明け方、誰も居ないかと思えてしまう程の一瞬の静寂が、この街にはある。
 俺はその一瞬だけが、好きだ。どうせ仮初めの一瞬で、壁一枚向こうでは未だに情交の行われているようなそんな世界でも。

 今日の客はいいな。また来てくれるはずだ。あとちょいで落とせそう。仕事が終わったらすぐに帰ったし、割に金持ちでそこそこにくれたし。それに、やっぱおねーさんの相手のが楽しいよなぁ、なんて。
 からからと窓を開けて身を乗り出す。冷たい風は普段の煙たい汚い空気を打ち消すように、俺の中に通り抜けた。まだ怠い身体が、少しだけ、落ち着く。

 あわよくば、あわよくばこのまま、落ちたら楽になるのかもしれないなんて、考えるのは何回目。
 銀がいなくなってから数え切れなくなった、この曖昧に死にたくなる感情。離れた手と、銀の困った顔と、どうしようもない権力と。ホント、あーあ、しにたぁい。

「危ねぇぞ、お前」

 この静寂だから聞こえた、あまり響かない声。下を見ると、裏道の細くて薄暗い中に俺よりか年下位の少年が立って居た。「あんま乗り出すな」くすんだ色の髪に、眼鏡とあまりいいとは言い難い目付きの、少年。無論、見覚えなんか無い相手だ。

「……別に、落ちないし。俺そんな馬鹿じゃないよ?」

 乗り出したまま、下を覗き込むようにする。三階分の高さが少し縮まった気がした。真っ直ぐした目が俺を見る。
「こっからだと、馬鹿をやりそうに見えたんだよ」
 まぁ、よく見えちゃ居ないのは本当だが。そう言って一回眼鏡を掛け直した。変なやつ。余計なお世話だし。つーか、こんな時間になにやってんだろ。

「ねぇ、おにーさん」

 結局それきり会話は途絶えて、俺はまだ暗い街の風に身体を晒して、下に居る少年はそのまま立ち去りもせず、その場で煙草を吸い出した。俯き加減の彼の表情は見えない。白っぽい煙がそっと掻き消えるのを見ていた。
 別に死なねえっつーの。思っても何も言わないまま過ごしたのに、意味はない。でも、誰かの居る街の景色に落ち着いたのは、きっと初めてだった。

「おにーさんって、アンタのが年上だろ」
 俺の言葉に、少年が顔を上げる。「そんなんどーでもいいよ、俺は幼めで売ってんの」俺が適当にあしらうと、少年も「あっそ」とだけ答えた。

「ね、俺を買わない?」

 お兄さん気に入ったから特別サービスしてやるよ。そう付け足して、飛び切りの笑顔を張り付けてみせる。何かのご縁なら、それを繋ぎ留めたかった。そのための、手っ取り早くて俺の知る唯一の方法。
 気紛れだった。こんな時間から誰かの相手をしたら、今日の夜に死ぬほど辛いことぐらい分かっている。それでも構わなくなるくらいには、この人との数分が好きになれた。どうせ遊君、遊ばれてなんぼなのですから。

「断る」

 ぱしんと、今までよりも通る声だった。
「そこらの女より楽します自信あるけど?」
「キョーミ無い」

 持ち合わせもねえし、俺はただの下働きだぜ。そう言って彼は少し袖を捲って、腕を見せた。名前も知らないそいつの腕には、確かに何処かの印が彫られていて、確かにそれは彼が誰かの所有物であると物語る。

 悪いけど、と、冷たく言われた。ごめんな、麗。そう銀に言われたのがフラッシュバックする。ちかちか光る、いやな感じ。
 彼は「そろそろ入れよ、冷える」、そう言って煙草を揉み消した。さよならなんだと、思った。縁は切れる。

「ん、さよーなら」

 ぽつんと言った。窓辺に寄り掛かって、もう彼を覗き込まないように。なのに、一度だけ、目が、合った。
 少年が、驚いた風に目を見開く。その意味がわからず、俺はそのまま固まった。なんかマズイこと言ったかな。

「……今、客は」
 唐突に、少年が言った。俺は咄嗟に「もう帰ったよ、今はフリー」と答えて、それから3秒。

「其処から、出て来られるのか」
「え、うん、一応」

 じゃあ、来いよ。と、彼は言った。なんだかんだ、結局興味があるんじゃないか。俺はほんの少し嬉しいような悲しいような、冷えきった気持ちを取り戻しはじめる。

 どうせ、遊君。遊ばれてなんぼなのです。

 だけど、その氷は、さっさとどっかに放り投げられた。少年がちょっと笑って、待ってるから着替えて来いと言ったから。その笑顔が、不細工で仕方ないのに、痛いくらい響いて。


「アンタの知らない世界に、つれてってやる」



(泣きそうな顔をした、気がしたんだ)
(ちゃんと見えやしないくせに、なんてやつ)







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