「り、く?」
焦点の合っていないその濃灰の目と、酷い酒の匂いで状況を大方把握した。薄暗いままの部屋、煙たい。煙草の匂いだ。
そうだ、今日は28日だった。いつもの日の、翌日。放っておくなんて、油断した。天藾の調子が悪く籠もっていて、アークテュルスも定期検診。学校から帰って、余りに静かだったアパート。嫌な予感が、外れやしない。
「梨紅、」
酔い切った彼が、虚ろに呼んだのは私ではない名前だった。それは、随分と前に死んでしまった女の子の名前だという。黒梨の大切だった、27日に死んだ彼女の名前。
「梨紅、お前、なんで、死んだ、ん、だよ」
いつもの彼とは及びつかない幼いようなしかし可愛げもない態度で、彼は私を見つめる。泣きそうな、怒ったような、しかし縋るような目。私は一歩だけ近付く。持ったままだった鞄を脇において、そっと屈む。
「ば、っかじゃ、ねーの、俺おいてくとか、マジ、ねえし」
より近くなった彼の目は、完全に私ではない“誰か”を見ていた。否、“彼女”を見ていると、今では分かってしまう。それが一体誰なのかと、初めて問い詰めたあの日を、思い出す。
彼はあの時どうやって笑って、私はあの時、なんて答えたのだっただろうか。どうやって、彼にもう一度笑ってもらったの、だっただろうか。
私は、今、どうしてやればいいの、だろうか。
正解を模索しながら、また少し寄る。手をのばし掛けたら、先に、手首を捕まれて引き寄せられた。ぐん、と重力以上の力がかかる。一気に酒と煙草の匂いが近くなって、噎せそうだ。
「なら、俺も一緒に、死なせろ……っつー、話、で、」
っ、違う、そんなこと、言いたかったんじゃ、ない。そう、彼は最早呟くように聞こえない程度に、小さく言った。だけれどこの距離では聞き逃すことのほうが難しく、彼の弱さは直接私の耳に届く。
私の手首を強く掴んだまま酷く揺れた目で、頭でも痛いのか辛そうに、顔を歪めたまま泣きそうに、して。きりきりと、私の手首が代弁するかのように痛んだ。強い握力に、彼がそう言えば男であると、頭の隅が考える。
「なんで、生きて、くんなかったんだよ、」
薄暗い中で、彼は彼女に泣いたのだった。
「──黒梨、」
「……え、」
うわ、と、彼が我に返ったように腕を離した。見ればほんのり鬱血していて、じわじわと痛みが増していく。ぽつりと漸く私の絞りだした声はきっと彼女のトーンとは大分違っていたのだろう、その目に、やっと“私”が映った。
「馬鹿ね、飲み過ぎよ。……未成年の癖に」
「とき、ひめ」
「不良は早死にするわ」
一人でウィスキーなんて空ければ、そりゃ泥酔もする。まさかこれをストレートで煽ったのか。なんの自殺願望よ。しかも遠回りで面倒で害悪な。
「悪い、酔って、た」
「他人の健康をとやかく言えないわ、これじゃ」
あー、うん、わかってる、ごめん。ごめんな。
それは何に対してか定かでない謝罪。まだ惚けているのか、それとも。淡く柔く弱く脆く、さりさりとした言葉だった。流れるようで、引っ掛かる言葉。
「馬鹿、」
「おー」
とすんと、力が入らないみたく私に倒れこんで来た彼は、やはりとても弱く脆く。あの日、黒々としたまま突き放した彼よりもずっと私に近いところに、いるものだから。
「馬鹿、よ、」
「悪い」
「謝れって、言ってるわけじゃないわ」
ほんの少し躊躇しながら、私は彼の頭を撫でた。少し痛んだその髪はちくちくと手に刺さる。
この行動が正しかったのか否かなど、分かりはしない。ただ少し彼が安堵したように息を吐いたから、私はこっそりともう一度撫でてやった。