ぱしんとひっぱたかれた。思い切り。彼は酷く歪んだ顔で俺を見る。泣き出しそうな、忌々しそうな、苦しそうな顔。
「平手って、な」
痛いよ。と、頬を押さえて俺は彼を見返す。そっと伸ばしかけていた手を下ろして、少しずれた眼鏡を直した。きつい目。群青の深い色がきりきりと睨んでいた。
下働きなんかしていれば、こんなことはよくあることだ。狭い世界に閉じ込められた遊君はたまに不安定で、苦し気で。そんな八つ当たりには、慣れてしまった。いつだって痛々しくて泣きそうで、そんな痛さには。
「居留、お前、箱庭の」
箱庭の。苦々しそうに、呟く。腕を──腕に入れられた墨を、見られたらしい。遠目に見せた時には認識されなかったのだろうが、これだけ近ければ分かって当たり前だった。
女王に、つまりは箱庭に買われた俺や奈留のような下働きには、腕に独特の紋を入れられるのが決まりだ。他に行かない様に。他の何処でもそれは主流となっている方法。遊君の身体は売り物なので、入れないというのも、セオリー。
「麗、」
「呼ぶな」
俺の名前を口にするな。そう言い切る彼からは、憎悪の色が見て取れた。
この麗という人は、他店の遊君だ。着実に売り続けている箱庭は、嫌悪の対象でもおかしくない。だけど、そんなことを気にするような人間だろうか。
「悪い、帰る」
「道、は」
「嘗めんな」
かたん、軽い音だけを残して、綺麗な黒髪のそいつは出て行った。一瞬だって振り向きやしないまま。
何もなかったことにすればいい、縁なんてそんなもの。箱庭に溢れる甘さとは相容れないような、染みる程に冷たい香水の香りがして、いやでも存在した過去を主張した。
ぴしゃんと、表の戸が乱暴に閉められるのを聞いたのか、翠が降りてくる。開きっぱなしの書庫の扉、立ち尽くしている俺をちらりと見やり、それからぐるりと部屋を見回した。
かつかつと、床でも抜けそうなヒールを鳴らして翠が此方に歩み寄る。俺よりもずっと高い身長に足して高いヒールの靴を履くから、俺は下から見上げるように彼女と目を合わすしかない。
どうかしたのか、と、翠と言う名前に似合う深緑を湛えた目が訊ねた。
箱庭がお嫌いなんだとさ、肩を竦めて冗談めかして言って見せたが、翠は笑わなかった。
「今の、あの銀髪糞野郎の前の店のトップの子だったろう」
「……知らね」
そりゃあ、箱庭嫌いも極まるってもんさ。励ますつもりでなのか、翠はわざとらしく軽口を叩くような口調を取った。つうか糞野郎って、つくづく翠は銀とそりが合わないみたいだ。銀は気にしてないらしくこの店にもよく来ているけれど。
「お前は何も悪くないよ、居留」
そうだろうか。俺に悪くない等と宣えるのだろうか。翠の目が、一瞬だけ俺の腕を捉える。この、忌々しい腕。
「腕、見られた」
「お前のは、紅の花だったな。ばれたか」
「……嗚呼、そう、か」
今度は誤魔化しや慰めのない、翠の伺うような言葉。こっちの方が幾分か居心地が良いなと、笑えないことを思う。似非は要らないのだ、せめて真実だけを突き刺してほしい。
箱庭が問題ではないと、翠は言っている。問題はこの、消えない印だ。
弟の、奈留の刺青は、黒一色だった。俺にだけそれに足して紅の花を描かれた。顔も何もかも同じなのに、何が違うのか。一度女王に訊ねてみたいものだ、俺達のことなど何とも考えていない癖に格差を付けて、仲間割れでも見たかったのか。
──俺だったから、だろうか。
そんなに悪名を売った心算は無いが、影で叩かれる言葉を聞かないわけでも、無い。紅の花の餓鬼。
女王の気に入りの奴隷だと、嘲笑われている。そんなものに触れられたとあっては、他店の遊君としては不名誉かも知れない。
「ならば尚更。尚更、お前は悪くない」
「良いよ、これが俺の生き方だと思ってる」
不恰好な励ましは、要らない。それ以外の選択肢が尽く存在しなかっただけで、選んだのは俺だった。俺一人死ぬのなら構わなかったけれど、俺には奈留が居た。あんな場所で死なして良い筈がなかった。だから、全てを魔女に売り渡してやったのだ。
「居留、」
「今日はこいつを借りて行くよ。また、来るから」
翠はこんな世界で悪どい事ばかりしている癖に、変な所で優しい。その優しさがどれだけ俺に痛いのか、知らないのか。知っていてやるほど、器用な人だとは思えないけれど。
「今日は、早いんだな。振られたのが響いたか」
借りるつもりだった本を数冊示すと、翠はそれを傍らにあった手帳に書き込む。そして、冗談めかして訊ねてくる。
分かって居るのか居ないのか、今度ばかりはつかめない。だから、俺は自分の傷を笑って冗談にしてほしくて笑い返した。
「まさか。今日はお呼ばれしてんだよ」
──嗚呼、だからその一瞬の可哀想なものを見る目線が、痛いんだって、ば。