「ほんとうに死んだと思った」
神妙な顔で腕を組んだナマエがそう呟きながら頷いた。本人は至って真剣なので失礼だろうとは思いつつも、堪えきれず溢れた笑みにナマエの鋭い視線が飛んでくる。「アハハハ、ごめんごめん」軽く謝罪をすれば彼女は、アンタねえ、と眉を下げ困った風に微笑んだ。ああ、良かった、大丈夫そう。こうして困った風に笑うとき、ナマエは大して怒っていない。
一瞬、やけにチカリとした。
気のせいだ。ナマエを見つめる。
「走馬灯って流れるんだよ。ほんと。すごかったんだから」
「へェ。覚えてるの?どんなのだったかって」
「うーん、まあ。これまでの人生全部を写真で並べて、一気に眺めた感じだった、かな」
ふうん、とオレは頬杖をつき、彼女の話を半分に聞きながら窓の外に視線を送った。その隣でナマエは自身の体験から、走馬灯について色々と調べた話を身振り手振りで熱く語っている。人によって走馬灯の内容は全く異なり、それこそ彼女のように今までの人生が全て流れることもあれば、人生の一部分だけが鮮明に、自分でもこれほど詳細に覚えていたのかと驚くほどくっきりと再現されることもあれば、全くデタラメな、経験したことのない記憶が頭を過ることもあるらしい。よほど自身の経験に興奮したのだろうか、ナマエにしてはよく調べている。ふうん、と相槌こそ適当なものの、彼女の話は少し面白い。しかしオレより団長に話すほうが、より関心して話し相手になってくれるだろうにとも思う。
「それでね。あー、聞いてる?」
「もちろん」
「私、ほんとうに死んだと思ったときさ。変な話だけど」
「うん」
「その、死にたくないなって思ったの」
少しだけ言いづらそうにナマエは言った。眉間にシワを寄せ、それでも口元には笑みを浮かべ、瞳は申し訳なさそうに揺れている。「ま、死にたいヤツなんていないでしょ……」軽く笑ってやろうと思ったが喉は上手く鳴らなかった。申し訳ないだなんて、誰に対してそんな気持ちを。「でも、死ぬのが怖いなんて、思わないでしょ」みんなは、と彼女はオレを見つめた。なるほど、申し訳ないだなんて、オレたちに抱いているのか。
もしくは。
死が怖いという感情を理解するのは確かに難しい。もう少し、いや、もう少しどころではないもっと昔には、死に対して恐怖を感じていた気もするが、今となっては、よく分からなくなってしまった。この世には死よりも怖いものなどいくらでもあって、それらに比べれば、死はなんて易しいことだろうとさえ思う。でもナマエは怖いんだなァ、と心のなかで納得してから正直に「確かに怖くないね、オレは」と肩を竦める。彼女は笑った。困った風でも悲しそうな風でもなく、単純に、よくある雑談のなかでするようにクスクスと笑った。
「シャルが怖がってたら笑っちゃう〜」
「怖がってなくても笑ってんじゃん」
「アハ、ほんとだ。ま、でもやっぱさ、どうせ死ぬなら未練なく死にたいとは思うよね」
「ん、それは同意できるかも」
「でも未練なくさっぱり死ぬのも味気ないよね」
「一瞬で意見変わってんじゃん」
グラスのなかで溶けた氷が残り半分程のアイスコーヒー上に水となって被さり、層をつくっている。もしこれが人生最期に飲むコーヒーになったとしたら、さすがに未練が残るかもな……我ながらくだらない考えだ。いつ死ぬかなんて分からないのに、未練になんか構っていたら何にも出来なくなりそうで、そのほうがよっぽど怖い。店員を呼ぶ。チカリ。
「アイスコーヒーおかわり」
やって来た女の店員にグラスを渡す。それをナマエが視線で追いかける。
「まだ残ってたのに」
「ん?まあ、余計な未練は残したくないでしょ」
何よそれ、と彼女はおかしそうにくしゃりと笑った。
チカリ。
あれ、そういえばオレ、なんでナマエと喫茶店なんかで話してんだっけ。窓のそとを歩いている子供たちを一瞥しながら、はたと疑問に思う。隣でナマエがオレを見ている。「どうしたの」シャルナーク、と彼女がオレの名前を呼んだ。チカリ、光る何かに目を細める。窓際の席は好きだが今日はやけに眩しくて鬱陶しい。
「悪、ちょっと移動しない?」
「どこに?」
「窓際じゃなかったらどこでも良いよ」
「なんだ、喫茶店から出ようって意味じゃないの」
ナマエは短く頷いてから、自身の荷物を持って席を立った。
「ま、そりゃそうね。どこにも行けないもんね……」
「え?」
チカリ。窓ガラスの向こうを歩いていた子供たちが、じっと此方を見つめていて、思わずドキリとした。あまりにも似ていたからだ。かつての。
チカリ。
うしろから「ここでいいよね〜!」ナマエが適当なテーブル席に腰を下ろし、ぶんぶんと手を振っている。あ、うん、と小さく声を溢しながら再び窓ガラスを振り向くが、子供たちの姿はすでになく、ベビーカーを押す女が通り過ぎただけだった。
「シャル?」
ナマエがやや怪訝そうに呼ぶ。
「ごめんごめん、ちょっと」
「ちょっと?」
「いや、外を歩いてた子供が、似ててさ……」
「誰に?」
「誰にって、……」
チカリ。
テーブルの上に花が落ちていた。無造作に。萎れている花もあれば、まだ内側に水分を含んでいる花もある。「は?なにこれ」他の席に行こう、そう提案しようとしてナマエと視線を交えるが、ダメよ、と彼女は花から目を離さずそう言った。
「これは私のなの」
ナマエの花、とオレは無意識に繰り返した。彼女の花。彼女の、ための花。オレが、彼女の、ために、買った、花。
チカリ。
「シャルナーク」
あれ、なんでオレ、ナマエと喫茶店なんかで話してんだっけ。なんでナマエがいるんだっけ。だって、確か彼女は。
チカリ。
ああ、ダメだ、陽のひかりはこんな場所にまで届くのか。鬱陶しいな。オレ、あんまり太陽って好きじゃないかも。この花も。「私は好きだよ」ナマエは慈しみをこめた声で、それなのに、好きだよと言いながら花を手の甲で払い落とした。机上からパサリと落下する花の様子に見覚えがある。そうだ、オレは彼女のために買った花を、こうして結局すぐに捨てたのだ。供える場所がないからと。
これはオレが買った花だ。誰よりも死を怖がっていたにも関わらず、あっけなく死んでしまったナマエを憐れんで買った花だ。
「シャルナーク」
ナマエがオレを見つめていた。
どうして死んだ人間と話をしているのだろう。いや。答えなら知っている。チカリ。ああ、こんなものなのか。彼女が怖がっていたものは、やはり易しい。
ナマエがオレを見つめている。
「どうだった?」
「え?」
「未練は」
「……ナマエは?」
「私はたくさん、あったよ」
「アハハ、だろうね」
「シャルは?」
ナマエは一度口をつぐみ、切なそうに瞳を震わせた。
「楽しかった?」
チカリ。
眩しくて目を細めて、次にまぶたを開けたとき、目の前にはナマエもテーブルも落ちた花も何もなく、代わりに砂場が広がっていた。
ほとんど機能していない眼をぼんやりと動かし隣を見れば、カラスが数羽、カアカアと鳴きながら群がっている。ブランコがぎいぎいと小刻みに揺れている。手首を鎖で固定され、無理やり座らされているのは、そうか、オレか。
チカリ。ああ、まぶたの裏が眩しかったのか、なんておかしいな。まぶたは暗闇を得る場所なのに。
身体の感覚はもうないのに頭だけは最期まで動いてくれるなんてご立派だ。足下を歩くカラスがじっとオレを見上げている。
そっか。オレは死ぬのか。
実感してもなお、やはり死に対する恐怖は湧いて来なかった。死は易しいと思う気持ちも変わらない。だって、痛みも苦しみも感じないのだ。このまま死んでいくのだとしたら、本当になんて易しいのだろう。
「シャルナーク」
ナマエがオレを見つめていた。寂しい眼差しだった。
何でそんな目で見るんだろう。好きなように生きたんだよ、オレ。好きなヤツの下で、好きなヤツらと共に生きて、十分楽しかったのに。面倒なことや厄介なことは、ま、嫌だったけど。それも含めて、楽しかったって言えるくらいには、楽しかったのにな……。
でも、死ぬのが怖いなんて、思わないでしょ
思わない。死なんて全然怖くないはずなのに。
「……ああ……」
掠れた声で呟く。
くそ、もうちょっとだけ生きていたかったみたいだ、なんて。