君に会えない日
いつも通りに学校へ行くはずだった。
君にお弁当を食べてもらいたいから。
けど、そのお弁当は無駄になっちゃったな。
ーーーーー
ザーザーと強くなった雨。
それを病院の窓から見つめる。
昼休みが終わった時間。連絡を取る術もなく約束を破ってしまった。あの少年はどうしただろうか。
日向の顔にいつもの明るい笑顔はなく、はぁっと小さく溜息が漏れた。
「…ん…」
「…!お母さん、大丈夫…?」
小さく聞こえた声に窓からベッドへと視線を向けた。ゆっくりと目を開けた母親を覗き込み、問いかける。ゆらゆらと定まらない母親の瞳は、日向を映してようやく光を宿した。
「…日向」
「大丈夫…?」
「…あんた、学校は?」
「え、や、休んだよ…?お母さんが仕事場で倒れたって聞いたからすぐにこっちに…」
「ならバイトは?」
「…そ、れも…休んだよ。お母さんについてた方が良いと思っ…」
ぱしんっと渇いた音が病室に響いた。
ひりひりと痛む頬に、自分が母親に叩かれたのだと理解する。
「学校休んだならどうしてバイトに行ってないのよ!あたしに付いてたって意味ないでしょ!どうしてあんたはそうやって意味のないことばっかり…!」
「お、お母さんが心配だったから…」
「心配して治るの?治らないでしょ!?あんたがいるからあたしがこうやって倒れるまで働いてるのに、あんたは学校にも行かないバイトにも行かない…!何のためにここにいるの!?」
「…ご、ごめん、なさい…」
「謝るくらいならさっさと働いてお母さんを休ませてよ…」
「少しくらいお仕事減らして良いんだよ…?お母さんいつも寝ないで働いてくれてるから、少しは休んで…」
手を振りかぶる母の姿を視界に捉えた直後、再びぱしんっと手が出された。しかし先ほどよりも鈍い音が響く。平手打ちが頬ではなく耳に当たり、きーんと耳鳴りがした。日向は僅かに顔を歪め、その痛みに耐える。
「あんたがいなきゃこんなになるまで働かないわよ!!あたし1人ならここまで働く必要ないの!あんたの学費やら何やらで1番お金使ってるの!あんたがいるから!あたしがこんなに辛い思いをしてるの!なのに簡単にそういうこと言わないで!」
「…っ、ごめん、なさい…」
「ああああもう起きてすぐにこんなにイライラするなんて…!もう出てって。お母さんは少し休んだらすぐに仕事に戻るから」
「で、でも…」
今日はもう仕事を休んだ方が。しかしそこまで言わずに口を閉ざした。再び叩かれるのは目に見えている。
自分がいるせいで朝から晩まで働きっぱなしの母に、これ以上は何も言えない。何も、出来ない。
「…ごめんなさい」
「バイト入れるようなら行ってきてちょうだい。学校サボったんならそのくらいしてよね」
「…うん」
「時間が惜しいんだから早く行って!」
「…うん、ごめんなさい、いってきます」
「どうしてあたしがこんなになってるのに…もう嫌…!」
感情が昂り涙を流している母を病室に残し、日向は病室を出た。疲労で倒れて点滴をしているだけだから心配はない。今は何を言っても逆効果だ。
けれどたった1人の家族なのだから、情緒不安定でもある母を心配しないわけはなくて。
「…バイト休んじゃったけど、入れるか聞いてみないと」
少しでも母の助けになるように毎日バイト三昧だ。学生のバイト料などたかが知れているが、それでもしないよりは遥かにいい。
友達との遊ぶ時間も、自分の時間も、やりたいこと全てを削って。
「…私がいるからお母さんがこんなに働いてる。だから私ももっとバイトしないと。早く卒業して、就職して、働いて…一人立ちしないと…」
母親が楽を出来るように。
廊下の自動販売機で水を買い、じんじんと熱く痛む耳に当てて冷やした。感覚はおかしいが、聞こえないわけではない。時間が経てば治りそうだとほっと息をつく。
そして落ち着くためにペットボトルのフタを開け、そのまま口へ運ぶ。すっと入ってきた液体が舌へ触れると同時に、日向は大きく咳き込んだ。買ったばかりのペットボトルが床へ落ち、中身が溢れていく。
「げほっ、ごほっごほっ…!」
吐きそうになる感覚をなんとか耐え、落ち着かせるように胸に手を当てた。
「……水、まで…」
水は水として味がして飲めていた。
味がしないわけでも、まずいわけでもなく、唯一普通に飲めるものだった。けれど。
先ほど口の中へ流れた液体は水とは思えない、飲み物とは思えない苦味のものだった。
床へ溢れていく水を見つめ、僅かに顔を歪める。しかし必死に笑おうと窓の外を見上げた。
「…お母さんが辛いのに、私が辛い顔なんかしちゃダメだよ…。私は、笑ってないと…笑ってないと、迷惑かけちゃう、から…」
母が家に連れてくる男は自分が笑っていないと不機嫌になる。男が不機嫌になると、母が辛い顔をする。それは見たくない。これ以上、辛い顔をさせたくない。だから、自分は笑っていなければいけない。
何を食べても味がしなくても、好物だったはずのものが不味く感じても。それでも、それを気付かれないように、笑っていなければ。
雨の降る空を見上げ、眉を下げながら頬を上げる。
笑おう。笑えば、辛さなんかなくなる。全て丸く収まる。自分が少し我慢をすれば、それだけで。
しかし、日向の頬は上手く動かなかった。
「…どうやって、笑ってたっけ」
笑うとはどういうことか。それすらも分からなくなり、瞳から光が消えそうになった瞬間、昼休みに会う少年の姿が思い浮かんだ。
何も聞かず、ただ自分の作ったものを美味しいと食べてくれる少年。美味しいなど言われたことはなかった上に、自分でも美味しいなど分からなかった。だから、嬉しかったのだ。その少年の言葉が。
『君はいつも笑ってるね』
何気なく発せられた少年の言葉。
そうしないといけないと思っているから。
けれど、あの少年と一緒にいる時間は、自然と笑えた。楽しいと思えた。全てを忘れて自分が楽しめる時間だった。
ザーザーと強く降る雨に、少年はどうしているのかと想いを馳せた。自分の弁当を、待っていてくれたのだろうか、と。
もう昼休みは終わり、授業が始まっている時間。今日はもう、少年には会えない。
笑おうとしていた日向はぐっと唇を噛み、拳を握り締めた。
「会いたい…」
辛い。けれどそれを口にしてはいけない。
ずっと昔から耐えてきているのだ。今更そんなことを言ってはいけないと心が拒絶する。
「会いたいよ…」
少年といる時間は辛さなど忘れられる。
だから名前も何も知らない少年に会いたくて仕方がなかった。唯一の楽しい時間だから。毎日の楽しみだったから。
「…君に、会いたいよ…!」
悲しげに顔を歪めた日向の瞳から、ぽろりと涙が溢れた。
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辛くて辛くて苦しくて吐き出せなくても、君との時間は楽しかった。共通の話題を話すわけでもなく、今日の出来事を話すわけでもなく、ただ美味しいって私のお弁当を食べてくれることが、嬉しかったんだ。それだけで、心が救われてた。
私にとって、君は特別だったんだ。
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