司、と、声が掛かった。わざわざ裏を通ったのが災いしたなと、心の中で舌打ち。
「司、お前」
服の裾あたりがどす黒い赤に染まっているのを見てか、長い髪を結い上げた女は訊いた。柳だ。裏口で隠れて煙草を吸って居るのに出くわしてしまった。
「やだな、返り血です」
なんて、それも問題だったかな。血を浴びるなんて、落第だもんな。女王の所の仕事でなくて本当に良かった。下手に首切りに合えば、女王のことだ本当に首を落としてくれてしまう。死ぬわけにはいかない。
今日の仕事は女王に与えられる仕事の何倍も面倒で危険で情報も杜撰だったから、この程度の血は許されたい。ただ、金額は弾んでくれたから、またいつか仕事をねだりに行ってみよう、とか。
「最近お前、仕事を増やしすぎてないか」
興味も無ければ口を出すつもりも無いが、と、言いながら細く長く煙を吐き出す柳。一本、と言ったら、仕方ねえなと一本放られた。火種が無いなとポケットを探れば、柳がくわえたままの煙草を近付ける。
「箱庭の仕込みですか。その仕草、誘うね」
「ざけんなぶっ殺すぞ」
容赦なく膝を鳩尾に打ち込もうとしてくるので、僕は火種を掻き消さない程度に素早く身を退く。僕のよりも黒の多い、しかし赤みのある瞳が此方を睨んでいた。こいつのこの瞳だけは嫌いではないが、こいつは如何せん自棄に踏み込むから、嫌いだ。
「金、足りないんで」
普通に生きていく分には、女王がくれる金額は十分過ぎるものだった。寧ろ有り余る程で、僕は将来遊んで暮らせるのでないかと思うくらいだ。今は翠の所に寝泊まりしているから、宿代もない。
柳もそれは分かって居るのだろう、顔をしかめて「薬中か、借金か」とでも言いたげにする。残念、僕の望みはもっともっと崇高なものだけど。
ふぅう、と、長く息を吐きながら白い蛇を空に放す。溶けて消えるのを眺めながら、あと、どれだけ生きて仕事が出来るのか、どれだけすれば間に合うのかと、考える。
「……お前、さ」
柳は僕をじっと見て、何か感付いたのか神妙そうに切り出す。聡い、そんなところも、嫌いだ。
「なんです」
何を言いたいのか、薄らと伝わって来るから、痛い。きりきりする。
「藍は、駄目だよ」
じゃり、と、柳は踵で煙草を揉み消しながら、目を伏せて呟く。
「君は、嫌な言い方をしますね」
「金額でどうなる話じゃないんだ、あれは」
あれは、此処から出せないんだ。その言葉が含むものの意味が分からない程、僕は馬鹿でもなかったらしい。僕は柳とその紅い目をぶつけ合う。
「どうせ、それだって夢で、藍は死ぬよ」
柳は一瞬だけ驚いたように此方を見て、それから明ら様な舌打ちを一つした。態度は最悪だ。
「僕を甘く見ないでくださいよ、柳」
「……っ、テメェに、救えるだなんて慢ってんじゃねえぞ」
嗚呼、何故も彼女はこんなにも嫌な物を見る目で僕を睨むのか。
箱庭には、藍の救いが無かった。だけど、絶望も無かった。もしもそれが僕の藍を殺すなら、僕は喜んで絶望を差し出すという、それだけの在り来たりな愛情の話じゃないか。