「オレは小説含め本が好きなんですが、そういえば、完成までの過程を知らないなとふと思ったんです。もちろん知識としては存じていますが、この目で見てみたくなりましてね。あなたの小説を読みました。全てです。どれも素晴らしかった。それで、今は新作を執筆されている最中だと伺ったものですから、どうでしょう、見学させてはいただけませんか。もちろんお金はお支払いします。仰っていただければいくらでも」
 クロロ=ルシルフルと名乗った青年は、柔らかな声で、物腰丁寧にそう私に頼んできた。額に巻かれた包帯がまず目に入り、次に大きな丸い、宝石のようなピアスに視線がいく。それから彼の黒く艶やかな瞳と、私のおそらく濁りきっているであろう瞳が交わった。風が強く吹き、私たちの髪をぶわりと舞わせてゆく。私は驚いていた。驚きの表情で彼を見ていたに違いないのだが、彼はまったく笑みを崩すことなく、じいっと私の返事を待っている。なんだか健気でありながら、眼差しの奥底に今まで感じたことのないすさまじい、圧のようなものがあった。少なくとも私にはある気がした。ぶわりとまた風が吹き、誰かの洗濯物であろうピンクのタオルが顔面を覆った。剥ぎ取る。クロロという青年は変わらずそこにいる。
 非常階段の鍵が壊れていたという理由だけで登った屋上だった。このクロロという青年がどこからやってきたのか、同じように非常階段から登ってきたのか、そもそもどうして私がここにいると分かったのか、下ばかり見ていたので分からない。下を見て飛び降りようとしていた私には、この青年の頼みの真意が分からない。
 果たして私は承諾した。彼の言い知れぬ美しい圧に、いや、己の好奇心に負けたのである。どうせ死ぬならば、死ぬと決めているのだから、時間など別に惜しくはない。書き上げる気のなかった小説の続きを考えるのは少し難しいが、まあ、このクロロという青年に付き合う間頑張ってみるのも悪くはない。3ヶ月もすれば満足するだろうと期限を提案すれば、意外にもすっぱり断られたので驚いた。
「期限は設けない。オレの気が済むまででお願いしたい」
 なるほど厚かましい青年である。


 執筆は特別な行為ではなかった。特に依頼もなく納期のない私は急ぐ必要がなかったので、筆が乗れば進むし、手が止まれば別のことをした。小説の続きを考える作業はしない。普通に生きるのだ。生活をする。洗濯をしたり、掃除機をかけたり、コーヒーを飲んだり、そういう類いのことだ。そういう「普通」の端っこに、クロロという青年が入ってきただけの話だった。彼は朝適当な時間にやってきて、調子はどうだと問う代わりに原稿用紙を一瞥し、あとはソファーに腰掛けて持ってきた本を捲っている。進むかどうかも分からない執筆をはじめる前に彼の肩を叩き、コーヒーを机上に置いて原稿と向き合う。彼が後ろでじっとこちらを見ている気配にはいつ慣れるのだろうか、いや、慣れるも何も彼には意外にも存在感がない。ないというより薄いのだ。作業の邪魔になるだろうとあえて消しているのだろうか。有り難いがちょっと不気味だ。
 全盛期は速筆だった。時間さえあれば何字でも書けたし、筆が止まるのは情報収集の時くらいだった。キリのよいところまで書かないと悶々として寝れず、横になって5分、結局起き上がり朝まで書き続けるということも多々あった。私にとって執筆は呼吸だった。登場人物は子であり、友であり、先生であり、そして私自身だった。嬉しいことがあれば書き、悲しいことがあれば、また書いた。書くことは生きることだった。私は書くことにより己の感情をコントロールしていたのだ。
 さて、書けなくなったのはいつからだったろうか。筆を握って10分。「生きていた」頃ならば原稿用紙1枚は埋まっているような時間が過ぎてもなお、たった3文字しか進んでいない。しかしの3文字だけである。そのあとに続く言葉が分からない。そう、分からなくなってしまったのだ。今までなら何も考えず、息をしていたはずなのに。
 やや冷めたコーヒーを飲み込む。
 クロロという青年は、おそらく、相変わらず、じっと目を澄ましている。
 一向に進む気配のない執筆を見て何が楽しいのだろう。彼は私の小説のファンらしいが、こんな姿を見て、全く様子には出さないが、失望したに違いない。飽きたら勝手に去れば良い。別に金もいらない。青年の興味が失せば私も死のう。
 しかし以上に進みそうになかったので筆を置いた。
「ちょっと散歩に行くけど、キミはどうするの」
 立ち上がりコーヒーカップを持つ。残りはシンクに流そう。冷めたコーヒーは好きじゃない。
「じゃあ、せっかくだし付いていこうかな」
 本を脇に抱え青年も立ち上がった。異性と並んで歩くなどいつぶりだろう、しかもこんな美丈夫ととは。若ければ踊る胸もあっただろうが、今は何だか惨めにすらなる。適当に羽織ったコートにはシミがついていた。
 緑地は閑散としていた。人もなく、風もなく、噴水の水がちょろちょろと力なく湧いている。踏んだ落ち葉がかさりと音を立てた。
 クロロという青年は、盗賊の長をしているらしい。無論信じてはいない。くだらないジョークだろう、くだらないことは嫌いじゃないが、あの時ばかりは笑えなかった。ムッとしたのだ。今から私はあなたに全てを見せるというのに、自分のことは秘密にするのかと。意地になって、そっとしておこうと思った額の包帯について聞いてしまったとき、それでもすぐにはっとして口をつぐんだ。とても失礼なことをした気分になった。なぜか彼にとってそれが、非常に大事なもののような気がしたのだ。私のこういった勘はよく当たる。
 しかし彼はなんでもないように包帯を取り、そのしたにある十字架を見せた。そして「額に刺青は目立つだろ」と、やはりジョークのような軽さで笑ったほどだった。
「春になると桜が綺麗よ。今は少し、寂しい景色だけど」
 私はコートのポケットのなかで意味もなく手を動かした。家の鍵が指先に当たった。
「ジャポンという国では桜の下で酒を飲む文化があるらしいですね。花見といったか」
「驚いた。あんな小さな島国を知ってるの?」
「先生もお詳しいはずだ。「はじまりの小鳥」の国のモデル、あれはジャポンでしょう」
「……ずいぶん初期の作品だわね。今じゃどこにも置いてないわ」
「あなたの作品のなかで最初に読んだものだ」
 記憶を辿ろうとする風に人差し指を唇に添え、10年以上前だったかなと青年はひとりごち、それきり口を閉じた。ポール時計の上にカラスが留まりかあかあと鳴いていた。青年の横顔は、あのカラスの凛々しさや、艶のある黒い羽や、否応なしに漂う不吉とよく似ていた。カラスはかあかあと鳴いていた。カラスの鳴き声はどうしてこう人の心に言い知れぬ不安をもたらすのだろう。
 はじまりの小鳥の主人公も、人一倍カラスの鳴き声に不安を感じる少女だった。そして、それは物語にとって重要な役目を担っていた。彼女はカラスの鳴き声から危機を見いだし、カラスの鳴き声から解決策を導きだし回避することが出来た。カラスの鳴き声のなかから、彼女は他の人間には分からない、このせかいの秘密にさえ等しい真相を聞き取ることが出来たのだ。
 私がはじまりの小鳥の舞台をジャポンにしたのは、主人公のモデルがジャポン出身の友人だったからである。友人は鳥を深く愛し、鳥の言葉を理解しようと、どんな鳥の嘴にさえ用心深く耳を澄ませる人だった。しかしそれがいけなかったのだ。彼女は耳を澄ませすぎたのだろう、鳥の嘴によって最後は死んだ。理由は未だによく分からないが、彼女の死体は、彼女の家中の鳥の餌になっていたらしい。警察官が家の扉を開けたとき、なかからは一斉に鳥が飛び出してきたそうだ。カラスは最後まで、彼女の腸を漁っていたらしい……。
 友人の奇妙な死とは遠く、はじまりの小鳥は当たり障りのない、なんの面白みもない物語になったと思う。思う、というのは、それが世間の評価だからだ。
 私は近くの木の前に立ち止まって、じいっと幹を見つめた。「何かありましたか?」青年も同じようにした。「いいえ」私は素っ気なく答えた。
「この部分が、少し、子供の眠っている顔に見えただけよ」
 私は手でそっと幹を撫でた。
「なるほど。小説のアイデアはこういった部分から?」
「さあ。そういうときもあるかもしれないけど」
 幹から離した手をポケットに突っ込み再び歩きはじめる。クロロという青年はあくまでも自然に、私の右隣をキープしている。私が突然立ち止まっても、それから急に歩き出しても、道を曲がっても、自分がそうしたいからそうしているんだとでもいうような平然さで身体を動かしている。道を決めているのは私ではなく青年であるという錯覚。私の行く先は私が選んでいるのだろうか、それとも青年が決めているのだろうか、それとも、もっと違う、大きな何かが指示しているのだろうか。ポケットのなかの鍵に触れる。手にはまだ、木の皮の感触が離れずに張り付いている。


 クロロという青年は定期的に姿を見せなくなる。1週間だとか、1ヶ月だとか、そういう単位で消えてしまうので、正直私は困ってしまう。青年が満足するのはいつだろう、そろそろ飽きただろうか、死んでしまおうかしらと考えていても、そうして青年が消えてしばらくのうちは律儀に続けている執筆をもう止めようとしたタイミングで戻ってくるので、結局私は、完成させるつもりのない、完成する予定のない話を書き続けるはめになる。あの日青年が屋上に現れてから物語は少しだけ進んでしまった。ゴールのない道に立たされた可哀想な登場人物たち……。……。
 この頃よく夢を見るようになった。私がまだ「生きて」いた頃の夢だ。ふうっと息を吐けば主人公が歩き、まばたきをすれば物語が進む。止まらぬ筆を嬉々として動かし続ける私を、青年がじいっと見つめている。さあ見てちょうだいという気持ちでまた一枚原稿が埋まる。ああ、良かった、息が出来ている。まだ生きていける。青年が原稿を読んでいる。どこかでカラスがかあかあと鳴いている。不吉だ。せっかく素敵な夢なのに。青年が顔を上げる。カラスが。
「期待外れだ」
 鳴いている。
 2ヶ月ぶりに青年がやってきた。連絡先を交換しようと提案したことがないので、彼の訪問も消失も、どちらもいつも突然だった。これからも。きっと互いの電話番号を知ることはないだろう。
「この前寄った街の書店で、先生の本のフェアを見かけました」
 青年が言った。読み終わったらしい本をぱたりと閉じてキッチンへ向かう背中を見つめながら、そうなの、と返事をした。キッチンやトイレなら好きに使ってくれと言って以来、彼はたびたびコーヒーを淹れるようになった。家にマグカップは私の分しかなかったのでいつも味気ない紙コップで飲んでいるが、かといってマグカップを用意する間柄でもなく、私は最近小説よりもマグカップについて悩んでいることが多い。現に原稿を見つめている今も、次にくる言葉ではなく、意識はキッチンの青年に向いている。
「新作が楽しみだと話している客がいましたよ」
「そう、それは、申し訳ないわね……」
「書き上げる気がないからですか?」
 原稿から目を離す。意味もなくペンをくるりと回してから、再び目を原稿に落とした。
「フェアで並んでいたなかに、初期の作品はあった?」
「ん?……いや、なかったかな。個人的には幸福の家やはじまりの小鳥が好きなんですが」
「私の作品のなかで評価が高いのは哀愁よ」
「前作か。あれも良かった」
 私は今度こそ原稿から顔を逸らし、ペンを置いて、コーヒーをちょうだいと青年に言った。青年は片手に紙コップ、片手に私のマグカップを持って戻ってくると、机の端に寄せられた原稿を一瞥してから腰を下ろした。机に置かれたコーヒーを取る。「映画でも観ましょう」先生が観るならと青年は頷いた。特に観たいものがなかったので、DVDプレイヤーに入れっぱなしにしていたローマの休日をそのまま流した。映画の本編をぼんやりと眺めながら、ケースはどこにやっただろうかとばかり考えていた。考えごとをしていると延々にコーヒーを飲んでしまう癖がある。私のコーヒーは映画の序盤でなくなってしまった。マグカップを持ち席を立つ。
「止めましょうか」
「ううん。すぐに戻るわ」
 青年は視線をテレビに戻した。画面のなかではアン王女が散髪をしている。
 マグカップに注いだコーヒーをレンジで温めてから席に戻ったが、自分で提案しておいて、結局映画には集中出来なかった。深く眠っているような気持ちに近かったかもしれない。とにかくそれくらい安らかな気持ちで私はただ画面を見つめていた。
 けれど映画が終わりエンドロールまでも済んでしまうと、漠然とした恐怖がやってきた。私は一体何に怯えているのだろう、今も、今までも、いや、今までなら恐怖など感じていなかったのだ。終わらせることは仕事だった。私の終わらせたものが世にでていき、誰かの心のなかで続いていくのだ。それなのに、終わらせることに対して恐れを抱くようになったのはいつからだっただろうか。いつからか、物語を終わらせるたびに、こころのなかの不安が募っていくようになった。息が出来ない。書くことは私の全てだ。呼吸。そのはずだった。私そのもの。いつから書けなくなったんだろう。眠るように、食べるように、セックスをするように書いた。鼓動。
 書けなくなったのだ。私は、私そのものしか書けないというのに。私以外を書こうとして、書けなくなったのだ。おそらく私は作家というものに向いていなかったのだろうと、今ならば思う。私は私そのものしか書けない人間だが、作家というものは、世間のニーズに応える仕事なのだから。それなのになぜか私は作家というものになってしまった。世間のニーズに応えなければいけない作家というものになってしまったのだ。応えよう、応えようとしているうちに、私は、呼吸の仕方を忘れてしまったのだ……。
「正直に言うと、もう書けないの」
 真っ黒な画面を見つめたまま私は言った。
「自分が作家に向いていないととっくに気がついてたの。でも止められなくて、担当に、世間に、言われるがまま書き続けたわ。段々とね、書き上げるのが怖くなってくるの。ああ、次を書かなきゃいけないって。息苦しいのね、そうなってくると、おかしくなりそうだった。執筆は私にとって呼吸だったの。呼吸がちょっとずつ、出来なくなってくるのよ……」
 それはほとんど独り言だった。そこにクロロという青年がきちんと座って話を聞いているのかどうかすら分からなかったが、もはやそれでも良かった。
「私が書きたいのは小説じゃなかったんだわ。物語じゃなかった。私は私そのものを書きたかっただけよ。どうして評価なんて求めたんだろう。はじめはね、たった1人からの感想が嬉しかったの。ネットに投稿したのよ、素人が投稿するようなサイトのひとつにね、当然私も素人だった。読みました、面白かったです……それだけの言葉だった。それだけで本当に嬉しかった……」
 テレビは相変わらず闇ばかりうつしていた。プレイヤーがきゅるきゅると鳴り、外ではカラスが鳴いていた。「オレは」青年が口を開いた。落ち着き払った調子で、たった3文字の言葉に妙な色気と貫禄があった。
「故郷から旅立って間もない頃、あなたの本を読んで泣いたよ。はじまりの小鳥だ。失礼かもしれないが波乱の展開もなかったし当たり障りのないラストだった。世間の評価は低かったらしいな、妥当だとも思う。そんな作品になぜ泣かされたのか、あのときは分からなかった」
「今は分かったの?」
「残念ながら明確な答えは出ていない。でも、おそらくだが、オレは主人公に少しだけ自分を重ねたんだ。本の登場人物に感情移入するなんてそれが初めてだったよ」
 青年がどんな表情をしているのか分からなかった。淡々としているものの強い説得力のある声だけが耳に届いた。
「最初にも言ったが、あなたの作品は全部読んだ。どれも素晴らしかったというのは本心だ。あなた自身を書いたという初期の作品も、呼吸が苦しいともがきながら書いた哀愁も、オレは等しく素晴らしいと思った。正直に言おう。オレは小説は好きだし、あなたの作品を好んでいるが、それだけの理由で執筆作業の見学を続けるほど暇ではない。やりたいことはたくさんあるものでな。あなたが新作を書いていると聞いたのも、それを見にきたのも事実だ。何せ最新作から2年経っているというのに短編のひとつも書いていないのは流石におかしいだろう。きっと渾身の一作を書いているに違いないと来てみれば死のうとしている。他人の生死に興味はないが、あなたの死は惜しいと思った」
 作品単体でならともかく気に入っている作家というのは存外少ないんだ、と青年は続けた。
「死はこの世で一番易しく、おそらく生こそが最も難しいが」
 私はいつの間にかクロロという青年を、クロロを見ていた。彼はいたずらそうに口角を上げていた。自分の作品の言葉を目の前で引用されるというのは少し恥ずかしかったが、気にしていない風に、なんでもない風に装った。つもりだった。装えていなかったかもしれない。泣いていたから。我慢していた全てが涙となって流れているような、こころの奥から、涙が溢れて止まらないような感覚だった。
「書いてくれ。オレはあなたという人を読むよ」


 クロロという青年と別れてそろそろ1年が経つが、私は未だ生きている。死のうともせず、コーヒーを飲みながら、昔のようにとまではいかないが、それでも執筆を続けている。終わりは見えないが焦ることはない。しかし、さて、この小説を読む青年の驚きを考えると、はやく書き上げてしまいたい気持ちにもさせられる。嫌な顔をするだろうか。喜ぶ姿は想像出来ないが、彼にはジョーク好きな一面があるし、くすりとくらいならば笑ってくれるだろう。主人公を死から救う、盗賊と名乗る不思議な青年。名前は、クロロ=ルシルフル。
【20211218】心を剥いであなたの海で


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