(御嬢に、なにした)
(……はっ、相変わらず過保護なこったね、ただの玩具の癖に)
(なにさせたんだって、訊いてんだろ、あいつがおかしくなることくらいあんた分かってただろ)
結局、大した抗議もさせちゃ貰えなかった。当たり前だ、御嬢は擬いなりにも最上階の遊君なのだし、仕事は仕事。幾ら男嫌いでも──、否、男が怖くとも、仕事をするのが生きる条件。
(どころか、それ以外では隔離してやってるあたしに感謝でもしたらどうだい)
女王の言うことは傍若無人に見せて最もだった。確かに御嬢が通常隔離されて居るのは箱庭の特殊な環境故であり、そのために御嬢は基本は正常を保って居る。
結果、適当にあしらわれた俺は仕方なく追い出され帰路に着いた。
さっきは蔑ろにしてしまった左腕の手当てをきちんとしてやろう、薄ら血の滲む包帯を見てぼんやりと思考。溜息を一つ吐いた時、耳に飛び込んだ──、音。
「銀ちゃん!」
アルトで綺麗な通る声。耳慣れた、声。銀ちゃん。俺をそう呼ぶのはこの街に一人しか居ない。確かめたくなくて、ゆっくり、ゆっくり振り向いた。
人通りの多いこの道で一際目立つ真っ黒い着物。派手な柄のあしらわれたそれと、長く伸ばした髪。花飾りが鮮やかに白い肌に映える。相変わらず、流石だった。外面だけは一人前以上に美しく纏め上げていて。
「お、やっぱ銀ちゃんじゃん。ひっさしぶりー」
「……麗」
「なーんだよー、そんな嫌そうな顔すんなっつーの」
クスクスと笑う仕草一つも妙に艶っぽく、本当に夜だとか花だとかそういう言葉が似合う奴だった。昔から変わらない無邪気な笑いと砕けた態度に似合わない、妖艶さ。
麗。名前負けしない容姿を持った他の店の──詳しく言えば俺の昔居た店の、遊君。
「そっちはどうっすか」
ちゃんとやってんのぉ? と、少し不自然に開いていた互いの距離を極自然に詰めて、近く、隣。慣れた距離に麗が入ってくる。言い様もなく不安を覚える距離。巻き戻されるような。
「あー、まぁ、それなりにぼちぼち」
お前はどうなの。社交辞令的に聞き返してからふと思う、「って、そうだよ。お前こんな街に出て何してんだ」しかも仕事の格好のままで。そんなんじゃ目立って仕方ない。
「ばーか、客引きに決まってんだろ?」
銀ちゃんトコと違ってこっちは形振り構う暇も無いんだ、綺麗な黒を揺らしながら、自嘲気味に笑う。儲けが足り無ければ容赦無い、あの店──こいつの働く店はそういう場所だったし、この街に於いて寧ろそれは一般的なものだった。だが、まさか麗まで客引きに駆り出さなきゃならないなんて。
「銀ちゃんが魔女に連れていかれてから超絶大変だったんだかんな」
オーナーの機嫌は底辺だし客減るし無論売り上げも落ちるし、そうなると益々ご機嫌斜め! 何度八つ当りに殺されるかと思ったか知れない、その口調は冗談めかしていてはっきりと俺を責めていた。“逃げやがって”と、言っていた。
「あーはいはい悪かったな」
「マジ反省しろし」
「つーか俺の責任か?」
「ったりめーだろ、俺の負担倍増だって!」
──ばか、と、小さく言われた。その声の素直さについ言葉が詰まる。無理矢理に作ってたテンポが崩れて、麗の綺麗に綺麗に作ってた笑顔が掻き消えた。
「……なぁ、帰ってきてよ、銀」
くい、と、上着の裾を引かれた。綺麗な指。か細い声で、ずっとあの場所での俺を守ってくれていたそいつが、泣きそうに言う。内臓、多分胃の上とか肺とかそんな所に氷を詰め込まれたような感覚。
「我儘言うな、無茶だ」
「無茶じゃないだろ、銀ちゃんがそうしねぇだけじゃんか」
「無理、だよ」
駄目だ、無理なんだよ麗。俺は今や店の商品じゃなく女王の所有物で御嬢の為に生きて、そうするしか出来ないのだから。半永久的に未来は決定されてしまったし、何よりもそれしか生きていく方法はない。
女王に目を付けられたときから。箱庭が此処に存在したときから。たとえば何一つ俺たちが生まれてしまったという事実から。逃れることは出来ない。
麗は一瞬泣きそうに顔を歪め、それからぐいっといきなり俺の腕を取った。その左腕にあるのは血の滲む包帯と、その奥の出来たての御嬢の傷。
「……俺なら、こんなこと、しないよ」
ぎう、と、華奢ながらに強い力で握られればじわりと生暖かいものが流れ出るのを感じた。鋭い目だった。まだちゃんと手当てをしていない傷口はすぐに開く。麗は容赦無くその布越しに少し伸びた爪を思い切り立てた。
痛い。包帯越しに傷口の位置でも把握しているのか、クリティカルヒット。滲む赤が、その白い指に付着するのが分かる。
「これは、事故」
「俺は銀ちゃんを事故なんかに遇わせない」
だから、だから。震えるくらいに力が入った腕と、比例して広がる赤いシミ。もうこの包帯は使い物にならないな、頭の何処かで冷静に下らないことを考えていた。
「ごめんな、麗」
この言葉が一番ずるくて最低だと気付いているのに、口を突いて出たのは笑えるくらい冷淡な一言。
一瞬の、絶望した群青の目。真ん中に映ってる俺を視認する。ほんの一瞬。切り替わるスライドの様な巧みな表情。
「……って、じょーだん! ばっかじゃねーの何だよ銀ちゃんそのシリアス面、超間抜けー」
ぱ、と、手を離された。その距離が急速に遠くなる。冗談で済まない程度に傷が悪化した模様ですよ、ねえ。痛みが麻痺した腕が、やっと俺に返って来た様だった。
「えと、じゃ、仕事戻っから。じゃーね」
「ん、ああ」
「安くすっから、今度は俺を買ってくれよな」
「……そいつは御免だ」
「げー、銀ちゃん正直過ぎー」
嘘でも良いから了承してくれたら俺は幸せだったよ、爪の先を紅に染めたまま、後ろ姿でそいつは言った。軽薄なその遊君の声は、あの時俺をはじめて呼んだときから変わっていない。