吐いた。喉奥から溢れるみたいな酸味の強すぎるそれをとにかく吐き出す。ぼたぼたと。無機質な蛍光灯の青よりも緑に似た光の下、水に漂う白濁の吐瀉物を眺め、急速に脳を引っ繰り返した最奥が冷えて固まるのを感じる。自然と出る涙を乱暴に拭う。いつになく鼻が詰まっていることに気付いた。仕方なく口から息を吸い込むと、なんとも言えない酸の匂いが鼻まで抜ける。喉の痛みにも増してそれがとても嫌だった。

「最低ですね、貴方」
「まさかそんな辛辣な台詞が来ると予想していなくて、ちょっと傷付きました」

 個室から出ると、まず一声。皓々と光っていた蛍光灯を消せば、夜の灯りは月と外のネオンばかり。蛍光灯よりもずっと弱く透明な光が、ほんの少し窓から入っていた。それでも分かる位に嫌そうな顔をしたその人が、コップいっぱいに注いだ水を差し出す。ありがとうだかなんだか適当にお礼を述べて受け取った。下手に体力を使った所為でうまく力の入らない手に、その結露した雫がひたひたと伝う。冷たかった。きっと自分がトイレに籠もっていた間中コップを握り締めていたらしいその人の手も、冷たいのだろう。
 口のなかに残る苦みが治まるかと思ってそれを口に含むと、なんとも言えない甘苦い味が広がって、不快だった。背骨辺りがぱしんと鳴るのを聞きながら座り込むと、そっと隣に誰かの座るのを感じた。生温かい、それをゆっくりゆっくり噛み殺す。

「……何、が」
 一体何があったのだ、彼女は控え目に、極めて控え目にか細く訊いた。其れもそうだろう、唐突、迷惑な始末屋がいつもの様に無駄話でもしに来たかと思ったら押し入ってトイレでしこたま吐いたとあれば、気持ちの良いものではない。

「……久々に、死ぬかと思ったんです」

 相手は大した者ではなく、弾は当たらず僕は傷を負うことすらなかったけれど、でも、一瞬だけ死ぬかと思った。死ぬ。直感した時、どうでもいいと思えない自分が居たから、吐きそうだったのだ。自分に大して何か恐ろしい物を見てしまった。

 いつもの様にぱしんぱしんと二発余り撃って終わった筈だったのに、少々しくじって接近戦になった。向こうは拳銃を持って居て慣れない手付きで撃ってくる。汚いな、そんな風に思った僕はそれを避けて標的のソレを蹴り上げた。骨の軋む音、視界の利かない中で、さっくりと相手に刺さる自分のナイフと言葉にならない叫び、そのまま手に思い切り力を入れて上に向けて切り開く。手に残る肉の生温い感覚と耳に残る厭な音は幾ら慣れた物だと言い聞かせても足りない。

「始末屋の癖に、腑甲斐ないでしょう」
 本当はねぇ、怖いんですよ。だからいつもはぱーんと一発で済ますんです。断末魔が耳に残らないから。スクリーンの向こうだと思い込める距離をそいつはくれるから。
「普段は何も無いみたいに殺すくせに、死ぬ人間を目の前に肉を切り裂いたとき、ふと自分が人間だと言うことを思い出してしまったんですって。笑ってやって下さい」
 いつか、僕も死ぬのだということは分かって居る。屹度幸せな死に方は出来ないだろうことも、死体はゴミ箱に入れてもらえるかさえ怪しいことも。何もかも。そんなことは分かった上でこの仕事を選んだ。選択肢は最低から最悪まで五万とあったのだ。
 もっとずっと簡単に死ぬことだって構わなかった。なのに、生き延びるのを理由に人殺しなんかしているのだ。本末転倒の本筋や末端すらも見当たらない。最低から最悪の中での最弱を選んだのは僕なのに、今更強かに生きる女に惚れたからといって何が出来るわけもない。

「馬鹿です、司は」

 彼女は決して笑わなかった。ぱすんと頭を撫でられる。そっと、そっと髪を梳く。艶やかな遊君の彼女とはかけ離れた優しい優しい手付き。その仕草や言葉が辞書にある様な意味以上に暖かくて益々僕は死ねなくなっていく。胃が痛く捩れ、また、また視界がちかちかと瞬いては歪んだ。酸味。耳の奥が痛い。


(全て空になるまで吐き出せたら良かったのに、無くしたくないものがあることすら無くせなくなった)







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