title by 翠蔭


:恋愛大気圏

 例えば僕にとってきみがどんなに広くて宇宙の様で遠く離れていたとして、それでもきみは僕の知る限り人間で酸素と何かで生きていて、それはつまり僕も彼女と同じように酸素と水と光とその他諸々で出来ていることを許されるわけである。
 恐らくそのようなことをぼんやり考えている間も、彼女は呼吸をして酸素と二酸化炭素を交換していた。きっと石灰水は白く濁る。そして彼女は生きている。
 そっと手を伸ばして、僕の目線よりも少し低いところで不機嫌そうに此方を見る彼女の頭を、撫でた。届く距離なのだ、と驚いた。
「なんですか」
 肩口くらいに切り揃えた髪をそっと梳いて、なんもないですよーと答える。益々彼女は機嫌悪く不可解そうな顔をしたので、僕はそうだなあと理由と言い訳を模索。ちらちらと脳裏を掠めた言葉を寄せ集めてゼリーで固めて、彼女のお気に召すならば。

「つまり僕は、呼吸が出来る全ての範囲できみを好きでいられたなら、それで満足らしくて」

 ただそれだけのことでしかない、そんな僕に、女の子は珍しく笑った。





:生身で君の心へ

「半熟が好き」
「ふぅん」
「真っ二つに切ったあの瞬間が、好き」
 まるで地球みたいだと思う。ぱりぱりと殻剥きをしながら、彼女は何の気なしに言う。ちょっと物騒。とろりと中身が溢れる様を想像して、俺はそいつは黄身が勿体ないと庶民派代表の意見を述べた。
「それは、皿を舐めればいいだけのことだよね」
「やめろ行儀悪い」
 なんでよう、と、彼女は不服そうな顔を作りながら、剥離を促すのを止めない。ぱりぱり。少し残った薄い内側の膜が上手く剥がせないらしい彼女から真っ白いそいつを取り上げ、つるんと薄皮をとってやった。
 とろとろの山吹色を包んだその白は、まだぷよぷよとして壊れそうで、成る程確かに地球の様で、しかし何処かあんたの様だ。
 ありがとう、そう言って彼女は久方ぶりに俺を見て微笑んだ。あとは包丁で真っ二つに、ってだからそれはやめろってば。





:高度3000km

「鯨になりたかった」

 そうしたら空高く、声が聞こえたかもしれないじゃないか。彼女は言った。
 見えなくなって煙にもならなくて何処かに消えた其れの居場所を宇宙の向こうと仮定する。小さな水槽しか知らない癖に、彼女の意識はいつも真っ直ぐと彼方。強いその目が、ずっと前から好きだった。
 どう足掻いたって、僕ら此処から出ていくことなど叶わないのに、狭すぎる水槽では鯨は呼吸も儘なら無いのに。なのに、君はいつだって世界の向こう、僕ではない遠くを見ていた。だから、好きだった。

「此処は、海じゃない」

 たとい奇跡的にそれが宇宙の向こうに居たとして、僕にアイツを怒鳴る権利もきみにアイツを叱る権利も、もう残されちゃ居ない。
 鯨の声はね、空を震わさないんだ。嗚呼そうだったなと、少しだけ女の子は泣いた。30センチの距離の僕に届かない程、小さく。





:やがて黒い空間が

 じわじわと染み込む黒の世界。そうっと深く息を吸い込む。真っ黒の其れを俺は肺に、血液に、全身に染み渡らせていくのだと思う。済んだ黒。かじかむ指先からも、きっとしんしんと其れが冷たく染み込んでいる。
「寒い?」
「そりゃ、まあ」
 あんたにコート貸したから倍寒いです。なんだってそんな薄着だよ、と、言うのも億劫なのでそのまま浮かんだ言葉も黒に溶かした。こうして隣に居ることに意味も意義も無かった。輝かしい未来が見つからないと喚くのに飽きたから、こうして。
「わたし、流れ星って信用ならないと思うの」
「この状況で言うか、それ、フツー」
 今日なんちゃら流星群らしーよー、と、真夜中叩き起こしに来たのはあんただ。「でも、星屑が消えるのは素敵」「はぁ」「夜が濃くなるから」「……」新しい星の勘定はしないんだな、なんて、そんな反論は無駄で無意味で馬鹿馬鹿しいのでやめた。
「ずっと、黒なら、いいのにな」
「……それ、寒いよ」
「きみが、居るから」
 大丈夫よ。そんなこと言ったって、結局、東からこの黒はかき消されるんだよ。





:燃えて、意識の剥奪

 あの日、心臓の下の辺りをぐるりと思い切り持って行かれた。痛いくらいの光と彼女の音が、叫ぶように響く。こいつにしよう。そう思った。耳を突き抜けたその音は鼓膜や何かをすっ飛ばして、内臓ごと揺さ振ったのだ。

「だから、一生あんたに付いていくよ、俺」
「あーはいはい、お前のその話飽きたからさっさと練習戻れって」
 基本不機嫌で性格マックス悪い横暴ドラマーは、俺の隣で苛立たし気だ。この苛立ちも不機嫌も、音になればなんて心地良い。
 彼女の隣で音楽が出来るこの日々は俺にしたら実は奇跡に近い出来事で、きっと人生の半分くらいの運を此処に注ぎ込んでいるのだろう。今後の俺はアンラッキーボーイまっしぐらである。
「ほら、合わすぞ」
 たたん、と、スネアの音がして、隣のギターはちょっと笑って、俺はベースを手に取った。
 脳裏、轟音。彼女の刻むテンポが今でも耳の奥に残ってる。あの熱さを重さを痛みを、俺は一生忘れない。





:僕は今、星になった
(君も見えたかい、あの光が)

 彼女と僕の間には驚くべき質量の差があり生きていく差があり、例えば流れる時間や、否、ありとあらゆる流れの中で僕は一人立ち止まるしかなかったのだ。
「あ、月」
「三日月、だね」
「月は好きよ」
「とってきてやろうか」
 食べたら甘いかしらね、彼女はクスクス笑いながらふわふわ浮かぶ僕に笑う。飴玉じゃないんだから、きっとガラスの味がする。冷たい無味、まるで僕の様な味がするのだ。
「隣、が、良いかな」
「何よ、急に」
 二度と歩けはしない足と二度と空気を震わさない声でもって、彼女の隣を独占する、半透明の僕。彼女が寂しそうにするので僕は無理に笑った。ふわり、空に浮かべば、きっと彼女、僕を透かして夜空を見てる。




Thank you clap!





人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -