割に合わない、という言葉は、ターゲットへの最大の賛辞である。それを踏まえた上で、ポロリと口から零れ出るのだから仕方がない。「割に合わないな」しかしイルミも仕事なのだから、ますます仕方がない。やるか。少し手間取るだろうが、失敗することはないだろう。むしろ幸運だと思えば良い。ターゲットとは連絡先を交換している仲で、そして何より、まさか殺されようとしていることなど知らないのだ。何食わぬ顔で呼び出し酒でも飲ませ、緩みの隙に殺せば良い。しかし、さて、果たして彼女は酒に弱かっただろうか。好きか嫌いかすら分からない。正確に言うなら忘れた。彼女はどちらかと言えばお喋りな質なので、多分、今までに酒の話くらいしたこともあっただろう。が、興味がないので全く覚えていないのである。誘い文句に酒を使って良いものかと少しばかり思案してから、ひとまず、ご飯にでも行かないか、とメールを入れる。彼女からの返事はすぐに来た。「奢りなら構わない」と。金に困っているわけでも無かろうに。
 いつが良いかと聞けば今週末の17時以降。上手く行けば、その日に仕事は完了する。
「なになに?珍しいじゃん」
「たまにはね」
「とか言って仕事の話するんじゃないの」
 と言いながらナマエはイルミの対面にドサリと腰をおろした。彼女は居酒屋が好きだったので、二人での食事は毎度騒々しくて煩わしい。その喧騒が良いのだとナマエが語っていたことだけは覚えている。理解不能過ぎて。
 週末の居酒屋は繁盛し、仕事帰りのサラリーマンや大学生らが騒ぎ店員は慌ただしく動き回っている。ナマエがメニューを手に取る。「仕事の話はしないよ」イルミは平然と言った。嘘ではない。話はしない。ただ、今日の全てが仕事であるだけだ。今この瞬間も。ナマエは「ふーん」とだけ言って、店員を呼びジョッキを2つとつまみをいくつか注文した。なるほど、酒は嫌いじゃないのだろう。これで弱ければ万々歳なんだけど、とイルミは思う。
「好きなだけ飲みなよ。オレの奢りだしさ」
「へえ。気前が良いね」
「いつもだろ」
 正しい。イルミとの食事で彼女が財布を出したことはない。
「イルミなんか、良いことでもあった?」
「ないけど。なんで?」
 ナマエは、なんとなく、と答えてから店員が運んできたジョッキを口につけた。イルミもそれに倣う。まだ居酒屋に入り数分程度で、早速運ばれてきたジョッキのビールをようやく飲み始めたばかりで、それまでの時間に何もおかしな点はなかったはずである。「もしかしてさあ」ナマエがジョッキから唇を離した。
「私の暗殺でも依頼された?」
 イルミが顔をあげる。ナマエはほとんど、確信めいた眼差しをしている。どこで気付かれたのか、よりも、打ち明けるか否か、でイルミは僅かに迷う。「うん」そして打ち明けた。下手に嘘を重ねても、どうせ警戒され手間取るだけだろう。面倒くさいことにナマエは勘が鋭い。そしてもっとも面倒なことに、イルミを手こずらせる程度の実力がある。「オレそんな態度に出てた?」聞いてはみるが、自分でもまさか、と思う。「いや……特には」ナマエも否定した。ならどこで、とイルミは眉をひそめる。
「強いて言うなら、なんとなく。かな」
「答えになってないんだけど」
「で、何これ。今日私を殺そうと思って呼んだってこと?」
「うん。そう」
 どこかでジョッキとジョッキのぶつかる音がする。話し声は絶え間ない。二人の間にある少しばかりの沈黙など簡単に埋まるほどの喧騒を、イルミは鬱陶しく思った。呼び出さなければ良かったか、と考える。ここまで勘が鋭いとは思わなかった。と言うより、気付かれるわけがないと思っていたから。沈黙。さてどう暗殺したものかと考えながらナマエをチラリと一瞥する。彼女は、うーんと唸っている。ナマエが一体何を考えているのかイルミにはさっぱり分からなかった。うーんと唸りながらジョッキに口をつける。うーんと言いながらビールを飲み干す。
「あのさあ」
 ナマエは今しがた運ばれてきたつまみを口にポイと放り込んでからイルミを見た。
「殺されてもいいよ」
「は?」
「うーん、そうだなあ。1日デートしてくれたら殺されてあげるかなあ」
 突拍子な提案だった。デート、と彼女は繰り返した。「ふざけてるの?本気?」イルミが眉間にシワを寄せて訪ねる。もちろん本気だとナマエが言う。ドッと、イルミの背後で大学生の集団が笑い声をあげる。ナマエがつまみを口に放り込む。「なにお前、死にたいの?」「別に?」ナマエはさらにつまみを食べる。イルミがいっそう眉を寄せる。「殺されてもいいってそう言うことじゃないの?」「アンタ私を殺したいんでしょ?」それが仕事なのだから当然頷く。
「だったらデートしてよ。それで簡単に殺せるんだよ、私を」
 ナマエは自分の実力を把握しているのだ、イルミがそう簡単に殺してしまえるような人間ではないと。同時に理解していた、それでも結局は敵わないであろうことを。イルミも分かっている。ナマエを殺せることを。しかし、彼女の殺害には、深手を負うリスクは避けられないことを。
「ねえ、本当に本気で?1日お前に付き合えば殺っていいの?」
「本当に本気で、ま、いいよ」
 完全に信じるわけではない。信じられるわけがない、ナマエの提案は全てがおかしいから。しかし、彼女と1日付き合い、もし本当に殺しても良いというならこれほど楽なこともない。ナマエが嘘をついていたとしても、1日を共にするのだ、殺せる隙もあるだろう。「デートね。オレしたことないから分かんないけど」「いいよ。私に付き合ってくれさえすれば」ナマエが空になったジョッキを机の端に寄せる。「殺したいんでしょ」私を。
 イルミは頷いた。そして、実は分かっていた。ナマエが命に関する冗談を言う性格ではないと。

 ナマエとのデートは3日後、12時にデイアーロ通りにとのことだった。1日も早く仕事を終わらせたかったイルミは翌日を提案したがナマエにすぐ却下されたのだ。「支度がある」と。死ぬつもりならば、3日間で身辺整理でもしたいのかもしれない、とイルミはしぶしぶ承諾した。「車って運転出来る?」「うん」「じゃあ、車で来てね」ナマエはドライブがしたいようだった。「それオレが運転しなきゃダメなの?」執事に運転させようというイルミの考えはあっさり見透かされたのだろう、ナマエは「デートに執事なんか連れてこないでね」とどこか呆れたように言った。仕事のためだ、とイルミはこれも承諾した。勿論、運転免許は持っていない。
 一般車に乗るなんて初めてだった。しかも運転する側である。ぴったり12時にナマエはイルミの運転する車の窓を叩いた。「お待たせ」早く乗れ、とイルミが目で合図を送る。ナマエは扉を開けて、助手席に乗り込んだ。デートを提案しただけあって、いつもよりめかしこんでいるように見えた。「いつもと変わんないわねアンタ」やや不服そうにナマエがイルミを見た。イルミは何も答えず、アクセルを踏み車を発進させた。
「どこに行きたい?」
「えっとね、とりあえずショッピング?」
「何が見たいの?」
「服」
「は?今日死ぬのに?」
 このデートが終われば、もしくは、終わる前に。とイルミはナマエを横目に入れた。彼女は窓に映った自分の姿を見て髪を軽く撫で付けている。
「でも見たいものは見たいじゃん」
「そう言うものなの?」
「うん。そんなものなの」
 どうせ今日1日はナマエに付き合うしかないのだ、どこへ行こうと彼女の勝手である。イルミは「近くのショッピングモールでいい?」と一応ナマエに聞いてからハンドルを右に切った。「いいよ」ナマエは、一応という風に答えた。
 ナマエは服を見てまわり、時々イルミに「これどお?」と気に入った服を見せて尋ねた。「いいんじゃない」イルミの返事は決まってこれだけだったが、ナマエは満足そうに、イルミが「いいんじゃない」と言った服をレジへ持って行った。紙袋はあっという間に女だけでは持てないほど増えた。ショッピングモールで昼食を済ませる予定だったが、ひとまず邪魔な荷物を車に運ぶことになった。車に荷物を詰め再びショッピングモールに戻ったが、昼時ということもありどの飲食店も人で溢れていた。「仕方ないかあ」とナマエは言って、1階のファストフード店でハンバーガーをいくつか持ち帰りで注文した。
「イルミってハンバーガー食べたことある?」
「ない」
「マジ?ヤバイな」
「食べたいとも思わないからね」
「食べたことないからだって」
 片手でハンバーガーを食べながら、もう片方の手のひらでイルミは車を運転する。ナマエは海に行きたいらしい。シェイクのストローをくわえながら相変わらず窓を眺めている。ポテトを指でつまんでイルミに「あーんしようか」と差し出せば彼は平然とそれを食べた。「マジかよ」彼女にとっては意外だったが、イルミにしてみれば何でもないことらしい。「何が?」なんにも、とナマエは答えてから、指先についた塩を見つめ、それから舌で舐めとった。
 ナマエは大人しく助手席に座っていた。会話もなく、車内は静かだった。お互いにハンバーガーを食べ終えてしまうと、ますます物音はエンジンが鳴るだけになる。彼女が何を考えているのか、イルミには分からない。分かるつもりも別にない。ただ素直に死んでくれたらと思うだけ。
 海に着いてもナマエは、車内と同じように砂浜でぼうっと過ごした。足すら海水に浸さなかった。車内で待っていようとしたイルミを半ば無理やり隣に座らせ、そしてやはり、ぼうっとしていた。隙あらばとイルミも大人しくナマエの隣に座り、口をつぐみ海を見ていた。もう夕焼けの空が反射して海はどこまでも煌めいている。「いいねえ」ナマエはそれだけ口を開いたが、イルミは何も言わなかった。ただじっと、砂浜に身を寄せ合って座っているだけだった。
 すっかり夜になる。ナマエは最後に、廃墟の屋上へ行きたいと言った。アバウトな指示にイルミが眉をひそめると「とりあえず車走らせて」とナマエは言った。ナマエの髪もイルミの髪も、潮風で少しだけザラザラとしているようだった。エンジンが誰もいない海辺で鳴り響いた。
「お前、なんで死んでも良いの?」
 車を走らせながらイルミが聞いた。廃墟で最後だと彼女は言ったのだ、このデートもナマエの命も、もうすぐ終わる予定である。本当にあっさりと死んでくれるのだろうか、とイルミはナマエを横目に見た。彼女はやはり、静かに窓のそとを眺めたまま口を開いた。
「え〜、なんでかな?」
「それオレが聞いてるんだけど」
「なんか、なんとなくかな」
「ふうん。本当に死んでくれるなら何でも良いけど」
「仕事熱心だね、イルミは」
「当たり前だろ」
 もうすっかり海は見えなくなり、段々と街が近付いてくる。海の控えめな煌めきとは違い、ネオンがギラギラと照りつけ星の光は見当たらない。「やっぱ月明かりってさあ」とナマエが言った。「キレイだよね、こんな街よりも」それなら海で良かったんじゃないの、とイルミは返した。つまり、あのまま死ねば良かったんじゃないのかと。
 ナマエはその通りだと言って笑い、イルミの肩をトンと叩いた。
「でもさ……」
「でも?」
「いつか決めちゃってさあ。死ぬなら、やっぱ馴染んだ場所がいいかなって」
 廃墟の屋上にやってきてからナマエはすぐに、錆が酷く今にも落ちてしまいそうなフェンスになんの恐れもなく凭れかかりながらタバコを吸い始めた。「タバコ吸うの?」「あー、稀にね」イルミって私が吸ってるの見たことなかったっけ、とナマエは呟いた。イルミに問いかけているというよりは、自分自身に確認している風だった。
 タバコを一本吸い終えると、ナマエが「ふう〜」と長く息を吐いた。それを、もう良いよ、という意味だとイルミは受け取り、針を取り出す。そして、こうも呆気なく死んでくれる彼女への、ちょっとした情けが働いて。
「最後にもう一本ぐらいなら待ってあげるけど」
「お。優しいじゃん」
「まあね」
「でもいいよ。多分、そろそろだし」
「は?」
 イルミがナマエの言葉に眉をひそめるのと、無線機が鳴るのはほとんど同時のことだった。
 腕を組みフェンスへ凭れ、小さく笑みを浮かべているナマエを尻目に無線機の通話ボタンを押す。「イルミか。ターゲットはどうした?」親父からだ。「どうしたも何も、今から殺すんだけど」「そうか。その依頼は白紙だ」「は?」「お前の依頼人は殺した。そいつを殺っても意味がない」イルミはナマエを見た。彼女は携帯を弄りながら微笑んでいる。携帯の画面には銀行の送金画面が表示されている。相手はシルバ=ゾルディック。
 イルミは無線を切ると盛大に顔をしかめた。
「ナマエ、もしかしてオレの依頼人のこと知ってた?」
「知ってたっていうか、覚えがあったのよね。××が私を狙ってるってさ。だからイルミの依頼人が、そうかなと思っただけ」
 ナマエはタバコをもう一本取り出し、ライターで火をつけた。月の大きい夜だった。ナマエの顔は光に照らされ、影を落としている。ビルの隙間からは、爆竹のはぜる音と青年の笑い声が微かに聞こえてくる。
 タバコの煙が闇へと溶けていく。イルミは無線機を仕舞ってからナマエと同じようにフェンスへと凭れて溜め息を吐いた。今日1日、彼女はこれを待っていたのだと、死ぬ気などさらさら無かったのだと。まんまと乗せられたわけである。悔しくないと言えば嘘になるが、それを悟られるほうがよっぽど悔しい気もする。潮風に侵された髪をかきあげる。
「オレさ、デートした意味なくない?」
「アハ。バレたか」
 ナマエがタバコを落とし足でグリグリと踏みつける。彼女は多分、居酒屋から帰ったあとですぐ依頼をしたのだろう。猶予の3日とは身辺整理の時間などではなく、つまりそう言うことだったのだ。イルミがデートせずとも、極端に言えば今日1日身をひそめていれば良かった話である。その間に親父が片付けてしまえば、ナマエを狙う理由もなくなるのだから、とイルミは考える。背中を預けたフェンスが危うげにギシリと鳴く。
 ナマエが笑う。「楽しかったじゃん」と。「お前だけね」とイルミが言う。月は大きい。街はネオンに照らされている。ナマエは愉しそうに、心の底から笑っている。
「またしようね」
 ナマエは笑う。そのときこそは殺してみせてと。


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