「機嫌悪いな、麗」
そ、う? 息を切らしながら訊ね返す。不機嫌そうな鳴き方だよ、と、まるで猫でも相手するように御客である男は言う。
着付けの時に綺麗に結って貰った髪は解けてぐしゃぐしゃで、俺はその人の下で揺すられたり嬲られたりしているのだ。
吐きそう、なんて思うことなんて今更無い。いかに綺麗に鳴いて媚びてみせるかだけが、大切で、それ以外は要らない。
「何かあったか」
「やだな、集中してよ」
何か、と言われて浮かんだのは今朝早くの出来事。あの俺をつかんだ細くて墨の入った傷だらけの腕。多分、身体はもっと酷いんだ。作り物の星空と、その下で笑った少年。顔に傷が無いのは“そういうこと”なのだろう。
やだ。考えたくない。箱庭のことなんか。ひっぱたいた後の、あの、居留の慣れてしまったといわんばかりの表情、なんか。
「集中してないのは、お前だろ?」
「……っ、んな、こと」
そんなこと、ないよ。これくらいで何か変わったりしないことなんて、今更嘆かないよ。
分かってるんだから。この街は悉く俺を嫌いだってことも、誰も帰ってこないことも、何もかも。
──、──。
やっちゃったなあ、と、思った。絶対機嫌を損ねたよ、これじゃあ。あーあ、客減ったらどーしよ。なぁんて、あんま思ってない。どーでもいい。
(どうせあの御客は、俺の言葉に興味など、無い)
一通り俺で遊ぶと毎回飽きて放り出すような相手だった。さっさと支度して帰れと言いたげだった。事が終わってすぐに着付けを解いてさっさと私服に着替え、俺は帰路に着く。そう、今日は出張だったのです。お金持ちの御客様にはその位の奉公をってわけだ。何せ店の部屋なんて安くて汚くて仕方ない。
「……どーでも、いい」
キョーミ無い。そう言った少年の、あの詰まらなそうな声をなぞるみたいに、呟く。本当にどーでも良い気がしてくるから、言葉の力は偉大だ。
角を一つ曲がると、辺りでは少し静かな通りになる。更に一つ行って、一番汚い道の方へ行くと俺の店だ。
「ほんっと、どーでも、い……い、」
夜明けの間近な街はそれでも薄暗く、しかし、表通りの趣味の悪いネオンはそろそろ灯りを消す。ほんの一瞬、瞬きみたいな、夜明けの闇が来る。
其処に、どーでもよくない相手が、居た。
路地に座り込んでいたところで、此処では誰も気に留めない。風景に溶けてなくなりそうな位の薄っぺらな存在感で、そいつはぐったりと壁に凭れていた。
無意識のうちに歩み寄ると、厭な匂いがした。強い、女の香水の匂いと、腐った血肉を混ぜたような匂い。
箱庭らしからぬ生臭さだった。
箱庭は、玩具箱だ。まやかしの夢だ。俺の働く店や何かとは確実に違う、現実味の全く無い空間だ。空気と砂糖だけで塗り固めた、そんな場所の、筈なのだ。
「……居留?」
心臓が鳴った。灰茶に近いくすんだ色を湛えた瞳、今朝と違って眼鏡を外している所為か、その瞳がやけに目立った。虚ろに斜め下を眺める伏せがちの目は、確実に夜を知っていた。
顔も目付きも悪いから遊君には使われなかった、なんてのは使い古しの言い訳だ。彼には確かに爪痕があったし、腐った果実の匂いが染み付いていたじゃないか。
「居留、」
手を伸ばすのも憚られて、一つ言葉を落とした。今朝覚えたばかりの名前。ぴくん、と、反応。
二度と会わないつもりが、たったの一晩で再びの邂逅だなんて、凄く不恰好だ。俺はきっと決まり悪そうな顔をして居るのだろうな。焦点を合わせられない程度に虚ろな目をした少年は、それを映しちゃいないけど。
酷くゆっくりと、苛立つ程にそうっと、その目線が足元から辿り俺の目へと追い付く。嗚呼、と、小さく吐息のように認識するのが分かった。
「なぁ、みず、ある?」
マジ喉やばくて。はは、本当ねーよな、と、彼は小さく笑った。笑えねえよと俺は思った。まるで、何事もなくずうっと前から君と知り合いだったかのような。
「あるわけねぇじゃん、何処だと思って」
「まあ、そ、だよな」
「なぁんて。茶、ある。さっき貰ったやつ」
汚い野郎の買った汚いもんで良けりゃあさ。適当に畳んだ着物の隙間から缶を取り出す。
砂糖と香料がざばざば入った不味いやつ。ナニコレ何味? ってカンジの。俺は其れが大嫌いなのだけれど、あの男は気付かないようだった。
「お前は要らねえの」
「不味いもん」
「あ、サイテー」
ありがとう、弱々しい腕が此方に伸びるけれど、俺はそいつを無視してしゃがみこんでそいつの口に缶をそっと傾けた。自分でもそんなことしたことがなくて、違和感だった。地面に手をつく感覚は久々で、その冷えた上に座り込んでいる居留を、淋しく思った。
「うわ、甘過ぎやばい」
「文句なーし! 飲み干せ!」
口では言いながらも、二、三口ほど飲ませた辺りで缶を地面に置いた。居留は息を細く長く吐いてから、少し態勢を直した。
目が合う。ふと、呼吸が合って、次に言葉、が。
「今朝、」
「ごめんなさい」
居留が口を開くのを遮って、口が、先に滑った。勝手にしゃべった。心臓の辺りに支えたものがじわりと勝手に消えて、代わりに、なんだかくすぐったくなって笑った。
「なんだ、」
おなじこと、言おうとおもってた。居留が、きっと初めて居留だなあって思わせるみたいに、ふわっと笑う。身体の、底の方に、多分、星が落っこちた。
(どうじょうだったかもしれない。きみは、ぼくとおなじにおいがした)