(響と千波(とアルト)/歌うたいとチェロ(と少年))
青、それが君の名前だとしてさあ。青。青。返事をしないで。僕らブルーの表層も知らない。言い換えの言葉はいつもむなしい。歌を。例えば君は歌うとして、さあ。ブルー。深すぎる青は黒に近い。
心に飼っているアルファの夢とベータの暴言、部屋灯りを数え続ける彼女、電灯を消し壊して回る彼、文明。ブルー。君のことではない。君は歌うとして、さあ、歌わないとしても、さあ。
「響ちゃんの見てる景色の話、俺は好きだねえ」
「ありがとう」
景色の話を俺はしていただろうか。分からない。スミレが言うのならばそうかもしれない。スミレはいつでも俺の言葉をそのままにしておいてくれる。酷く言葉が冗談じみていて何も本当でないように口を利く。リリクの裏で漏れ聞こえる音に耳を澄ませていたら知り合いになって、あの雨の日には拾い主になった。
”あの雨の日”というのは俺にとってだけ通じる言葉で、ゆらの言うあの雨の日とテンポの言うあの雨の日とアルトの言うあの雨の日は全部違っている。他の誰かもそれぞれのあの雨の日を抱えている。ある日は口の中に血の味がして、ある日は一人だけ傘を差したまま爆発四散を見送って、ある日は史上最悪の店主に出会った。
スミレは俺の話を半分くらいにして耳に流し込みながら、カウンター近くの椅子に座っていた。俺はステージのふちに腰掛けていた。演者と観客の距離は、こうしてみると思っているよりずっと遠い。
スミレはこのライブハウスの店主だけれど、あまりそんな風には見えない。自分の作ったこの空間がとても気に入っていて、誰も居ない、または音楽を流すことのない時間を特に好いているようだった。煙草の煙が天井に伸びていく。
「さあて、今日はなにからはじめようか」
「フロアの掃除、って。さっきアルトが買い出しに行く前、えっと、前じゃなかったかもしれない、言って、ええと」
「オッケー、響ちゃんはそこで歌って待っててくれ、俺は二度と君にモップを持たせないと神とアルトちゃんとゆらくんに誓っている」
青の歌を作る。俺は、いくつかの音を頭の中でまぜる。スミレは煙草を灰皿に押しつけて消すと、カウンター脇に置いたままにしていたモップを手に取った。傍らにはバケツもある。濡れたモップが雑に床を撫でていく。アルトはモップをかけ直すだろう。
ブルーの歌。この間楽器屋に行ったときによぎったブルーだ。あの黒々の瞳の底は夜より遠い。スイミー、否、君は目にもならなかったし海に存在などしない。夜のような青はそれは黒と呼ばれるのだ。
舌先を撫でる音階はどうにも納得のいく物じゃない。何が足りないのか。ああ、音。ギターではなくて君の抱えている音は、そうか、チェロ。
*
特に理由無く始めたチェロは、辞め時がよくわからないまま今日に至っている。下手ではない。いや、上手い方だと思う。自覚がある。天賦の才があるとまで言うつもりはないが、専門的にやれば良かったのではないかと思う程度には上手いし苦でもない。生涯を共にしても、後悔はなかった。
辞めるべきだと感じた日が無いとは言わない。俺にだっていくつかの扱いに困るほどの日があった。俺のその日は雨ではなかった。忽那にその日は雨が降っていたかと訊ねられたとき、もしあの日に雨でも降っていたら俺はチェロをかなぐり捨てられていたのかも知れないと思った。晴れていてよかった。
俺の記憶が残していくような日々は晴れで、そう、あの人もあの人もあの人も、俺の周りは晴れに好かれた人間が多かった。俺も恐らくは晴れに好かれているのだろう。旅行で雨が降った覚えがない。よく晴れた日の結婚式会場というのは死にたさと殺したさの凝縮された存在だと、教えてくれたのはあの人だ。
閉店後、夜、店の裏の防音室。窓からは隣のライブハウスの裏口階段と倉庫辺りが見える。見える、というのは昼間の話で、今の時間帯では暗くて見えない。表の通りは明るいけれど裏口は此方が閉店後なこともあってよりもって暗い。
部屋には、真ん中辺りに座ってる俺以外にもう一人、いた。無造作に脇に置かれていたパイプ椅子に座ってじっと動かない。此方を見もせず窓から外を眺めていた。なにも見えないくせに、睨み付けるように。幼い顔立ちの目立つそいつは、今日はまあ高校生くらいには見えた。
「家出少年」
「うっせシネ」
「今日ねえの、隣」
「おれは休みなの」
「あ、そ」
深入りするのは面倒だった。忽那がこんな風になってこの部屋に入り込んでくるのは珍しい。大抵は冷やかしのように軽やかに、出勤前とか昼下がりとかの空き時間にちらりと来る程度だ。
此処なら、隣の喧騒が遮断できる。地続きの街の最中、この部屋にはギターの音が入り込まない。防音室とは言うものの少しばかり安い作りで、外に若干の音漏れをさせるが、ここらでは気にならない程度。
手放すに至らなかったチェロの音だけがする。誰かが好きだと言った俺の音のことを俺は好きではなかったが、いまの俺の音のことは好きだ。一人きりの部屋のなかで弾くのが良い、いや。今は二人だとしても。
勝手に使ってる防音室のことを、うちの店長はそろそろ諦めていて、最近は「戸締りだけはちゃんとしてよねぇ」とだけ言い添えて鍵を渡していく。
フラフラの忽那のとこの店長と違ってただひたすらお人よしって感じ。バイト採用ガチャドブって可哀想。ギターの良さが全然わからない、あーはい、楽譜は読めますけど。それだけだ。あの人本当にこの店で生活が成り立っているんだろうか。
俺以外ほとんど使っていない部屋だ。電気が切れてて手元灯り程度のオレンジがかった明かりのスタンドライトしかない。暗い。窓際のそいつが窓の外に溶けるようだ。今度勝手に電球を替えようと思う。
「さっきの曲、なんてやつ」
「知らない」
「なんだそれ」
「名前はまだない、多分」
「意味わかんね」
「耳コピだからさ」
それは誰か、の、鼻歌だった。誰かなんてわざわざぼかす必要はないな。先日来ていた客だ。小柄で細身の男だった。骨と皮のような腕をしていた。ギターの弦を選びに来た客。彼は特に手に取るでもなく何を問うこともなく、しゃがみこんではパッケージをじっと見つめて選んだ。
店には三人で来ていた。背の高い女と、茶髪の男だった。名前は一応知っている、忽那の知り合いたちだ。そう、ネイミーというバンドをやっている。未だ、観たことはないし聴いたこともない。
三人は殆ど口を利かなかったけれど、ほんのたまに、これがいいのか、とか、真面目に選べよ、とか、そんなことを言い合った。俺は三人ともの名前がうまく思い出せなかった。楽器みたいな名前だった気がする。
その歌うたいは気がつくと弦を選んではおらず、俺の方を見つめていた。目が合ってしまう。長い前髪の隙間から見える瞳は俺をじっと見ていた。それから眉を寄せて、「青い」と言った。言ったと、思う。曇った声音はあまりきちんと耳に届く音ではなかった。俺が何かを聞き返すよりも前に、彼はふいと顔を背けて鼻歌を歌い出した。機嫌のいいようなメロディではなかった。
彼はそのあと鼻歌を何度かかき混ぜるように歌いながら五分ほど二つの弦を見比べ、一つを手に取って女の方へ差し出した。背の高い女はそれを受け取って会計を済ませた。軽く挨拶を交わした。隣のライブハウスで働いていることもあり、彼女とは一応顔見知りだ。その印象が強いのはわかるがチェロくんと呼ぶのはやめてほしいので、今度忽那に名前を知らせてもらおう。茶髪の男は随分前に他の店に行くと言って先に出ていっていた。鼻歌のメロディーが耳に残っていた。
チェロの音に落とし込むために大きくアレンジをしている上にうろ覚えのところは勝手に補完したから、原型に近いかと言われたら断言はできない。歌詞がつくのだろうか。つかなくてもいい。名前がつくのだろうか、つくのだとして。
「お前の方が、俺より先にこの曲の名前を知ると思う」
「えっ、なに気持ち悪なに?」
「お前なそういう所が、」
コン、と、窓を叩くような音がした。元々あってないような会話が途切れる。気のせいかと思ったが、忽那も同じように窓を見つめてから俺の方を見た。
席を立つのはどちらも億劫だ。お前の方が窓に近いだろ、という念を送るが無駄。「最初はグー、」「じゃんけん」パー、チョキ。晴れ男でも運はよくない。アルトはじゃんけんには強いが運はよくない。今回は俺が負けた。チェロを置いて窓を開ける。どうせ虫とかそんなもんだろと視線を落とす。其処には瞳があった。
「ブルー、その音だった」
*
時折ほんの少しだけ漏れ聞こえていたチェロの音。君の音だった。薄暗い中、君は俺を見て驚いたようだった。このあたりに人はほとんど住んでいないから夜中までその音が漏れ聞こえていて困ることはなかった。チェロの彼の横からアルトが顔をのぞかせる。
俺の姿を認めたのか「は?」と、その顔立ちから出るにはどうしても不釣り合いなほどドスの効いた声が出た。俺はアルトのいつもよりも少し低いその声音が好きだ。
「あ。アルト」
「……んっだよ」
「スミレがアルト呼んで来いって、言って、ええ、と。だいぶ前。かもしれない、言ってた」
「だっさ、バレてんじゃん忽那」
「うっせ殺すぞ」
スミレとアルトは仲が良くない。良くないわけではない。どういう表現が適当なのかただしく判断はできない。テンポは父親と娘みたいだと言っていたけれど、それもテンポの想像上の父親と娘でしかない。今日はスミレのモップ掛けからもめて、いろんなことが、俺はよくはしらないけれど、あって。アルトはここに居て、スミレは俺に裏口から楽器店の防音室へ行くように言ったのだ。
アルトは忌々しそうに俺を見る。アルトは何かを嫌いになるのはとても不得意だろうと、俺でも思う。アルトは俺のことが嫌いなわけではなくて、ただ、ただ、忌々しさが付きまとうのだろう。
「……帰る」
アルトは小さく言うと、窓とは反対にあるドアの方へ向かっていった。「帰んの」「うん」振り向いた男とアルトは短いやりとりだけして、程なくドアの開いて閉まる音がした。その間中、俺は男を見ていた。チェロ弾きの男だけが防音室には取り残される。こちらに向き直った彼と再び目が合う。合っている、と、思う。
「チェロくん」
「並木千波」
「さっきの曲の名前は、なんだと思う」
「聴いてたのかよ」
あー、と、低く唸る。目元にかかった髪を指で払い、目をそらす。返事をすることなく、置いていたチェロの方に戻り、ケースにしまいはじめた。薄明かりだけの部屋はオレンジに沈んでいる。
俺は窓のサッシに手をかけて、その姿を見ていた。瞬きの回数がいつもより少なくなっていた。掃除の行き届いていないサッシは触ると指が汚れた。空は晴れて星も月もよく見える夜。風が部屋に吹き込んでいくのがわかる。
片付けがすっかり済んでもそこにいるままの俺に、彼は「窓、閉めるから」とようやく口を開いた。建付けのよくないらしい窓は彼が手をかけるとがた、と鳴った。俺はまだ手を離していない。沈黙。三度目の視線の邂逅。十五秒程度、だったろう。並木千波が、チェロの声で言う。
「青」
ほら、と視線が促したので指を離す。がらがら、がた、と、音をたてながら窓は締まり、すぐに電気が消された。青。青。そうか。いま、呼吸をしている自覚があった。電気が消えたのと大差ないくらい、後ろから鋭く声がかかった。
ライブハウスに先に戻っていたらしいアルトだった。容赦なくシャツの襟を引っ張る。何か小言をぶつぶつ言われた。青、それが君の名前だとしてさあ。青。青。返事をしないで。僕はブルーの表層も知らない。言い換えの言葉はいつもむなしい。歌を。例えば君は歌うとして、さあ。歌わない。歌わないだろう。俺は歌おうかな。
20171207