインをマチが酒缶を置いて受け取り、そのまま手の甲に乗せもう片方の手で覆ったまま「表」と宣言する。「裏」パクノダが続ける。コインは表だ。
「明日はアタシね」
「髪どうする? せっかくだしセットしてもらう?」
「あんまり考えてなかったけど、パクはとうすんの?」
「そうねェ、オペラなんて滅多に見に行かないし……」
 マチがフェイタンへコインを投げ返した。
 フランクリンが新しい缶を開ける。
「女は服着て終いじゃねェから大変だな。暇だし美容室まで送ってやろうか」
「ありがと。でも適当に行くからいいよ」
 返事をしながらマチも新しいビール缶を取り、指をプルタブにかけた。既に八本以上の缶を空にしているがペースは衰えることなく、ぐびぐびと飲んでいる。
「メイクだの髪だのと面倒くさそうだぜ。オレァ男で良かったよ、拳ひとつありゃ十分だからな」
「ナハハハ、お前は女にゃ向いてねェわ!」
「おえ〜想像させんなよ」
「酒が不味くなっちまうぜ」
「ハハハハ!」
 何が面白いかと問われればおそらく何も面白くないのだが、酔っ払った男達は訳も分からず大爆笑している。マチとパクノダは白い目で彼らを一瞥した後、そろそろ寝ようと自室へ戻った。
 翌日。
 一〇時にパクノダが目を覚ます。男共はまだ寝ているが、そろそろマチは起きてくるだろうかと朝ごはんを済ませ、団欒室のソファーに座りテレビをつけた。一二時になって「飲み過ぎた」と頭を抱えながらようやく起きてきたのがシャルナークだったので、パクノダは流石にマチを起こしに部屋へ向かった。一四時には美容室へ行きたいと言っていたはずなので心配になったのだが、扉を開けたマチは顔を青くして一言。「ヤバい二日酔い」である。男には負けるにせよ、そういえばマチもそれなりに飲んでいた。こうなっては仕方ないので急遽パクノダが行くことになり、時間までに支度を済ませクロロと本拠地を出た。興味がなかったわけではないが、そう機会もなく歌劇観賞は初めてである。何だかぼうっとした気分で舞台の登場人物達を眺めて一幕が終わった。二幕までに二〇分以上の休憩があるらしい。バーカウンターにでも行くか、というクロロの提案に、いえ外の空気を吸ってきますと言ってパクノダは席を立った。当然のようにクロロも付いてきたので、二人で劇場を出てベンチに腰掛けた。
 上着を羽織ってきたのでちょうど良かったが、それがなければやや肌寒いと感じていただろう。夜の街は昼とは違う姿で活気づいている。二人の目の前を中年のカップルが歩いていった。
「どうだ」
 クロロが発した三文字の問いかけはあまりにも短かった。主演女優のことを聞いているのか芝居のことを聞いているのか判断出来なかったパクノダは「まだ、よく分かりません」少し迷ってからどちらとも取れる言葉で返した。クロロはそうかと頷いた。月の光が彼の髪をより黒く艶やかに照らしていた。
 三幕目にて、貴族の娘は父親か愛してしまった義賊の男か選択を迫られる。家族には優しいとて、悪に染まったとんでもない男だ。それに父親を選べば対して好きでもない男と結婚しなければいけない。それでも娘が選んだのは父親であった。愛しているといいながら義賊に別れを告げるのだ。父親の悪事の全てを知った娘は短剣で父親を殺し、その後を追って自害をしてしまう。義賊は何も知らずに、ただ娘と会えない苦しみを嘆くばかり……。
「どうだった」
 本拠地までの帰路、クロロはそう再び尋ねた。パクノダは近くを通り過ぎた車を眺めてから、遠くの光を見た。
「彼女は何のために死んだのでしょう」
「パクはどうしてだと思った?」 
「……正義、というもののためかしら」
「ハハハなるほど」
「団長はどう考えたの?」
「オレか。そうだな……」
 クロロはじっと考える風に顎に指を添え、それから瞳をパクノダへ向けニヤリと笑った。
「ナイショ」
「ちょっと」
「まだ解釈がまとまってないんだ」
 今度改めてな、とズボンのポケットに手を突っ込むクロロにパクノダはそれじゃ待ってますと目を細め、今夜のオペラ観劇の本来の目的はすっかり忘れているようだ。帰った後いい女だったかとマチに聞かれ、そういえばという風に思い出した程である。確かに美しい歌声だった、とだけパクノダは答えた。あまり女を見ていなかったし、見ていたとしても、顔より胸元の赤い宝石に注目してしまっていたからよく覚えていなかったのだ。


 約一ヶ月続いた公演もいよいよ今晩で終わりを迎える。
 いつも通りの時間に出掛けたクロロを見送る団員の眼差しは様々だった。早速女を連れて戻ってくるのだろうか、いや本拠地には連れて来ないだろう、今日は帰って来ないんじゃないか、しかしまだ声をかけていないらしいじゃないか、まあ団長のことだ口八丁手八丁に口説き落とすだろうさ……。
 公演終了時間になり、日付を越え、丑三つ時を過ぎたが、それでもクロロが帰って来る気配はなかった。パクノダはとっくに寝た。フェイタンとマチも自室に戻った。他の団員は酔いつぶれ、そのまま団欒室で眠りこけた。
 朝になり、クロロが戻ってきたことに一番に気がついたのはフィンクスだった。あくびを噛み殺しながら団欒室に入ってきたクロロの気配で目を覚まし、頭を掻きながら「朝帰りたァお楽しみだったみたいだな」ニタニタ笑いながら起き上がる。「ああ……」やけに神妙な顔でクロロが頷いたので、もしや女との相性が良くなかったのかとフィンクスが下卑た想像を浮かべてしまったのも仕方ないだろう。
「残念だ。舞台上では魅力的に輝いていたんだが」
 クロロが膨らんだポケットに手を入れる。
 ナマエ=カライス。今世紀で最も美しい声を持つと言われるオペラ歌手。その美貌の虜になった男は数知れず。ある富豪が彼女のために資産の半分以上を費やし宝石を捧げたという話は有名。
「オレはもう堪能した。お前ら随分関心があったようだし、欲しければ勝手に取り合ってくれ」
 フィンクスがそれを受け取った。
 ──貴族の男が社交界デビューを果たす自身の娘のために製作させた首飾り。九八カラットにも及ぶ唯一無二の巨大ルビーは、特にシャンデリア下で燃えるような輝きを放つ。通称、赤の淑女。


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