――誰なの、貴方。
訊ねた声は震えていただろう。彼は私に伸ばしていた手を止めて、訝しむような苛立ったような顔を見せた。
「何、それ」
どういう意味で言っているのか、と訊かれている。
私は寝台の端に後退りながら、それでも必死に言葉を探す。学生服のスカートの裾を握って、私が取るに足らぬ女だと主張するこの衣服に縋りながら。
「貴方は、違うわ」
違う。あの、銀の持っていた切り抜きは確かに貴方の顔をした人が映って居たし、それに間違いはない。
女王の所を通されてきたのは、あの写真の青年である筈だということも分かっている。街の外で起きている國の其れの中枢に位置する人物の御子息様。丁重にお迎えしろと、女王からの言伝だった。
あの日に至っては今日と違いきちんと着物まで着付けられて。箱庭の最上階が媚びなくてはならない程の地位の存在。
「だれなの、」
貴方は、貴方では、ない。
――瞬間、だった。
「誰からの情報だ」
又は、何処からの。呼吸すら憚られる。心臓が冷える程度、私は生に執着が有った様だ。
ちり、と、痛むほどぴったりとした距離の中に、刃物。短刀だ。きらりと光るのが視界の端に映るが、それ以上動くことはできない。首元にひたりと。
「っ、」
遊君の事情に詳しくないのだろう、万一に傷を付けた場合の話だとか。嗚呼、彼は私を殺す心算なのだから構わないのだろうか。
青年の先ほどまでの余裕や見下した笑いは掻き消え、完全に彼は彼ではなかった。
「俺の事を漏洩したのは何処の誰だと聞いて居る。答えろ、遊君」
低く、冷えた声をしていた。元々冷たい音のイメージがあったが、今や全く違う声音。
「ばらすも何も、在りません。貴方が軍の統帥の御子息だと言うことは聞いて、居ました。それで、私の所に、通したと。でも、私見てしまって」
貴方の写真。ポケットの中に入っていた切り抜きを出す。首元の短刀はそのままに、彼は其れを見た。真っ黒な瞳に映る銀色の刃を私は淡々と眺めていた。
「これが、何」
「其れは貴方じゃない、でしょう」
此処には貴方の名前で貴方だと言われている人物が載っているけれど、貴方じゃ、無い。ようく顔も似ていて、否、全くと言って良い程同じ顔で、それでも違うと感じてしまった。
緩やかな色の違い。それは表向きの顔と裏向きの顔と言うものとも違った。根本から、ひとが違うと思ったのだ。
「貴方は誰なの。それとも、この写真の人が違うの」
御子息様の御名前は、陽と、言った。唯一女王が私に流した情報だった。彼には私の名は伝えていないだろうに、不可思議だと思った。
陽。陽だまりだなんて、貴方には似合わない名だ。貴方には、もっと、深く沈みこめる色が、
「夜、」
口から自然に出た言葉に、彼が目を見開く。「なにを、君は言うんだ」と、先までの殺気を消して、まるで困ってしまったかのような顔をして。
「貴方は、誰」
再度、真っ直ぐに見詰めて、呟くよりもはっきりと伝える。
貴方の名を教えて。
「俺の名は、貴方が知っているようだよ」
ひらりと、短刀を慣れた手付きで仕舞う。彼の瞳は矢張り写真で見た陽氏よりも幾分か薄暗い影を帯びていて、それを気付かせない程にきつい目付きをしていた。
写真の彼は険しい真面目そうな顔をしていたが、彼は険しく生きて行けなそうな顔をするのだ。其れ位しか違いはない。それでも、彼は、彼ではない。
「紙切れ一つで分かるとはね。父上すらも見分けが付かない、俺達を」
ほんの、一瞬。彼が笑ったような気がして、私の錯覚を笑った。