おやすみベイビー



「う〜…」


朝もや香る早朝の裏グラ。
普段通りの朝練の時間より随分早くに到着した栄口は、眠たい目をこじ開け、もそもそと着替えを始めた。
いつもなら1分足らずで終わる着替えが、何故か今日は5分経っても終わらない。
重い体を無理矢理動かしている為、たかが着替えに相当な体力を浪費している。
何とも幸先悪い一日の始まりだ。
唸った所で速度が増す訳でもないが、うー、うー、と唸りながら着替えの手を進めていると、新たに部員が到着した。


「ちーす。栄口はえーなー」

「あー…はよー…」


次に到着したのは水谷だった。
のほほんとした水谷の挨拶に、栄口は気怠さ全開の挨拶で返した。


「どしたの。随分眠そーじゃん」

「イヤー…昨日さー…」


あからさまに眠たそうにしている栄口を見て、水谷は珍しいものでも見たかのような表情で尋ねる。
それを受けた栄口は、仲良し過ぎて離れない上瞼と下瞼をそのままに、いつもより低い掠れた声で昨夜の出来事を説明し始める。


「オレの部屋ん中をさー…クモが徘徊してたんだよ…」


鞄から練習着を取り出しながら、ふんふん、と話を聞く水谷。
しかし、栄口はその一言だけで黙ってしまった。
数秒待ってみても何故か妙な沈黙は続く。


「……で!?」


暫しの間が空いた後、水谷は思わずツッコミを入れた。
栄口は相当寝ぼけているらしい。
続きを話したまえ、栄口。

水谷のツッコミに一瞬ハッとした栄口は、スパイクの紐を締めながらこう続けた。




「そいで寝れなかった…」




は。

水谷は思わず間抜けな声を漏らした。
何だ、その理由。


「なにカワイイ事言ってんの」

「だってさ。昔テレビで見たんだよ。寝てる間にクモが耳に入り込んで、脳みそに到達しちゃって頭蓋骨開いて取り除いたっつー…」

「うげっ、気持ちわるっ」

「だろー?もー眠いし怖いし地獄だったよ昨日」


あー眠い、と溜息混じりに付け足して、栄口は立ち上がった。
着替え終わった水谷も立ち上がり、2人でトンボを取りに行く。


「耳栓して寝れば良かったのに」

「ないよそんなモン」

「じゃーイヤホン」

「一晩中着けてたら耳ん中蒸れるじゃん。痒いのヤダ」

「よし。耳を閉じろ!ダンボみたいにパタっと!」

「出来るか!つーか、寝てる間に潰しちゃって朝イチ死体とご対面すんのが1番怖い」

「それもそーだ」


今更ながら昨夜のクモ徘徊対策を話し合う2人。
それにしても、クモを退治するという選択肢はなかったのだろうか。
倉庫からトンボを取って砂を整え始める栄口だが、目は相変わらず眠そうだ。


「モモカンに怒られるぞー」

「だよなー…オレ握られたくないー」


うわーんヤダー、と寝る前の赤ん坊のようにぐずる栄口。
強烈な睡魔によって思考能力は随分低下しているらしい。
完全に子供返りした栄口を見て、水谷は弟が居たらこんな感じなのかな、と、珍しいモン見た、という思いでちょっとくすぐったくなった。

しかしながら、ただでさえ厳しい練習の前にコレはよろしくない。
怒られるとかの問題以前に、怪我の元だ。


「朝練休ましてもらえば?」


水谷は朝練の間だけでも仮眠を取る事を勧めた。
寝不足なら寝れば解決する。
たった2〜3時間でも、多少は回復するだろう。


「なんつって休むのさ」

「クモが怖くて寝れませんでしたって」

「やだ。」


しかし、栄口は拗ねたように口を尖らせてきっぱりと断った。
それは流石に男のプライドが許さないらしい。


「でも寝ないとケガすんぞー」

「しないー」


栄口はどうやらこのまま起きて練習に参加するつもりのようだが、いつもの栄口とは思えないほど子供染みた返答に、水谷は面白いを通り越して心配になってきた。


「なー、ちょっと寝ろって」

「いーのー」

「寝ろよー」

「寝ないー」


無駄に語尾の伸びた、幼稚園児を彷彿とさせるやり取り。
寝不足で子供返りした栄口とノーマル水谷のレベルが同じなのもいかがなものだろうが、人を説得する能力に乏しい水谷が栄口を大人しく寝かせるのは至難の業だ。
暫くの間2人がまるで同じ台詞を言い合っていると、他の部員達も到着し始めた。
まず着いたのは花井と西広だ。
ちーす、うーす、と口々に挨拶をして、着替えを始める。
水谷は天の助け!とばかりに2人に駆け寄り、栄口の様子を告げる。


「なに、栄口寝てねーの?」


話を聞いた花井は、少し遠くに居る栄口に声を掛けた。
栄口は『んー?』とトロトロした反応で振り向いたが、やはり目は半開きのまま。
だんだん人相が悪くなってきている。
これは問題だ。


「うわー眠そー」

「アブネーなー。ケガすっから少し寝ろよ」

「ほらー、花井も同じ事言ってるー」


3人で栄口を寝かせようとするが、当の本人は尚も寝ないー、と駄々をこねている。


「ちょっとカワイイ…」

「栄口って眠いとあーなんのな」


くつくつと喉の奥で笑う西広と、感心したような花井。
しっかり者のイメージが定着した栄口の子供っぽい一面を見て、2人は妙なお得感を覚えた。
しかし、これはますます寝かさねばなるまい。
このままでは午後練どころか授業も危ない。


「栄口ー、ちょっとこっち来い」


ちょいちょい、と手招きして花井は栄口を呼んだ。
栄口はテトテトとおぼつかない足取りで素直にベンチに戻って来る。
もう自分がどんな状態なのかも解っていないのだろう。


「モモカンには言っとくから、お前寝とけ」

「ヘーキだってばー」

「ヘーキじゃないから言ってるんだよ」


西広の言葉にむぅ、とふくれる栄口。
今や反応が本当にただの子供だ。


「…眠くないもん」

「ふっ…くく…っ、わかったわかった」


栄口の返答に歳の離れた妹を連想した西広は、もう笑いを堪え切れない。
ポンポン、と栄口の肩を叩いて宥め、花井も釣られて顔がニヤける。


「なんだよー」

「や、あのな。お前今自分が思ってる以上にヤベーから。大人しく寝ろ」

「やーだ」


相変わらず頑なに寝ようとしない栄口に、困ったように顔を見合わせた花井と西広。
そして2人が次に発した言葉は、


「あのな。お前が寝てくんないとみんなが困んだよ」

「栄口がケガしたり倒れたりしてチームが困ったら、イヤじゃない?」


極力ゆっくりめに、小さい子供に言い聞かせるように言葉を連ねる。
栄口はふくれたまま、黙って話を聞いている。


「ちゃんと寝て、ちゃんと復活して一緒に練習しよーよ。ね?」


西広がそう言うと、花井はよしよし、と栄口の頭を撫でた。
すると、ついに栄口は観念したのかコクリと小さく頷いて、ぽてぽてとベンチに歩み寄った。
そして自分の鞄を枕代わりにして横になり、


「おわったらちゃんとおこしてね」


既に漢字も使えていない口調でそう言うと、すやすやと一瞬で眠りに就いた。




「スゲー、一発…」




栄口の寝息を確認した水谷は、一発で栄口を寝かしつけた花井と西広に尊敬の眼差しを向けた。


「何でー?オレがいっくら言っても聞いてくんなかったのに!」


水谷が尋ねると2人は『シーッ!』と口に人差し指を当て、眠る栄口から少し離れて会話を続ける。


「栄口みたいなタイプはね、“自分の為”って思わせる言い方は逆効果なんだよ」

「そなの?」

「自分の為より、ヒトの為の方が頑張れる奴だかんなー」

「…確かに」


2人の話を聞いて、思い当たる節を見つけた水谷は感心した。
1つの事に夢中になってしまう自分とは違って、視野の広い栄口はいつも誰かの世話を焼いている。
自覚があるのかは知らないが、キャプテン花井に負けず劣らずの世話焼き気質だ。
しかも単に優しいだけでなく、本当に相手を思いやった行動が出来るのは、栄口が他人の気持ちを読み取る術に長けているからだろう。

水谷は思う。
もしも栄口を嫌いだと言う人間が居るのなら、是非ともお目に掛かってみたいものだ。

緩みきった寝顔を晒して熟睡する栄口を遠目に見て、水谷はくふふっ、と嬉しそうに笑った。


「にしてもさー、なんか2人共やたら慣れてなかった?」


栄口を寝かしつけた時の様子を思い出し、頭の後ろで手を組んで、花井と西広に問い掛ける。
それを受けた2人はあー…と顔を見合わせ、


「妹…かな?」

「うちも。ぐずるとあーやって寝かしてた」


頭撫でてやるとすぐ寝るんだよね、眠いなら寝りゃーいーのによ、と、まるで子育て奮闘中の母親のような事を言っている。
それを聞いた水谷は、思わずぶふっと吹き出した。


「だっはっはっは!カーチャンみてー!」

「なっ…!しょーがねーだろ!!」


豪快に笑われた花井は、顔を真っ赤にして反論する。
対して西広は、暇があると自分から妹の面倒を見ていたりするので、『カーチャンみたい』というのは頂けないが反撃は出来ず、頬を赤らめて困ったように笑っている。

そして朝練の集合時間が間近に迫った頃、ぞくぞくと他の部員達も揃い始めた。
水谷が大喜びで花井と西広の武勇伝を話そうとするのを花井は必死に止めに掛かるが、ベンチで寝ている栄口の説明をする成り行きで結局バレる事となる。

自分が原因でそんな大騒ぎをしている事などつゆ知らず、無防備に熟睡を続ける栄口。


まったくいい寝顔しやがって、このやろう。


花井は自分の鞄からペンケースを取り出した。
いくら西浦の母と呼ばれようとも、自分も健全な高校男児。
この程度の仕返しくらい許されるだろう。
だが油性では流石に良心が痛むので、水性にした。
コレが田島や泉や阿部ならば、容赦無く油性マッキーでヤられる所だ。
感謝せいよ、栄口。




そして朝練終了後
栄口の顔は、キャプテンのささやかな反撃で飾られていた。


寝ぼけてぐずっていた事など毛程も覚えていない栄口だったが


それもまた、ご愛嬌。



→あとがき





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