君は君だから

土曜日に家に帰ったら誰もいなかった。日曜日にバイトが終わって帰ると、家の物が減っていた。月曜日の朝、さようならと書かれた置き手紙だけが残されていた。
家の中からお母さんの物は、全てなくなっていた。
私以外に誰もいない家なのに、帰る場所がなくなった気持ちだった。

ーーーーー

いつかは来るのではないかと思っていた。
それが怖くて必死に働いて、何とか役に立ちたくて、良い子でい続けて、友達と遊ぶことも自分のやりたいこともずっとずっと何もかもを我慢して全て捧げてきた。そうしないと自分の居場所を守れないと思ったから。
けれどそんなことなど関係なく、日向は親に捨てられた。

もう帰らない。さようなら、日向。

たったそれだけ書かれた手紙を残され、母親は出て行ってしまった。きっとたまに来ていた男と一緒なのだろう。


「さようなら、か…」


手紙を置いてお弁当を作り始める。
こんな日が来ることは分かっていた。いつも自分はあの2人にとって邪魔者でしかなかったから。苛立たせる存在でしかなかったから。だから、覚悟は出来ていた。

いつものように手際よく準備をし、料理を作る。いつもと何も変わらないように。いつもと同じように。
いつもと違うのは、視界がぼやけて目の前がよく見えないことだけだった。


「…あ…作り、過ぎちゃった」


いつも通りを装っていつも通りにやって、いつも通りの量を作ってしまった。1つ多い弁当。もう、食べる相手のいない弁当を。


「…バカだなぁ…私…」


呆れたように笑った日向の瞳から、ぽろりと雫が落ちた。口を引き結んで天井を見上げる。


「ほんと…バカだなぁ…」


誰も責めることは出来ない。
ただ、現実を認めるだけ。全ての感情を心の奥底へ閉じ込めるように。


「…今時1人の子なんてたくさんいるよ。孤児の子だっているんだから。それに比べたら私は今まで恵まれてたんだ。だから、泣くなんて、おかしいよ」


そう思うのに溢れる涙は止まらなくて。
辛い、苦しい、悲しい、寂しい。そんな感情は出さずに、声もあげず、ただただ涙を流し続けた。誰にも言えない気持ちを抑え込むように、涙だけを。


『困ったことがあったら1人で抱え込んで解決しようとしないで、君が頼れる人を頼りなよ』


ふと、そんな言葉が頭をよぎった。
1度しか会ったことのない、1度しか話したことのない人の言葉。


「頼れる人なんて、いない…」


誰とも深く関わらずに人生を送ってきた。
バイト先の仲間も、学校の友達も、近所の人も、親戚も、頼れる人などいない。頼れる人はいないけれど。


「……君なら、何も言わずに…傍にいてくれるのかな…?」


あの少年は、何も聞かずにただ弁当を美味しいと食べてくれる。あの距離感が安心した。お互いに深く入り過ぎない距離感が、心地良かった。

頼りたくはない。1人になったから寂しい、これからどうしていけば分からないなど、そんな気持ちを言いたくはない。けれど、この気持ちは彼といれば楽になる気がした。
辛いことは全て忘れて過ごせる彼との時間が、何よりも好きだった。自分が自分でいられる時間だったから。


「…君はここにいなくても、私を救ってくれるんだね」


涙の跡を腕で拭い、日向は笑みを浮かべた。3つ分の弁当を包み、トートバッグへと入れる。
学校に行けば彼に会える。あの時間が過ごせる。今はごちゃごちゃした気持ちで何も考えられない。だからこれからのことは、それから考えれば良い。
自身を納得させ頷き、日向は誰もいない家を出た。

◇◆◇


「………ん…」


身体が軽い。こんなに寝たのはいつ振りだろうか。自宅とは違う部屋で、日向は目を覚ました。見覚えのない天井をぼーっと見つめる。


「お、起きたね」
「…?」


近くで聞こえた声にゆっくりと顔を動かして視線を向けた。そこには1度だけ出会ったことのある迅の姿が。日向は何も言わずに迅を見つめる。


「よく眠ってたね。身体はどう?大丈夫?」
「……大丈夫、です」


そう答えて身体を起こした。僅かに痛んだ傷をそっと押さえる。


「傷は深くないけど高熱も出してたし、無理はしないようにね」
「傷…」


何故自分はここにいるのかを考える。
そしてようやく思い出した。学校で起きた出来事を。ずきり傷口が痛んだ気がした。


「…!」
「思い出した?」
「…は、い」
「そっか。それじゃ、起きたばかりで悪いけど、七海ちゃん。質問させてもらうよ」
「…?」
「君は、学校を襲った化け物以外に、何かを見たかい?」
「何かを…?」


迅の質問の意図が分からずに首を傾げる。


「本当は全部記憶処理の対象なんだけど、今回は近くに報道局がいてわりと大事になっちゃったんだ。だから記憶処理はなしになった」
「…あの、言ってる意味が分からないです」
「んー、そうだね。君はボーダーは知ってるよね?」
「はい、もちろんです」
「おれはボーダー隊員なんだ。それで、この間学校を襲ったやつは近界民っていうおれたちが倒す敵」
「…はあ」
「本当はそれを見た人の記憶は消さないといけないんだけど、大規模侵攻みたいな例もある。全ては対処しきれないからね」


日向は無言で頷いた。よく分からないけれど、なんとなく理解はしてきた。ボーダーと、近界民と。それは自分とは別世界のことだと思っていたが、今回のこともあり内容が頭に入ってくる。


「だから今回の騒動で近界民を見た人たちへの記憶処理はなし。でも、例外もある」


すっと、迅の瞳が変わった。


「最初の質問に戻るよ。七海ちゃん、君は近界民に切られたとき、近界民以外の別のものを見たかい?」
「近界民…以外の…」


近界民を前にしたことや切られたことを思い出すのは怖いけれど、それに堪えて記憶を辿る。震える拳を握り締め、聞かれたことに答えられるように。自分は、あのとき何を見たのか。


「………ぁ」


思い出し、小さく声を上げてしまった。
その反応に迅は目を細める。


「何か、思い出した?」
「………」


近界民以外の別のもの。
はっきりとは覚えていないが、あのとき、見てしまった。少年の姿が別の姿に変わった所を。気を失う寸前、異形の姿を見てしまったことを。


「やっぱり何か見たのかな?」
「………何も、見てません」


迅の瞳を真っ直ぐに捉えて答える。


「本当に?」
「本当です」
「……入ってきて良いぞ」


迅は日向をじっと見つめたあと、扉の外へ向かって声をかけた。少ししてゆっくりと扉が開く。


「…!」


扉から姿を現したのはあの少年だった。日向はやっと安心したように表情を和らげる。


「…怪我、大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ」
「…そっか」
「君は?」
「俺は大丈夫」
「そっか」


それだけ話して少年は迅の隣の椅子に腰を下ろす。迅は2人を交互に見つめ、日向に視線を戻した。


「もう一度聞くけど、本当に近界民以外は何も見てないんだね?」
「見てません」
「………」
「……そう」


真剣な表情から一変、迅は柔らかく笑って日向の頭をぽんっと撫でた。きょとんとした視線が向けられる。


「…優しいね。ありがとう」
「?」
「うん、何も見てないなら良いんだ。記憶を消す必要はない。おれからそう上層部に伝えておくよ」
「……」


何か言いたげな少年の頭も同じように撫でた。見えた未来に微笑ましくなり、目を細める。


「それじゃおれは報告してくるよ。また後で様子見に来るけど、あとはよろしくな」


迅の言葉に少年は無言で頷いた。
それを確認してひらひらと手を振りにやにやと笑みを浮かべる。先ほどまでの真剣な雰囲気が嘘のような軽さだ。日向は扉から手を振る迅に小さく会釈する。ぱたんっと扉が閉まり、静寂が生まれた。時計の秒針だけが聞こえる。
沈黙は嫌いではない。この少年と一緒なら特に。そう思っていた日向だが、少年はゆっくりと口を開いた。


「なんで…」
「?」
「…なんで、嘘ついたの?」


真剣な少年の瞳を見つめ返す。


「近界民以外に、見たよね」
「何を?」
「化け物を」
「そんなの見てないよ」
「嘘だよ。だってあのとき、俺と目が合った。見てないはずない」


そう。黒トリガーを発動した瞬間に少年はその姿を見られてしまったのだ。少年が異形の姿になるあの瞬間に目が合った。日向が見ていないはずがない。けれど日向は横に首を振る。


「化け物なんて見てない。私が最後に見たのは、君だけだよ」
「…やっぱり、見てるんじゃん」
「君のことはね」
「だからそのとき俺は…」
「私は君しか見てないよ。化け物なんていなかった。君以外は見てないから」
「……」


穏やかな表情で告げる日向をじっと見つめる。


「…怖くないの?」
「何が?」
「俺が」
「どうして?」
「……」
「…じゃあ、逆に聞くけどさ」
「何」
「君は、私が怖い?」
「は?何で?」
「ほら、同じこと言ってる」
「それとこれとは違うよ。君と俺とじゃ意味が違う」
「違くないよ」


日向は手を伸ばして少年の頬に触れた。前に自分がされたように。


「どんな姿をしてたって、私にとって君は君だから」
「……」


頬に添えられた手に、自身の手を重ねた。伝わる温もりが心地良い。日向の手に擦り寄り、少年はそっと目を閉じる。


「…本当に、君ってさ」
「ん?」
「……何でもない」


ただ小さく、ありがとうと呟いた。


ーーーーー

私にとって君は君だから。あの姿を見たときはびっくりしたけど、それでもやっぱり、君であることに変わりはないんだってすぐに思った。君が何者でも、一緒にいて安心出来ることに変わりないから、それだけで充分だよ。こちらこそ、ありがとう。

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