川が好きだと彼は言った。「きみは?」私は、空が好きだと言った。飛行機雲が好きだと言ったら、彼は「そっか」そう頷いて視線を手元にある宿題へ戻したから、私も同様に鉛筆を動かす。
 同じ幼稚園、同じ小学校。きっと同じ中学校に行き、別々の高校へと進学するのだろう。同じ宿題をして、同じ廊下を歩いて、同じ給食を食べるのも、きっと中学校までで終わるのだ。
 宿題の手を止めて、算数の宿題に集中している彼の横顔を盗み見る。川が好きだと彼は言った。水の流れる音がとても落ち着くのだと、とても、懐かしい気持ちになるのだと。「私はね」私は、空が好きだと言った。風の冷たさがとても落ち着くのだと、とても、愛しい気持ちになるのだと。
「僕の顔に何かついてる?」
「……鱗が見えた気がしたの」
「何それ、変なの」
 彼は宿題の手を止めて小さく笑うと、コップの中の麦茶を飲み干した。彼が持ち上げたコップの下には水の輪っかが机を濡らしていて、布巾が必要だな、とぼんやりと思う。「宿題を早く終わらせて夏休みは遊ばなきゃ」まだまだ終わりが見えない私のプリントの束へ視線を向けながら、彼はワクワクしながらそう言った。「宿題が終わったらキャンプへ連れていってあげる」と私達の母親の言葉に、彼の宿題は残りあと僅か。「僕だけじゃダメだよ。二人の宿題を終わらせなくちゃ」今日だけで大半の宿題を終わらせて欲しいと望んでいる彼は、私が一休みすることすら良く思っていないだろう。
「キャンプに行ったら、たくさん川で泳ぐんだ。きっと楽しいよ」
「私、川は苦手なんだ。溺れそうな気がするもん」
「大丈夫だよ。溺れたことなんてないだろう?」
 それにね、と彼は言った。「もし溺れても僕が助けてあげるよ」残りの宿題を仕上げながら彼は言った。「ね、だから大丈夫」鉛筆を置いて彼は笑った。溺れたことがある気がする。溺れて、誰かに助けてもらった気がする。気のせいだと、お母さんは言った。「溺れたことなんてないもの。おかしな子ねえ」彼も笑った。「川が怖いと思っているから、そんな気がするだけだよ」そう言われてしまうと、そんな気もしてしまう。
「言葉には不思議な力があるんだ。ほら、言ってみなよ。川は怖くないって」
「……川は、怖くない」
「ね? もう大丈夫」
 早く宿題を終わらせようと言う彼に、私は鉛筆を握りしめた。溺れたら、きっと助けてね。鱗が見えた気がした。キラキラと鱗が輝いている気がした。「これ、何だっけ?」水の水位が極めて深いことを「千尋。千尋と言うんだ」懐かしい響きだと思った。とても大切な、誰かの名前だと。
「僕、好きなんだ。千尋という響きが、とても」
「……私も」


 風が通り抜けたと同時に、誰かが私の隣で微笑みながら私の名前を呼んでいることに気が付いた。どこかから水の流れる音が聞こえる。ああ、あなたの声に隠れているんだ。鱗みたいに、水が光を浴びて輝いている様子が見える。
「また会える?」
「ああ、きっと」
「きっとだよ」
「きっと。さぁお行き、振り向かないで」
 離した手はとても温かったの。きっと会おうと、そう言ったのだ。絶対ではない曖昧なその約束は、それでもいつかきっと会えると思った。あなたと会える世界を願いながら、振り向かないと決めながら、思い出せない記憶を、それでも忘れはしないのだと。
 冷たいと感じて足元を見ると、そこにはただ水があった。空の色を吸収して、自身も真っ青に染まった冷たい水の中に私はたつまたひとりで立っているのだ。足を動かす。チャプ、チャプと水が足に絡みついては向こうへと泳いでいった。静かな風が身体を撫でる。空には飛行機雲が浮かんでいる。どこまでも真っ青な世界の中で、行くあても知らずにただ歩くの。
「千尋」
 誰かに呼ばれた気がした。「こちらへ」目の前に小さな駅が見える。向こう側からやって来た不思議な電車が停車すると、私は無意識のうちに足を動かしていた。「切符を持っていないわ」私のポケットを指差す車掌さんを不思議に思いながらも手を入れる。「どうして?」切符を渡すと、近くの席に腰を下ろす。窓から見える海は、やはり鱗みたいだと思った。この電車は、一体どこへ向かっているのだろう……。


「早く宿題を終わらせよう」
「わかってるよ」
 隣に座る彼は、もう宿題を終わらせてしまったようだ。平らになった鉛筆を削り、プリントの空白に文字を埋める。千尋、極めて深い水位を表す言葉。誰かにとっての、大切な名前。
 川が好きだと彼は言った。「きみは?」私は、空が好きだと言った。飛行機雲が好きだと言ったら、彼は「そっか」何かを懐かしむようにまぶたを下ろすのだ。川が好きだと言う彼の手を私は握ったことはないけれど、なぜなのかとても温かいのだろうと思った。千尋という言葉が、とても懐かしく思える。水の冷たさを、愛おしいと感じられる。


 ガタン、ゴトンと揺れる電車に私は座っている。一体どこへ向かっているのか解らないまま、私はあなたとの世界を想った……。……。


【20141225】愛しいきみへ捧ぐ世界を創る3つの方法を探している
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