白い空。すっかり冷えた空気に、クロロはマフラーが欲しいと近くの店でマフラーを見繕い、そのまま首に巻いて店を出た。天気予報によれば明日の朝に雪が降るらしい。なるほど納得の寒さであるが、そもそもクロロがこの街にやってきたのは、近日中、ここベレーブングにて、初雪が観測されるだろうという情報を聞いたからである。この寒さも、明日降る雪も、すべて承知の上でクロロはやってきたのだ。ベレーブング独自の「雪祈り」という儀式、いや、もっと親しみのある言い方をするならば、祭りのために。
 ベレーブングには春と冬の二つの季節しかなく、春には「花祭り」そして冬には「雪祈り」が催される。街中に花を撒き散らし春を迎える花祭りとは違い、雪祈りはすこぶる静かな儀式である。街にその冬はじめての雪が降った日、降っている間中、祈り続けるのだ。この冬が無事終わりますようにと。もしくは子供の健康を。平和のことを。これまでの人生を振り返るひともいるらしい。とにかく、雪が降っている間は祈る。食べず、眠らず、ただ祈るのみ。短い時間かもしれないし、もしくは途方もなく長い時間、そうしなければいけないかもしれない。クロロは正直、雪に祈るつもりなどさらさらなかった。ただ雪祈り最中の街の様子が見たかったのである。
 クロロはあてもなく街を歩いた。雲が空を覆い太陽のひかりはほとんど見えないが、まだ雪が降る気配はない。景色は白く、色彩そのものが薄くなったような錯覚に陥る。ひとりの少女が空を見上げながら傍を通りすがった。弟らしい少年と手を繋ぎ、もう片方の腕には、ビニールに入った果物を提げていた。クロロはりんごをしばらく眺めてから、近くの喫茶店の扉を押した。古い押戸がぎいぎいと鳴り、錆びたベルが鈍く音を立てた。すぐにコーヒーの匂いが鼻を掠める。クロロは適当な席を選んで腰掛け、すぐに出せるものを、と給仕に頼んだ。すぐにとお願いしたものの結局しばらく待ってから置かれたコーヒーに口をつければ、それがコピルアクコーヒーだったので、クロロはほんの少しだけ驚いてから店主を見た。店主もクロロを見ていた。それから、にやりと笑った。お互いに。
「観光の方ですね。お目当ては雪祈りで?」
「もちろん。この時期にベレーブングに来るとなれば、だいたい雪祈りですよ」
「いやあ、花祭りはともかく、雪祈りのために観光に来る方は珍しいですがね。なにせ祈るだけですから。なにも面白いことなどありません」
「いいんです。それでも」
 クロロは微笑みながら頷いた。コーヒーカップから伝わる熱が指先をじんわりと温める。
「せっかくいらっしゃったんです。質問がありましたり、お答え出来る範囲でお答えしましょうぞ」
「本当ですか」
 クロロは嬉しそうに身を乗り出した。手持ちぶさたになったらしい給仕がトレーを布巾で何度も拭いている。
「雪祈りに準備はあるんですか?」
「いいえ」
 店主はゆっくり首を横に振り、祈りの心さえあれば良いのですと言う。
「祖父の教えですがね、心さえあれば手を合わせる必要もないと。戦争で片腕を失った祖父です。合わせる手はありませんでしたが、祖父以上に恭しく祈る人を私は知りません」
「そうですか。それは是非お目にかかりたかった」
「写真の一枚でも残っていれば、お見せしとうございました」
 私も見たかったわァと給仕がカウンターに頬杖をつくが、お客様の前でだらしのない、と店主に怒られすぐに頬から手を離した。クロロは他にも尋ねた。何歳から祈るようになったか、住人全員が祈るものなのか、儀式を馬鹿にしている人はいないのか……。店主は知りうる限り、ひとつも嫌な顔をせず、誠意をもって質問に答えた。物心ついたときには祈っていた、おそらく全員が祈っている、馬鹿にしている人は、もしかしたらいるかもしれない。
 店内はいつの間にかクロロひとりになっていた。いや、最初からひとりだったかとクロロは考え、よく分からなくなり、まだ熱いコーヒーを啜った。妙な気分だった。ベレーブングに来てから、どうにも白昼夢のなかにいるような。しかしコーヒーの熱さは本物なのである。
「何を祈りたいんです? お答えしにくいのであれば、結構ですが」
 今度は店主がクロロに質問した。
「いや、祈りたいわけでは。ただ雪祈りへの興味で来たんです」
 本心である。興味で来ただけだ、祈りなど捧げる気はない。店主はおやそうでしたかと頭を下げ、伏し目がちに微笑みコップを磨いている。その様子がクロロにはなぜか、あなたは自分のことを分かっていないのですねと言っている風に見えた。いや、そう思ったのは、こころのどこかで自分自身が。
「私は毎年、お願いごとをしてるわよ。欲しいものが手に入りますように、したいことが出来ますようにって」
 給仕が口を挟む。「祈るものは人それぞれだが、流れ星じゃあないんだからなァ」
 店主が呆れたように首を掻いた。クロロが流れ星、と小さく繰り返す。
「……流れ星に願い事をするという風習はキリスト教による考えから来ているという説がありますが」
「へえ、お客さん詳しいのね」
 給仕が感心して頷く。
「“神は時折、下界の様子を眺めるため天界の扉を開けなさる。これに際し天の光として星がながれ落ちるのだ”……今では流れ星の正体など誰でも知っています。しかし、ふむ、ベレーブングにとっての初雪は、もしかしたら流れ星に通じているのかもしれませんね」
 ベレーブングがいつから雪へ祈るようになったのか誰も知らない。文献も残っていない。ただ儀式そのものだけが残っている。しかし、今言ったように、ベレーブングにとって初雪というのは“天界の扉が開いたときに降り落ちた結晶”で、だからこそ祈りを捧げるのではないかとクロロは考えた。冬を越せるようにと。もしくは給仕のように、自分の欲のことを。雪の間だけは神が聞いてくれるかもしれないから。
 クロロはコーヒーを飲み干し、おかわりをすることなく会計を済ませ喫茶店を出た。扉の重たさも錆びたベルの音も入ってきたときと何ら変わりなくクロロを見送った。
 再び、あてもなく街を歩き出す。
 吐く息が白い。もしかしたら予報より早く降り出すかもしれないと空を見上げれば雲と同じ色の鳥が三羽飛んでいた。鼻の先がつんとした。寒い。ポケットに手を突っ込む。
 書店があったので入った。広くはなかったが、クロロは店内を十分に見て回ったあと、三冊の本を買って店を出た。することもないのでベンチを見つけて早速読もうかとも思ったが、読書をするにはあまりにも寒すぎたので止めた。それでもおそらく集中は出来るだろう。集中出来てしまうことが問題なのだ。その場で街をぐるりと見渡してから今しがた進んできた道を引き返ししばらく歩いて、クロロは喫茶店まで戻った。店内にはちらほらと客がおり、賑やかとまではいかないが決して閑散とはしていない。あらお帰りなさいと給仕が手を振った。こたえるようにクロロも片手を挙げる。
「本屋さんに行ってきたのね。分厚い本を三冊も」
「閉店まで居座ろうかな。集中してしまうだろうから時間になったら声をかけてほしい」
「ああ、店は閉めないんですよ」
 店主がミルを回しながら言った。がりがりという音が重なるが、声は難なく聞き取れる。
「初雪を待って、集まったお客さん達と祈るのが恒例でしてねェ。店を開けてからはずっとそうしています」
「なるほど。良いですね」
 クロロは満足そうに頷いた。わざわざ宿を取らなくて済む上に、儀式中の住人の姿も見られるのならなんとも有難い話である。三冊買ったのだ、雪が降るまでの時間は十分潰せるだろう。もし足りなければコーヒーを飲んで待てばいい。ここのコーヒーは美味かった。
 ストレートのコーヒーを一杯飲んでからクロロが一冊目の本を開いた頃、店には座席半分くらいの客が集まって、雪祈りのためにご飯をたくさん食べてきただの、仮眠してきただの、仕事を終わらせずにきてしまったから大変だのと様々に話していた。目次に目を通しながらクロロは耳を傾け、厳かな祭典だと思っていたがそうでもなさそうだなとページを捲った。
「おや珍しいねェ、観光の人かい」
 ビール瓶を片手に持った中年の男に肩を叩いたので、クロロは本から目を離し顔を隣に向けた。やや酔っているのか顔は赤いが、足取りや呂律はしっかりしているので酒の勢いで絡んだというよりは、ただ陽気な男なのだろう。「やめなさいなアンタ、読書中に失礼だよ」離れた席から婦人が男に向かって大きく声をかけた。「お気遣いどうも。大丈夫ですよ」クロロも婦人へ向かって大きな声で返事をした。それくらい声を出さないと聞こえないくらいに、店内は賑わっていたのである。
「飲むかい。雪祈りの前だけ持ち込んでいいことになってんだ」
「そりゃお前さんが勝手に決めたルールだわい」
 小太りの男が陽気な男のうしろにやってきて後頭部をぱちんと叩いた。店に笑い声が上がる。店主も笑っていることから、実際に持ってきても良いと許可しているのかは分からないが、少なくとも黙認はされているのだろう。クロロも同じように笑う。
「オレは結構。ダンナもどうです、ここのコーヒーは素晴らしい」
「そりゃ素晴らしいさ」
 陽気な男は大いに頷いた。
「しかし酒には負ける」
「周りを見てみろ、アンタしか飲んでねーぞ!」
「オイオイそりゃねーぜ。コーヒーの匂いがキツすぎる」
「当たり前だろお。バカでェ」
 店中からまた笑い声が沸き上がる。ビール瓶を片手に一層笑い声の大きな集団の席へと向かった男の背中を一瞥し微笑んでから、クロロは指で挟んでいたページを開いた。この作家の話は以前にも読んだことがある、すすんで探すまではいかずとも、見かけた際にはほとんどの確率で手に取るくらいには気に入っていた。公園のベンチに置き去りにされ偶然目にした新聞のコラムがこの作家の回のもので、こう書いていたことを覚えている。人は死ぬ。当たり前である。なのに、なぜか人々は登場人物の死をもって安易に感動する。私には理解が出来ぬ。死とはそれほど美しいのか。私には美しい死より醜い生のほうがよっぽど魅力的に感じるが、それはともかく欲に汚い傲慢な人間にはさっさと死んでほしいと思う質である。……。
 物語は平坦だった。起承転結らしい起伏はあまりなく、ただ、ひとりの人間の生涯を、淡々とすすめていくだけ。物語として成立しているのかさえ怪しいほどだ。クロロはそこを気に入っていた、本を読んでいて、退屈という感情を抱くのはこの作者のもの以外にそうない。赤の他人のホームビデオを延々と見せられる気持ちだと言い表せれば早そうだが、あいにくホームビデオを見たことのないクロロには分かるまい。
 四の一ほどを読みすすめた頃には、主人公の住む街が、ここベレーブングではないかという強い確信を持っていた。雪祈り、花祭りという儀式名もベレーブングという街の名も出てこなかったが、ふたつある儀式の内容が雪祈りや花祭りと非常に通じていると判断したのである。作中で雪祈りはこのように呼ばれていた。おおきな何かに平伏する時間。
 幼い主人公は家族と祈り、思春期には友人らと、青年期には恋人と祈った。ひとりの一生だ、もちろんドラマはある。しかし、奇なりと思える出来事は起こらない。おそらくあえて作者は起こさなかったのだろう。結婚し、老い、孫が産まれ、とうとう物語は結末を迎えようとしていた。主人公の死までを描くのかと思いきや、青年時代を共にした友人と2人で、いやあ今日もいい日だと笑いながら瑞々しい並木の下を歩き続ける描写で話は終いになった。クロロは読み終えてから本を閉じ、小さく息を吐いた。それから知った。己が一筋の涙を流していたことを。
 なにかに誘われるような気持ちで窓を見た。
 すっかり暗くなった空に、反射したクロロの顔が映っている。それから、なにかがはらはらと降っていることに遅れて気が付いた。雪だ。雪が降っているのだ。
「マスター、雪が……」
 雪が、と発しつつ窓から目を離した。
 店内はいつの間にか水を打ったように静かになっていた。人は相変わらずいた。それもたくさん。ハツラツとした声で笑っていた婦人も、酒好きの陽気な男も、若い給仕も、ひとりも欠けることなくそこにいた。揃い、固く目を閉じ指を組み、膝をついて祈っていた。
 クロロは異様とも呼ぶべき店内の光景を眺めてから空のコーヒーカップを見た。しばらく飲めなさそうだと残念に思ったその眼差しで、机の端に置かれたメモを見た。おかわりはどうぞご自由に。なるほど、雪は随分前から降っていたのかとクロロはひとり頷いた。店主の字は細く滑らかだった。
 どれくらい経ったかは分からない。時間が過ぎるという理が失われてしまったような世界で、クロロと住人は同じ沈黙のなかにいた。
 誰からともなくまぶたを開く。空が幾ばくか明るくなり、雪は止んだ。ひとりの女が立ち上がってようやくクロロも雪が止んだことを知ったほどだった。目を開けていたクロロではなく、目を閉じ祈っていた女が雪の消滅を機敏に感じ取ったのだ。
 店内はあっという間に活気を取り戻した。膝についた砂ぼこりをぱんぱんと払う女にクロロが近づき尋ねる。
「失礼。なぜ分かったんですか?」
 雪が止んだと、と続ける前に女は笑った。今の今まで慎ましい祈りを捧げていた人とは思えない豪快な笑い声だった。
「そりゃ雪に祈ってんだ。雪が止んだら分かるさァ」
「気付かんかったらとんだまぬけだなァ。何に祈ってんだってなっちまうよ」
 ハハハハ、と複数の笑い声が飛ぶ合間を抜けて店主がクロロのもとへやってきた。
「おかわりはなさらなかったんですね」
「どうもマスター。皆さんの祈る姿を見ていました」
「そんなァ恥ずかしいわ。世界平和でも祈れば良かった」
 給仕が頬を両手に添え言った。こたえてやりたかったが少し場所が遠かったのでクロロは諦めた。
「さあさあ、みんな一杯飲もう。もちろん酒じゃないぞ。とびきりのコーヒーを淹れてやりましょう」
 わあ、と起こる歓声のなかにクロロは立っている。祈っていないにも関わらず、まるで最も深い祈りを天に捧げた主役のように輪の中心にいるのが不思議だ。外を見ればもうすっかり明るい。窓ガラスに水滴がついている。鳥の鳴き声が聞こえた。その囀りを聞いて、ああ雪祈りが終わったのだと、クロロはそこで初めて実感した。


 隣に置いた本が小刻みに揺れている。暖房が効いているが足元だけは冷たい。遠く小さくなっていくベレーブングの街が電車の窓から見えたが、次に見えたのは幻覚かもしれない、ベレーブングの空にだけ、一瞬、雪が降っているように見えたのは。
 終着点を決めず適当に乗った普通列車だ。勿論クロロなどお構い無しに、決まった道を走り続ける。ベレーブングは既に見えなくなった。数人程度だった乗客が、停車のたびに増えてゆく。ノイズ混じりのスピーカーから聞き慣れない駅の名前が告げられた。この街はもう雪を迎えたのだろうか。
 クロロはまぶたの裏に祈りを捧げる彼らの姿を思い浮かべてから、少しの間、目を閉じた。指こそ組まなかったものの、その姿は、なにかおおきなものに祈りを捧げているような、そんな風だった。彼は確かに祈った。おそらく、今までの全てに祈った。仲間の魂に、祈ったのだ。


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