(なことと里々と慈草)
友情なら。恐れずに言うならば永遠にほど近いのである。
そう思って信じ切って止まない僕は恐らくのところ友情というものをよく知らないのだろう。しかし、夢を見ている。明確な終わりと始まりを必要としない、この世で名前を付け直さずに存在し続ける、
「絶交したら、それも夢だな」
「夢のないこと言うねえ、野棚さんは」
「恋情に対する僻みのようだ」
「僻みというよりも妬みに近いものじゃないかな」
「里々まで、ひどい」
放課後の図書館は人も少なく、夕暮れが傾くころには僕ら三人きりになることもあった。最終下校までのわずかな時間。僕らは三人きりで、下らない、どうしようもない話をする。
「僕はさ、だから。恋とか愛とか、クソだと思うよ」
感情に名前を付けて、関係にその音を充てた時点で、終わりが見えるようで。僕はそういうものが苦手だった。この世界中何一つ終わってなんかほしくないし、変わってなんか貰いたかないのだ。
「心底ひどい」
「クソは君の方だ」
呆れたように言う彼女と、厭な笑みを浮かべて言う彼と。差し込む西日はカーテンに半端に遮られて視界をちらつく。ノイズ混じりに鳴るチャイムは、今日の最後のもの。
「だから、僕たち。友達かな」
鞄を持ち上げる里々は「はは、馬鹿だななことは」と笑う。はらむ矛盾を僕も知ってる。「名前を付けたら同じことだ」落ち着いた野棚さんの声はやさしくて、ふと彼らを見ればおなじ優しい目で僕を見ていた。おぞましい、やさしさ。
「でも、そうだね」「少なくとも」
「「友達と、呼んでいる」」
ばかばかしい。ばかばかしい話。恋も愛も知らないけれど好きな人はいたりして、例えばそれは本で、人形で、衣服で、煙草で、カメラで、まごうことなく人であったり、して。
「それじゃあ、僕ら、友達同士ということになるね」
最高の冗談。図書室の鍵を指先でもてあそぶと、ひんやりとしていて実在がそこに在った。