後ろから抱きしめる

いつもの時間、いつもの席、いつものメニュー。私がそれを把握するほどに彼は常連と言ってもいいだろう。それとも、私がただ単に彼を見過ぎなのか。その問いに千代は微笑むだけで何も答えてはくれなかった。


「優、来たよ」
「!」


千代にこそっと耳打ちされ、私はいつもの席に視線を向ける。そこに座る人は私と視線が交わると、にこりと笑って手を振ってくれた。はにかんで小さく手を振り返す。手を振るなんて失礼だと思っていたけれど、前に会釈を返したら不満そうにされたので控えめではあるけれど手を振り返すことにしたのだ。
私は注文を聞くために高鳴る胸を落ち着けながらそちらに向かった。


「こんにちは」
「こんにちは。今日も頑張ってるな」
「特高様とは比べ物になりませんけど、これが私のお仕事なので」
「いやいや、俺より働いてるよ」
「ふふっ、ちゃんと働かないと冴木様の弟様に怒られてしまうのでは?」
「あいつ怒っても全然怖くないからなぁ」


他愛ない会話がとても楽しい。ずっと話していたいと思えるほどに会話が上手で、ずっと一緒にいたいと思えるほどに惹かれている。彼の一挙一動に目が離せない。


「不破様、ご注文は何になさいますか?」
「俺の今日の気分は何だと思う?」
「そうですね…」


他のお客様にこんなことを言われたら困ってしまうけれど、不破様とのこんなやり取りはとても幸せだ。私は口元に手を当てて少し考える。


「もうお昼を過ぎてからだいぶ経っていますけど、不破様はあまり疲れたお顔をしていらっしゃらないので、お昼を食べ損ねたということはなさそうですね」
「ほうほう、それで?」
「なので今日はオムレツライスではなくコーヒー…でしょうか?」
「さっすが優。もう俺の嫁になんない?」
「…っ!ご、ご冗談を」
「冗談だなんて欠片も思ってないよ」


不破様の真面目な声音にどきりと心臓が跳ねた。声だけでなく、その瞳もどこまでも真剣で逸らせなくなる。頬が熱くなっていくのを感じた。周りにお客様はほとんどいないけれど、気になって上手い返しができずに頬を染めるばかりだ。そんな私の様子に不破様はすぐに気付いてくれた。


「っと、仕事中だったな。悪い」
「い、いえ…」
「コーヒー1つ頼むよ」


いつもの笑顔にほっとして私は頷いた。仕事中はあくまで女給だから、色恋の話は簡単に答えられない。ここはそういうカフェーではなく、普通のレストランなのだから。

不破様の元にコーヒーを持って行き、少し混雑してきた店内で千代と一緒にテキパキと仕事をこなしていく。波が去り、仕事がひと段落するとそれを見計らったように不破様に手招きされた。


「はい、何でしょうか?」
「仕事いつ終わる?」
「えっと…」


ちらりと時計を確認し、あと数十分で仕事終わることを知る。忙しくて時間がすぎるのがあっという間にだった。もう少しゆっくり不破様とお話ししていたかったな、なんて。


「今日はもうすぐで終わりますよ」
「そっか。じゃあ待ってるよ」
「え?」


きょとんと不破様を見つめると、にやりと口角を上げて私を見つめ返してくる。その不敵な笑みにどきりと心臓が跳ねた。


「もっと一緒に話がしたい」
「!」
「すぐ終わるんだろ?待ってるから」


そう言ってお金をテーブルの上に置き、ひらひらと手を振って店を出て行ってしまった。断るつもりなど毛頭なかったけれど、そんな隙もまるでなかった。スマートすぎる対応は女性の扱いの慣れを感じさせる。少し、悲しい。


(不破様はあれだけ素敵な方なんだからたくさんの方に好意を持たれて当然でしょう…)


ぶんぶんと頭を振って悪い思考を消し、私は残りの仕事を全力で片付けた。
そして予定よりも少し遅れて仕事を終え、千代に挨拶をして帰る支度をする。


「それじゃ千代、あとはよろしくね」
「ええ、任せて。優は楽しんできてね」
「ち、千代…」


微笑む千代に顔が熱くなる。バレてる。恥ずかしい。けれど、嬉しい。


「…ありがとう」


微笑みながら手を振ってくれる千代は女性の私から見ても魅力的だ。冴木様が惹かれたのはよく分かる。だから不破様も千代のことを狙っていると思っていたのだけど……


(…友達の私から懐柔しようとかそういう…)


彼ならやりかねないと苦笑した。けどそれでもいい。私は不破様が好きだけれど、もし不破様が千代を好きなら私は応援したい。悲しいけれどそれが1番良いことだと思う。冴木様とのことは知らないだろうから、そこをどうしたものかと悩むだけだ。


「話って、やっぱりそういうことだよね」


それでも一緒にいられるだけで私は幸せだ。うんっと頷いて自分を言い聞かせる。


「やーっと出てきた」


両手を握り締めた私の耳に、聞き慣れた人の声が聞こえた。聞き間違えるはずのない愛しい声に振り向こうとすると、その前に後ろから包み込まれるように抱き締められる。


「!」
「すぐ終わるって言ったのに遅いぞ」
「す、すみません」
「はーーー、さむ」


そう言った不破様は暖をとるように私を抱き締める腕にぎゅっと力を入れた。強く抱き締められ、心臓がどんどん早く鼓動していく。


「ふ、不破様、こんな所を見られたら大変ですよ…!」
「大変?なにが?」
「なにがって…」


冴木様と千代のようにそこまでの身分の差はないけれど、こんな所を誰かに見られては不破様が色々と勘違いされてしまうのではないだろうか。包まれる暖かさに身を任せそうになるのを耐えて離れようとするけれど、不破様の力は強かった。


「あ、の…」
「嫌か?」
「え…?」
「俺にこうされるのは、嫌か?」
「…っ!」


耳元で低く囁かれて思わず身体が強張る。ドキドキしていた心臓は、ドッドッと大きくうるさくなっている。不破様に聞こえてしまわないか不安だ。


「…まあ、嫌でも離さないけどな」
「……不破、様…?何を…」
「惚れた女を簡単に手放せるほど潔くないんだよ」


惚れた女。惚れた女…?まるで私を指しているような流れだ。その言葉を理解しようと黙ってしまった私に、不破様は苦笑する。


「何でそこで黙るかな」
「え、えっと…意味を理解しようと…」
「そのまんまの意味だよ」
「そのまま……」
「俺そんなに信用ない?優が好きって言ってるんだけど」
「……」
「……」
「……」
「……」
「………へ!?」


しばらくの沈黙後、素っ頓狂な声を上げてしまった。だって、だって…!
動揺して首だけ振り向いて後悔した。振り向かなければ良かった。


「…っ」
「……おまえが好きなんだよ、優」


こんな愛しそうな目をする不破様を、見なければ良かった。うるさい鼓動に周りの音が聞こえなくなる。全身が心臓になってしまったみたいで呼吸が苦しい。どう答えていいのか分からない。私は、どうすれば、なんと答えれば……


「……あーーー!くそ!」
「!」


突然不破様が声を上げたかと思うと、緩くなっていた抱擁が強くなった。そして私の肩口に額を乗せたために顔が見えなくなってしまう。不破様のやわらかな髪が頬を掠め、大好きな香りにくらくらした。


「あ、の…不破様…?」
「その顔反則…おまえ可愛すぎ」
「か、かわ…!?」
「最後まで余裕でいようと思ってたのに……格好つかないな」


ははっと乾いた笑いを漏らした不破様は自嘲気味だ。どこか悲しげでこちらまで悲しくなってきてしまう。首の辺りに回る不破様の腕にそっと手を添えた。


「……不破様は、格好良いですよ」
「……」
「とても素敵な方です」
「…それは、俺の告白の返事として受け取って良いのか?」
「!!」


告白と聞いて再び身体が強張る。それじゃあ、あの言葉は本当に…?落ち着いていた心臓が再び早鐘を打ち出す。今日は大忙しだ。


「それ、は、その、えっと…」
「俺は本気だから」


そんな真剣な声に誤魔化すことなど出来なくて、冗談とも嘘とも思えなくて、不破様が本当に私を好いてくれているのだと伝わってきた。まるで夢のようだ。こんなに幸せでいいんだろうか。大好きな人に抱き締められ、告白され、胸がいっぱいだ。
幸せに浸って何も答えない私に不破様はもう一度問いかけてきた。


「それで?前から反応で分かってるけど、直接優の口から返事を聞きたいんだけど?」


なんとも意地の悪い人だ。そんな人に惚れてしまった私も私だけれど。


「…わ、分かっているなら、もういいじゃないですか…!」
「答えてくれるまで離さないぞ」
「……それじゃあ、一生答えません」
「…この野郎」


にやりと笑った気配を感じた。不破様と話しているとどんどん好きになってしまう。それが悔しくて怖くて、捻くれた答えをしてしまった。恥ずかしくなりすぎると自分は素直になれないのだと初めて知った。素直に答えたいのに…。
けれど素直じゃない私の答えにも不破様は楽しそうで、抱擁が強くなる。


「なら、一生離さないからな」
「……!はい、望むところです!」


私も一生離れる気はないですから。
振り向いた私の顔に近付いてくる不破様に目を閉じ、そっと静かに唇を合わせた。大好きですと想いを込めて。


end
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満月堂従業員。
千代ちゃんくらい身分低い子にしようかと思ったけどそうすると色々大変そうだったから平凡な所で。
充ににこって笑って手を振ってほしかっただけ。今までで1番甘くしたと思うけど最後急展開なのは理解してます。ちゃんとした流れで甘い話が書きたい。

title:きみのとなりで


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