(慈草となこと)


 角を曲がったら、其処には天藾が居た。天藾なこと。私の、他人を覚えるのを苦手とする脳内に、何故か酷く焼き付いたその人。
 何回も、何回も、重ねて焼き付けたわけでもないのに、どうしても消えなかった。

(それは、君が、人でないくらいに儚いから?)
(瞬きの間に消えてしまいそうな、存在で、)

「どう、した」
 ビニール傘をぱたぱたと水が叩く。天気雨に近い、明るい空と不似合いな大粒。冷めた自分の声が、ずぶ濡れの彼の鼓膜を揺らす。
「野棚、さん」
 振り向いた天藾の目は、驚いたような安堵したような、それでいて酷く困ったような曖昧な色を浮かべた。

「馬鹿、入れ」
「え、?」
「だから、傘」

 ぐい、と、湿ったブレザーを引っ張って、狭い傘の中に引き込む。冷えた感触が近付く。
「い、いよ」
 天藾は抜け出そうと、少し傘の柄を押し戻した。いいよ、放っておいて。反抗期の子供のような揺れる声だった。何がいいんだ、いいわけあるか。

 私よりも少し下にあるそいつの目線を上げさせるように、ワイシャツの胸ぐらを掴む。かくん、と、天藾の腕から力が抜けて、代わりにその大きな目が私を捕えた。

「言葉が、足らない」

 至近。私の目が、天藾の目に映っている。黒々とした私は、天藾の淡い色素には似合わなかった。
 言葉にしたってしゃーないよ。だって変わんないじゃん、ねえ。そう言いたそうに、様々な感情がぐちゃぐちゃに絡まった表情。

「言葉にして、ちゃんと理由を明確にして、泣け」

 私は、あの悟り屋糞野郎じゃない。何度だって言って貰わなくちゃ、分かってやれない。「何度も、お前の頭の悪い話くらい聞いてやる」、もしも、一瞬で消えるような記憶だと言うなら。いくらでも。

「言葉は消えるでしょ」
「私が、消さない」
「嘘だよ、そんなものは夢じゃないか」
「なら、私に残せるくらいにお前の言葉を作れば良い」
「なん、で、」

 なんで、野棚さんは、いつもそうやって僕の気持ちを引っ掻き回してくれちゃうの。「ほんと、そーゆーとこだけは、大っ嫌い」言って、そっと私の手を離させる。距離。

 ──うそ、好きだよ。

 ぽつんと呟かれた言葉と、悪戯そうなその顔と、丁度良く止んだ雨。目の前が一瞬弾けて、呼吸が止まる。天藾が笑う。
 ほんの少しだけ日の差す、天気雨の昼の話。



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