三橋の突き指事件から1週間後。
指の調子は予想通り翌日には完治し、投球練習も翌日から再開された。
何の心配も要らない、日常へと戻った。




「うまそぉ!」

「「「うまそー!!」」」

「「「「いただきまーす!!」」」」




めでたく昼休みを迎えた9組の教室に、お預け解除の号令が掛かる。
いつも早弁をしてしまうので、通常の半分くらいしか残っていない弁当にありつく9組ズ。
しかし、三橋の弁当だけは、朝母から受け取ったままの形で残っていた。


「あれー?三橋早弁しなかったん?」

「う、うん…」

「食欲ねーの?」

「そ んなことは」

「つーか三橋クマ出来てんぞ。寝てねーのか?」


それぞれの好物を咀嚼しながら三橋に問い掛ける田島と泉。
三橋はというと、図星も図星なようでグキョ、と効果音を発して冷や汗を垂れ流している。


「なんでー?なんかあったん?」

「なっ、なん にも…」

「いかにも『ある』ってカオしてんぞー」

「家の事情?」


ブルブルと首を横に振る三橋。
どうやら家の事情やプライベートな問題ではないようだが、何かあったかの問いの答えは一貫してNOだ。
お兄ちゃんズに聞かれても答えないという事は、嫌われるとかの恐怖から口を閉ざしている訳でもないらしい。
しかし三橋の体調に関しては神経質なまでに小うるさい人物が居る。
そいつの存在を忘れてはならない。


「何もねーならいんだけど…阿部はウルセんじゃね?」


浜田がついに人物の名前を出すと、三橋が固まった。
阿部の怒声を思い出して怯える様子も、肩をビクつかせる様子もなく、ただ固まった。
まるで、時間が止まったかのように。

そして、数秒後。


「なにも ナイんだ」


三橋は小さく、口を開いた。


「本 当に、なにも」


色が消えた瞳で、ゾッとするほど淡々と。


「阿部 くん、なにも 言わなくなった カラ」


紡がれる言葉に、感情は含まれていなかった。
そこにあるとしたら、虚無。
ただの、無。



「なんにも 無いんだ」




そこまで言って、三橋は残りの弁当を口に運び始めた。
お兄ちゃんズ…もとい田島、泉、浜田の3人は、初めて見る三橋の表情に恐怖すら覚えた。
3人の直感が脳内に警報を鳴らす。

ヤバイ。
思い付く限り最悪のピンチだ。
緊急事態だ。
野球部の危機だ。

その後弁当を平らげた4人のうち、田島と泉が食い足りねーと購買へ向かい、浜田と三橋は一足先に昼寝に入った。
あの話以降は普段通りの三橋に戻ったが、教室を出た2人は不安を拭い切れなかった。

あの目はヤバイって。

暫く無言のまま、田島と泉は少し騒がしい廊下を歩く。
2人の思考はやはり先程の三橋の様子だ。

阿部が何も言わなくなった。
ハタから見ていればそんな様子はないし、打ち合わせやらミーティングやら、相変わらず2人でいる時間は多い。
唯一変わった事といえば、阿部が前ほど怒鳴らなくなった事くらいだ。
三橋と話が出来ない事を彼なりに努力した結果だろう。
相変わらず三橋の態度にイラつく事は多いようだが、怒鳴る前に後ろを向いて拳を握り締めているのだ。
何とも涙ぐましい阿部の様子を、部員は揃って見守っていた。
結果やかましい怒声は前ほど響かなくなり、沖や水谷なんかも阿部が大人しくなって良かった、などと言っていた。
こちらとしても阿部の小言や怒鳴り声は神経に障る。
関係は上々に思えた。


「三橋にとってさ」

「んー?」

「怒鳴られなくなったって相手にされなくなったってイミなんかな」


田島がポソリと呟くように口を開いた。
泉も考えていた事は同じだったようで、んー…と声が漏れるが、言葉は出てこない。

そもそも、三橋は阿部に依存し過ぎなのでは、という思いは前からあった。
自分なら苛立ちや腹立たしさを覚えるほどの阿部の小言にもなぜか喜んでいたフシがある。
大事にされている、と。
栄口が以前、三橋は中学時代、徹底的に無視されていたのではないか、と言っていた事があった。
その栄口の妄想話が、妙に胸にストン、としっくりきたのを覚えている。
それを以ってすると、三橋の幸せレベルのハードルが異様に低い事にも合点がいくからだ。
自分達にとって当たり前の事を、いちいち特別な事みたいにビックリして喜んだりする。
同時にそれはとても意識を高く持たねば出来ない事でもあり、三橋の過去がいかに凄絶であったかを物語っている。
三橋の中で『怒られる』事は、『相手にされている』と同義なのかも知れない。
それと『大事にされている』が何故イコールで結び付くのかは、三橋にしか知り得ない数式なのだろう。


「でも、それだとオレ達は何だってハナシになんね?」

「そっか」

「良くも悪くも、三橋にとっちゃ阿部が特別なんだろーよ」


そーゆうモンかぁ、と頭の後ろで手を組みながら田島は言う。


「阿部も三橋も、近付き過ぎてちょーどいい距離感がなくなってるだけじゃねぇ?」

「…なんか、カップルのスレ違いみてぇ」


田島の返しに泉は思わず気色悪くなってしまった。
しかし驚くほどしっくりくる表現に更に胸焼けがした。
お互いがお互いを想い合うが故に深まっていく溝。
うわぁ…バッテリーつーか夫婦そのものじゃねーか。
大体バッテリーってこんなに執着し合うモンだっけか?
ウチは人数が少ないからたまたまそーなってるだけ?
確かにウチは三橋が負傷でもしようモンなら試合にならん。
花井と沖が居るにしても公式戦で強いトコと当たったらボロ負け確定だ。
いやしかし…


「あ、いずみ!たじま!」


そこで頭の悪そうな声が自分達を呼んだ。
人の名前くらい漢字で呼びたまえ、水谷君。


「お前らも購買?」


坊主頭をタオルで隠した我らが主将も声を掛けた。
どうやら目的地は同じらしい。


「おー、食い足んねかったから」

「お前らも?」

「あー…まぁそーなんだけど…」


苦笑いを浮かべて水谷を見やる花井。
水谷はというと、何故だかぐったり疲れ切っている。


「脱出…かな?」

「はぁ?」


田島と泉が揃って声を上げると、水谷はそれはもう藁にもすがる表情で説明を始めた。


「阿部の当たりがキッツイんだよ〜…」


7組でも野球部メンツで昼飯を食うのが日課になっているらしいが、ここ数日阿部の水谷への暴言や応対がハンパないのだという。
何か喋れば『あァ!?』とドスの利いた低音と鋭い眼光で睨みつけてくるし、感情の起伏がどうも激しいらしい。


「さすがにオレも可哀想になってなァ…」

「もう疲れたべや…」


ぐったりとうなだれる水谷。
君の出身地はどこだい、埼玉県民。


「三橋に怒鳴んなくなったぶん水谷にいってんだな」

「哀れな…」


泉ですら憐憫の情を抱いていまうほどに、水谷は疲れきっていた。
よくキレ返さないで耐えてるモンだが、阿部もそれが解ってて当たってるんだろう。
無自覚にしても多少甘えてるのかも知れない。
しかし、甘んじて八つ当たりさせていた水谷もそろそろ限界となると、いよいよ事態は深刻である。


「バッテリーが何かおかしいのは解ってんだけど…周りで騒ぎ立てて余計おかしくなってもなァ…」

「ま、オレ達が出る幕じゃねーだろな」

「えー!じゃあオレまだ阿部の当たられ役!?」

「元気出せ水谷。コロッケパン半分こしよーぜ」


うぅ…とうなだれる水谷の肩をポン、と叩いて仲良く購買へ向かう田島と水谷。
2人の数歩後を花井と泉がてくてくと付いて行く。


「で、三橋はどーなの」

「クラスじゃ問題ねーけど、阿部の話になるとヤバイな」

「マジでか」

「まー今んトコ練習にも支障ねーし、被害出てんのは水谷だけだから、しばらく様子見でいんじゃね」

「…今度水谷に胃薬持って来てやろう」


水谷の胃を心配しながら、事態の早急な解決を願う主将であった。










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