ミスった。財布の中を覗くも、すでに小銭は残っていなかった。札? まさか、ふざけるな。今日最後の野口に別れを告げたばかりだ。
 110円のミネラルウォーターと、缶ジュースのいくつかのランプが光っている自販機の前で、私は一つ光らないままのランプを見つめていた。120円の表示。下段の端、ラベルの上に存在するのは、

(私にポタージュをよこさない自販機など壊れればいいのに)

 鞄に入ったままの大量の本が笑っている気がして、入りきらなかった本を詰め込んだ手提げごと思い切り振りまわして自販機にぶつけてやろうかとさえ考えた。
 今日の新刊に特典をつける本屋とか、300円で昭和初期の本を売る古書店とか、今日に限ってほしい本を105円で売る古本屋とか、三冊200円セールなんぞをする古本屋とか、とにかく今日回った本の関するすべてに対して恨みを覚える。逆恨みだ。

 大体何で120円なんだ。隣の同じサイズの缶コーヒーは110円でつまりいま赤いランプを点けているわけで、これは差別だろう。
 もしくは缶コーヒー好き(セーラー服好きの変態含む)に対する依怙贔屓だ。なぜ塩分が増えたぐらいでこうなるのか。コーンが入っているからか。

 舌打ちをすると幸せが逃げるとか天籟が言っていたので我慢しながら、いやそれ溜息だろ舌打ちとか里々だってしてるしあの野郎いつになったら死ぬんだこれは八つ当たりだがもう今更どうでもいいけどな、そんなこと。
 と、光らないままのボタンを押した。無反応。もう一度。かちかちと音だけが響く。

 段々苛々してきた。元々苛々していたけれど、なんだか、本格的に。
 傍から見た私は一体どんな状況なのだろうと一瞬考える。無表情で自販機のボタンを押し続ける女。気持ち悪いな。
 だがこの苛立ちはとかくそんな冷静になって収まるものではない。私は真剣にこの苛立ちと向き合っている。

 慈草は真剣になるポイントをことごとく間違えるから友達が少ないんだとほざきやがった変態が脳裏を掠めて私の苛立ちはピークに達した。
 くそ、帰って里々の部屋に本を投げ込む遊びでもしよう。あの野郎いつになったら以下略。

 、その時。だった。
 過去形。

 取り消しのためにつり銭のレバーに手を伸ばしかけた、瞬間。
 ピ、と、小さな電子音。ガコン。

「あ、」

 聴き慣れた音だ。手になじむあの重さの落下する音がまだ耳の中にある。110円でも120円でも変わらないあの音。
 一瞬事態の理解が止まる。分からない。分からないけれど、とかく、自販機が稼働したのは確かで、それは私の意志や意識の外で起きている。

 故障だろうか。確かににそこらの女子高生がこのボタンにこめるものと比べたらその数十倍にあたる力と数百倍にあたる怨念と数千倍にあたる理不尽はこめただろうが、

「……いや、それくらいで故障していたらお前これから先やっていけないんじゃないのか」

 自販機との対話。一方通行。傍から見た天藾と天藾の会話に似ていた。片一方しか見えない。
 ただし、私の場合は返答がどこにもないことが大きな違いでありおおよそそれは越えられるはずのない格差、

「故障じゃないよ」

 声。音声。肉声。こえ。言葉が。返って。

 私は固まる。私だけではなくて、きっとこの世界の時間が一瞬止まった。呼吸が無く、風もなく、全てが透き通って消えれば逆にそれら存在感が増して私の形すら歪める圧力を持つ。すべての空気を透明な樹脂が固めた。

「はい、これ」
「あ、りがとう」

 自販機の受け取り口から勝手にポタージュが取り出され、受け渡される。まるで手渡し。
 問題は相手がまるきり見えておらず、ポタージュ缶が勝手に浮かんでこちらにやってきていることである。
 まあ実際にはそれだけのことなので、世の中にはよくあることなので、気にするまでも無いことなので、私は有り難くそれを頂戴、

(待て。おかしい。多分これはおかしい。例えばこれが夢とか、そういうのは違う。質感。夢ではない。私の知っている空間だ。この酸素濃度を私は認知する。夢を自覚するのは存外容易い事は周知だが現実を自覚するのは以外、困難であった。私の目の前で起きているこれは何だ。現実。ノンフィクションである。フィクションの欠片もなく私は気に入りのポタージュを手に入れることに成功した)

「ポタージュ、そんなに好き?」
「……え、ああ、まあ」

 冷めるよ、と、声が言うので(声は確かに言うことしか出来ないだろうけれどその矛盾の内包は仕方がないとして、そう、何故ならその実態が私には掴めないからだが)、缶を開けてその甘味の残る香りを漂わす。一口。望んだ味がしたので、やはりこれは現実らしかった。

 物語には予想の輪というものが存在してそれをどのように突き破るかがそこからの発展と展開に繋がるらしい。あまりに輪から下手に飛び出すとそれは不条理に繋がるのだろう。

 例えば、朝目が覚めたら虫になるなどというアレは恐らく人の予想の輪をずれていく。突飛もなく。読了後の不快感と言ったらなかった。
 課題図書だったが、あれを読ませようと思った教師が一体私達に何を考えさせたかったのかの方が気になってしまい、内容にはさっさと置いて行かれてしまったのを覚えている。物語とかいうやつは、それに集中しないとすぐに置いて行こうとする気分屋の構ってちゃんの乙女思考だから少し苦手だ。

 予想の輪を外れた。今。
 目の前の自販機がいきなり語りかけてくることを、私はどう受け止めるべきなのか。

 1、すべて夢。
 2、たぶんとうとう頭がおかしくなったらしいので天籟に良い病院を紹介していただく。
 3、何もかも人生の根底から里々の陰謀。
 4、匂坂の呪い(有力)
 5、10円安いポタージュを手に入れて万歳。

「……5、だな」
「は?」
「いや、なんでもない」

 多分これは夢で、私の頭はおかしくて病院は嫌いだけれど行った方がよくて陰謀により呪いをかけられた結果なのかも知れなくとも、此処で私に困ることは何一つ起きていなかった。
 親切にありがとう自販機。私のような奴はきっと世の中に腐るほどいるから、毎回こんな風にしていたら商売あがったりも良い所だと思うよ。

「……自販機に無表情で戦争仕掛ける女子高生はおれ、初めて見たけど」

 あと、自販機じゃない。声はそれを告げて、少し抗議した。自販機と呼ぶと空気が少し不機嫌になった気がした。
 言葉が非常に表情豊かだったので、里々は少し嫌がりそうだと思った。里々は揺れないものが好きで、そして言葉は揺れ幅が大きいとのことだ。

(とくに、口から出る奴は最悪だね。俺はあれが一番苦手だよ)

 どうでもいいが天籟の揺れはあいつにとっては偽物らしく、それはそれでふざけていて良いけれどね、とか、にやついていた。性悪。

「でも、私からしたら自販機だ」
「ふう、ん」
「自販機からした私が女子高生なように」

 ただし、私が女子高生と言われても不機嫌にならないのはそれが事実だからなので、おそらく彼(音声は男の物だと思われた)は自販機ではないのだろう。
 貴方は一体何なのかと尋ねることはきっと難しい。私が答えられないことを、他人に訊いてはいけないような。

(一体、なんなのか)
(私とは。音声とは。虫とは。人形とは。女子高生とは。物語とは。読書とは。変身とは。自販機とは。貴方とは。可視とは。精神とは。透明で見えない存在と対話するという、その、事象とは?)

「おれは、ひとだよ」
「へ、え」

 ああ、じゃあ同じじゃないか。

(僕は、ひとだよ)
(知っている)
(何が違うとこうなるのか、わからないね)
(違わないからだろう)

 缶入りの飲み物は思いのほか早く冷める。もう少し生温く感じる程に冷えて、缶の表面のぬるさだけが残っていた。
 指先にじわじわと染みて行った温度は、いつかまた空気に溶けてしまうのだろう。身体のなかが少し温かかった。

「なら、貴方は寒さを感じるわけだ」
「そりゃね」
「……お礼に、どうぞ」

 最後の一口でも。
 多分先ほどと変わらぬところから声がしているのでこの方向であろう所に差し出す。

(そこは空間でしかなくて、此処がもう少し開けた場所であったなら私が完全に変人である噂が流れかねない光景だが、これは夢で嘘で病気で陰謀で呪いなのであって、それだけなのである。世の中は私には何の興味も持っていないことも知っている)

 彼は受け取ったらしかった。缶が持ち上がる。無重力を見ているようで面白かった。

「女子高生」
「野棚」
「ノタナ?」
「貴方は」
「ザムザ」
「カフカだ」
「ああ、」

 缶が傾く。最後の一口。それは口が広いタイプの缶なのでコーンが残ることが無くて快適に終わるポタージュだった。
 その最後の一口は大事なものである。

 ちなみにその缶はそこそこ使い勝手が悪いので使い回すことには不向きで、捨てることしか出来ませんが。大体なんだよこの形、缶けりするのにも格好のつかない形じゃないかと。

「じゃ、それ捨てておいてください」

 下手に缶を持って帰るとうるさい糞野郎が居るのです。君は相変わらず物の浪費だけが得意だねえ、なんててめえだけには言われたくないのです。お前の人形全部燃やしてやろうかと言う戦争を始めると夕飯が遅くなって面倒なのです。この自販機、なぜだか備え付けのゴミ箱がなくって困っているのです。

「え、」
「ありがとう」

 私はそのまま回れ右をした。反応はなかった。振りむくこともしなかった。それが無意味であることを知っていた。
 新しいことを知った。にやつく。私の知っているザムザよりも大層楽しい感覚のひとだった。

 世の中はフィクションで出来ている。まだまだ、世界中は嘘だ。助かった。
 呼吸が楽になり、私にぴったりの空気をみつける。
 
 アフターケアまで万全な自販機だったと、勝手に広めておくことにしよう。


(どうしよう里々、最近の自販機は予想外に高性能なようだ)
(ああ、そうだね、くじなんかもついているし、面白いだろうね)
(喋るし金が足りなくてもサービスしてくれるしなにより取り出し口から勝手に缶が出てきて浮かんで手元まで届く)
(ごめんちょっと俺にはわかんない)
(しかもそれが実は自販機じゃなくて人間で)
(ごめん慈草もしかしてそれ鵺の呪いか何かじゃないかな)
(お前よりも紳士的だった。構わないよ)
(俺が構うよ!)


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written by togi


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