(里々となこと)

 野棚慈草は、人間の名前を覚えられない。
 顔と名前が一致しないとか、覚える気がないとか、名前を知らないとかそういうレベルの出来事ではなく、現存実在する人間のラべリングが異常なまでに不得手、下手、端的に言って壊滅的に出来ない。しかも何故かフィクションの物語の登場人物ならば場合によっては覚えられるというのだからわからない。伝記とか困らないのか。詳しく検証する元気はもちろんあるはずもない。
「……つまり。もしかしたら君、架空ということでは」
「よくそれこの存在に言っちゃえるよね」
 まあもう全然よくないけどそれでもいいけど。もしかフィクションが実在したなら。目の前できちんと自分というキャラクタを保つ天藾なことという生き物は非常に精巧にフィクションを貫くだろう。
 彼女が俺の名前を憶え、顔を覚えるのに一体幾日、幾月かかったと思っているのか。俺が昨日飲んでいたものはメーカーまで覚えていられるのに、一雨里々という四文字だけは(音にしてポカリスエットといい勝負である)覚えてくれなかった。そういう中学校生活三年間の長さを、君は知っておいでだろうか。
「里々、今日もしかして元気?」
「今日は放課後鵺と一緒に布を買いに行く予定があってね、無論つまり論ずるまでもなくそれに関しては非常に楽しみなんだけどこれとは別のことだと俺の中では認識していて、つまるところそんなことはどうでも良いけれども、不思議なことだなと感心していたのさ」
「おっけー、とっても元気だね」
 改めても。あの野棚慈草がものの数日――もっと言えば、恐らく、一度きりで――名前をその記憶に刻んだのはこの不確定な存在ひとつなのだから。
「天藾なこと」
「なに」
 おんなじ七音なのに。

「俺は運命というものを信じていないけれど、運も実力のうちであるとも思っているよ」
「今日、どうしちゃったのマジで」
 時にはこうして人の幸福の端をつついて笑いたくもなるのさ。そう言ってやればなことは「ぞっとするぅ」とだけ言った。失礼な話だ。
「里々は、僕に幸せになれとでも言うつもり?」
「はは、君の言う“幸せ”はもしか恋人関係にでもなることを指しているのかな? だとしたら君は俺をなめてる」
 なことの目が俺の表情をなぞる。なことが人の感情や意図を探ろうとするときの様子はひどく純粋で無防備だ。その純粋さは君のもつ“設定”には不釣り合いだろうに、真実天藾なことらしくて、俺は好きだ。

「俺は彼女に刻まれた名前が君であったことをえげつなく不幸だと思う。世界的に見ても哀れな方に分類されるべき事象であろうと思う。少女が一つ覚えた名前が、ただ人格としてのみ存在する器のないものだなんて悲劇的だと感じる。しかしそんな些末なことは俺にとってはどうでもいい。君たちは何よりもくだらなく馬鹿馬鹿しく在り来たりに生きていて、“幸せ”になんかならないでいて、ほしい」

 設定も、悲劇も喜劇も、シアワセも、どうだっていい。物語の神様なんてものは基本的に糞くらえだ。
「それを、里々はしあわせと呼ぶんだろうね」
「そうなのかもしれない。名前を付けるのだとしたらね」
「そんなしあわせなら、僕もなってやってもいいな」
 そんでもって里々が今日はめちゃくちゃご機嫌っていうこともわかったからね、なんて、偉そうに人間みたいに笑うフィクション。







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