もう、退屈ったらありゃしない。毎週日曜日のこの時間が、長い一週間のなかで一番嫌いだ。足音の響く博物館も、レプリカばっかりの展示物も、博物館ツアーの参加者の子供たちも、そしてそのガイドをするママも、ぜーんぶ嫌いだ。私は子供たちのうしろで、もう吐き飽きてしまった溜め息をまた吐いた。
 ママの心配性がなおればこのつまらない日曜日から抜け出せるんだろうけど、おそらく、きっと、たぶん、いや、絶対。なおることはないのだ。ママの心配性はずっと昔、面倒なツアーガイドを「やりたい」と進んでやっているママが実はすごい学者で、その娘である私が誘拐されたときからはじまった。私にそのときの記憶はほとんどないけど、ひとつだけ、ママがわんわん泣きながら私を抱き締めていたことだけは、覚えている。私は自分が危険な目にあっていたことなんてちっとも分かっちゃいなかったけれど、ママの泣く姿をみて、私も泣いた。そうしたらママがもっと泣くから、私ももっと泣いたのだ。これが私の一番古い記憶であり、同時にママが心配性になったきっかけである。
 今となってはママを心配性にした誘拐犯のことが憎くて憎くてたまらない。せっかくの日曜日を、誰が好き好んで毎週、こんなところで無駄にしなくちゃいけないんだろう。博物館ツアーなんかなくなっちゃえばいい、とおまじないをかけようとしても、ツアーガイドを楽しんでいるママが悲しむのはやっぱり嫌で、どうしてもおまじないが唱えられない。おまじないの代わりに、ママのセリフならすっかり唱えられるのに。
「セアカドリは数億年以上前から地上にいましたが、当時は多くの恐竜のエサになっていました。自分の身を守るために、背中に毒を持つようになった、と言われています……」
 ママの言葉に重ねて呟く。実は私だってツアーガイドになれちゃうのだ。
 うしろに着いていくだけじゃなくて、せめてママと一緒にガイドが出来たら楽しいんだろうなと思う。でもママは、私がツアーに混ざって、みんなと一緒にママの説明を聞いているのが楽しいんだと信じて疑わないのだ。ママの説明なんかちっとも楽しくない。ママと違って、ツアー参加者と違って、私は動物に興味がないのだから。「将来はお母さんと一緒で学者さんかな?」なんて先生、私のこと全然分かってない。私は大きくなったらお姫様になって、ハンサムな王子様と結婚するのよ。ママだって応援してくれてるし、大きなお屋敷には、王子様と、私と、ママの三人で住もうねって約束だってしているんだから。
 ママが模型のクジラを指差す。
「一二九年前に絶滅してまったこのデカバナスクジラが、主にセアカドリを捕食していたことが分かったのは実はつい最近です」
 私はママの言葉に合わせて呟く。
「デカバナスクジラはセアカドリが大好物なのでセアカドリが毒を持った後も食べ続けました。その結果、デカバナスクジラはルイスラジシンという毒のみ分解できるようになったのです。そしてそれを解明したのが、じゃーん、この私です」
 ママがクジラの代わりに自分を指差す。ツアーの子供たちはみんな、ママのすごさをちっとも分かっていない目でクジラの模型ばかり見ている。ママは自分から指を離し、子供たちの見学の邪魔にならないようにそっと脇に控える。
 ほんとう、こんなもののどこがいいんだろう。キラキラした宝石と、可愛いぬいぐるみのほうがよっぽど素敵なのにな……。


 その日もいつもとおんなじ、うんざりするような日曜日だった。歯を磨かされ、顔を洗わされ、髪を溶かされ、服を着替えさせられ、ニコニコしているママに手を引かれながら博物館に連れられて、子供たちのうしろに着いていく。うしろでこっそりとツアーガイドになりきるか、月曜日の授業について考えるか、欲しいぬいぐるみのクマを頭のなかに浮かべながらなんとか退屈をやり過ごす。
「大人一枚。××博士の博物館ツアーを」
 お昼の回のツアーがはじまる一〇分前だった。入り口近くのソファーに座っている私の耳に、男の人の、そんな声が聞こえてきたのは。
 ママのツアーは子供向けだけど、大人が参加することも実はそう珍しくもない。だけど、今日の男の人は、なんというか、変だった。おでこに包帯を巻いているし、大きなピアスをつけているし、なにより、私のうしろを歩こうとするのだ。私こそがこのツアーの一番うしろであるべきなのよと、なにも分かっていない男の人に、私は堂々と言った。
「前にどうぞ」
 男の人は「ん?」と小さくこぼしてから私をじっと見つめて、それから「いや」と否定した。
「オレはここでいいよ。そんなにうしろだとガイドの説明が聞こえないだろう、お嬢さん」
「困らないわ。だって私、ママの説明も展示物もぜんぶ覚えてるもの」
「ママ?」
「ママよ。あのツアーガイドが私のママ」
「へェ。キミ、××博士の娘か」
 私は短く、しかし誇らしげにそうよ、と答えた。
 男の人は私のママに会いにきたらしかった。というのは、うーん、ちょっと違うかもしれない。男の人は、正確には「博士が博物館のツアーガイドをしているなんて、珍しいと思ってさ。仕事もなくて暇だったから、きてみようかと」と言った。声は小さく、ママのガイドに遠慮しているのだと分かったが、それでも私の好奇心は抑えられなかった。次々に質問が溢れた。仕事ってなに? その包帯ってどうしたの? 大きいピアスね、重たくない? 宝石? 彼女はいるの? 名前は? そうだ、あとでママとお喋りさせてあげようか……。男の人はママの話に耳をかたむけながらも、いちおうちゃんと私の質問に答えてくれた。盗賊をしていて仕事は盗み。包帯のしたには大事なものがあるから内緒。ピアスは宝石で、少し重たいけどもう慣れた。彼女はいない。名前は、クロロ。
 仕事が盗みなんて、やっぱり変な人だ。名前も。「コロコロした名前ね」私が言うと、クロロは「それははじめて言われたな」と笑った。それでも彼はしっかりママの説明と展示物に意識を向けていた。
「変わった名前だと言われたことはあるよ」
「誰に?」
「占い師。いや、元占い師かな」
「素敵! クロロは占いが好きなのね」
「どうだろう、好きか嫌いかで考えたことがなかったな。あの時は必要があっただけだが……」
 クロロは顎に指を添えて、興味深くはあるが普通の占いはあまり、と呟いた。これはひとりごとなんだ、と私は察したが、それでも「そうなんだ」と返事をした。そうしないと、彼のなかの私という存在が消されてしまいそうで、嫌だったのだ。
 クロロがふと私を見た。
「そういえばキミ、ガイドの説明を全部覚えているって言ったけど、本当?」
「本当よ。私だってママみたいにガイド出来るんだから」
 クロロは、ふうん、と頷いた。
 私はいつも通りママに合わせて展示物の説明をしたが、いつもと違うのは、私のガイドを聞いてる人がいるということ。でもクロロは全部知っているとでもいう風に、知っていることを改めて確認しているのだとでもいう風な表情だから、私は少しつまらなくなってしまった。なにか、クロロを驚かせる、なにか……。「あっ!」と私は閃いた。昆虫の偽物ばかりがあつめられたブースに入ってすぐのことだった。
「ジェムオオクワガタ……」
 私はひとつのクワガタを指差してひそひそと言った。
「ああ、腹部が宝石の。絶滅したのは一〇〇年以上前だったか」
 クロロはやっぱり知っている風だった。
 ジェムオオクワガタの宝石にはとても信じられない値段がついていて、私は実物を見たことがないけれど、なんとクロロは見たことがあるのだと言った。「美しかったが三日で飽きた」彼は模型のお腹の部分をじっと見つめ、案外よく出来ている、と頷いた。私は彼のいう「本物」を想像しながら、彼と同じように模型を注意深く眺めた。
「ママがね、ジェムクワガタを見つけたのよ……」
 私は模型を見つめたまま言った。
「オオクワガタではなく?」
 クロロが尋ねた。
「うん、腹部に宝石をくっつけてるんじゃないの。つくるんだって。最近ママが見つけたんだ……」
「それはすごいな。宝石をつくる昆虫か」
 盗賊としては放っておけないな、とクロロは微笑んだ。そっか、クロロは盗賊だもんね、と私も笑った。
 ママは、ジェムクワガタの存在を発表するべきかで悩んでいる。発表したらきっとジェムオオクワガタみたいに、乱獲されて、そうして、絶滅してしまうからだ。「ジェムクワガタはね、きっとオオクワガタの生まれ変わりなのよ」お腹に宝石を持って生まれたばかりに狙われて殺されてしまうから、今度は身体の一部じゃなくて、つくれるようになって生まれてきたんだわ、きっと……。
 クロロは静かに私の話を聞いていた。それから、生まれ変わりか、と呟いた。穏やかなのに、深く暗い、深海のような声だった。私は返事をしなかった。こころのなかで「生まれ変わりか」という彼の声を繰り返した。
 クロロはジェムオオクワガタを見ていた。だけど、もしかしたらもっと他のなにかを見ていたのかもしれない。私にはそのなにかを、まだ理解出来ないんだろうと思った。


「お嬢ちゃん、××博士の娘なんだってね」
 次の日曜日、そう話しかけてきたのはクロロじゃない男の人だった。私は今日もクロロがいるんじゃないかってドキドキしていて、だから夜の回の、最後のツアーになってもクロロが来なくて少し残念だったから、クロロじゃない男の人が話しかけてきたとき、ついツンとして「だから何?」なんて、そっけない態度をとってしまったのだ。
 男の人はなにも答えず、ただニコニコして、私のうしろを歩こうとした。そこはクロロと同じだった。
「前へどうぞ」
 だから、あのときと同じように私の前を指差したら、男の人はやっぱりニコニコしたまま、けれどクロロとは違って素直に私の前を歩いた。満足なんてしなかった。いつもと同じ、つまらない日曜日だと思った。博物館の展示物も、ママの説明も、ツアー参加者の子供たちも、このクロロじゃない男の人も。
「……つまんない……」
 やっぱり日曜日なんて嫌いだ。吐き飽きてしまった溜め息を吐いてから鳥類のブースを出ていくツアーの群れを追いかける。
 追いかけようとした。
「お嬢ちゃん」
 男の人が私を呼び止めた。ツアーのみんなはもう行ってしまった、私たちも早くいかなくちゃいけないのに。あ。
 あ。
 ……。
 首のうしろが痛いな、とぼんやり思った。手足が動かないから、縛られているんだって分かった。あんまり目も見えなかったけど、薄暗くて、自分が地面に横たわっていることが、分かった。なんとなく……どこかで、経験したことのある……ずっとずっと、昔……。
 ぼわんぼわんした耳で、どこからかドサ、と音が聞こえた。目の前でなにかが倒れて、顔に風がふわっと吹いた。
「××博士の娘の誘拐計画は、風の噂で聞いていたが」
 頭上で声がした。ぼわんぼわんした耳で、私はようやく聞き取れた。
「ジェムクワガタの話を聞いて理解したよ。お前も災難だったな」
 優しくもあり、けれどつめたい声だった。生まれ変わりか、と私はこころのなかであの言葉を繰り返した。 
「ツアーガイド代だ。足りないだろうがまけてくれ」
 少しだけはっきりした目で、精一杯首を動かしてあたりを見渡した。クロロの足元が一瞬だけ。
 見えた。
 最後はずっとずっと昔の、あの日と同じだった。ママが私を抱き締めてわんわん泣いて、ずっとずっと泣いて、私はちっとも怖くなんてなかったのに、怖かったね、ごめんね、もう大丈夫よと言って私の頭を撫でるのだ。ママの心配性がますますひどくなりそうだなと私は考えながら、あの日と違って、私はママと一緒に泣いたりしなかった。「ママ、私、学者になろうかな……」ママをぎゅっと抱き締め返して呟いたが、わんわん泣いているママには聞こえなかったかもしれない。
 ママみたいなすごい学者になって、いつかクロロが驚くような発見をして、ママみたいなツアーガイドになるのだ。ツアーの先頭に立って、そうしたらいつかクロロが来るかもしれないから、彼の知らない話をいっぱいして驚かせてあげよう。
 泣かないでママ。平気よ。私、王子様に助けてもらったわ。だからお姫さまはもういいの。学者になって、いっぱい勉強して、ママみたいな偉い学者になって、王子様をガイドしてあげるわ。彼、自分のことを盗賊だなんていう、包帯を巻いた、ちょっと変な王子様だけどね。


とある日曜日、もしくは誰かの初恋の話


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