呪文を唱えて

「しょ、しょう、しょう、と、くん…焦凍、くん………うああああ恥ずかしいよ…!」


机に伏せて唸り声をあげる春に、麗日と緑谷は苦笑した。


「春ちゃん随分苦戦しとるなぁ」
「うぅ…だって…」
「轟くん、名前呼ばないと返事してくれないんだっけ?」


緑谷の言葉に春は再び唸り声を上げる。まさにその通りだ、と。


「今までずっと轟くんって呼んでたのに、いきなり名前で呼べなんて言うんだよ?」
「それは…」
「轟くんは春ちゃんのこと好きだから仕方ないよ!」
「そそそそれは嬉しいけど…!わ、私も轟くんのこと、好きだけど……は、恥ずかしいものは恥ずかしいよ!」


2人きりでいるだけでも未だ緊張してしまうのに、いきなり名前を呼べときたものだ。レベルの高い要求に春は深い溜息をつく。


「なんかさ…もう名前すらかっこいいよね…」
「重症やわ」
「あ、はは…」
「轟く…じゃなかった、焦凍くんーー!!」


轟の名を呼びながら机にぐりぐりと額を擦り付ける。本人にやれば良いのにと思いながら、緑谷と麗日は顔を見合わせて苦笑した。


「如月」
「ふぁい!?」


そこへ突如かかった声に春は勢い良く頭を上げて振り向いた。頭の中を埋め尽くしていた人物がそこにはいて、春はすーっと頬を染める。まるでまだ片想いしているときのような反応だ。


「な、ど、どうしたの、轟くん?」
「……」


轟は僅かにむっと表情を曇らせた。春はきょとんと轟を見つめる。


「春ちゃん、名前名前!」
「え?名前?……あ!あ、えと…!」


先ほどまで練習していたのを忘れてしまったようにあわあわと慌て始める。そしてその間、轟は何も答えずにじっと春を見つめていた。


「しょ、しょ……しょ…う…ぅ…!」
「……」
「……な、何か用かな?」
((諦めた!!))


結局名前を呼べず、何もなかったかのように轟へ問いかけた。そんな春に轟は小さく息をつく。


「如月、名前呼べって言ってからもう1週間経つぞ」
「まだ1週間だよ…」
「いい加減慣れてくれ」
「いい加減諦めて…」
「嫌だ」
(可愛い…!!)


ばっと顔を覆って悶える春に緑谷たちは呆れるしかない。しかしそこで麗日があることに気付く。


「というか、轟くんは春ちゃんのこと名字で呼んでるんやね?」
「あれ、そういえば…」
「……」
「……本当だ…!!」


麗日のツッコミに轟は無言だったが、春は初めて気付いたように驚愕の表情を浮かべていた。


「そういえば私、轟くんに如月って呼ばれてる…!」
「……」
「私だけ名前呼ぶなんて不公平だよ!」
「……」


何やら気まずそうに視線を逸らされた。恐らく本人は気付いていたのだろう。気付いていてあえて名前を呼んでくれなかったのかと頬を膨らませる。


「轟くんも、その…私の名前…よ、呼んで…ほしい…」
「……無理だ」
「え…?」


ぼそりと呟かれた言葉に春だけでなく緑谷たちもぽかんとする。


「な、なんで…?」


もしかして自分は嫌われているのか。そんな不安が頭を過ぎり、声が震えた。
轟は視線を逸らしながら、口元を手で覆う。普段あまり変わらない表情は何やら気まずそうで、うっすらと頬を赤く染めながら小さく口を開いた。


「……そりゃ…恥ずかしいだろ…」
「……へ?」


予想もしなかった言葉に、間の抜けた声を出す春。ぱちぱちと瞬きをしながら轟を見つめるが、轟は視線を合わせようとしない。


「え、は、恥ずかしい…?」
「…おう」
「私の名前、呼ぶのが…?」
「……ああ」
「……私も、轟くんの名前呼ぶの…凄く恥ずかしいんだけど…」
「………だろうな」
「それなのに轟くんだけそれはすっごくずるいんじゃないかな!」
「…………すまん」


一気に形成逆転したように春が責め、轟が引き気味になる。何とも珍しい光景だ。


「轟くんが私の名前呼んでくれるまで、私は轟くんの名前呼ばないからね!」
「…レベル高くねぇか?」
「どの口が言うの!?」
「仕方ねぇだろ…」
「そんなの通用しないよ!ほら轟くん、春って呼んでみて?」
「……」
「……」
「……」
「……」
「…………………春」
「!」


しばらくの沈黙後、轟はぽつりと呟いた。相変わらず視線は逸らしたままで、その頬はうっすらと赤い。そんな轟の反応と言葉に春は嬉しそうにはにかんだ。


「なーに?焦凍くん!」


先ほどまでお互いに照れていたのが嘘のように、ふわふわとした雰囲気を醸し出し始める。緑谷たちはそっとその場を離れた。見ているこっちが恥ずかしくなってしまうくらいにイチャつき始めた2人に微笑みながら。


end
ーーーーー
轟くんに照れてほしかったんだ…!イチャつき方は想像にお任せで…

title:きみのとなりで

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