「丙、今日の午後なんだけど執務室まで来てくれない?」

夢のような発情期が終わって約一週間程経った頃だ、その日も丙は帰ってこない銀司に着替えを届け、いつもと変わらない日常を過ごすはずだった。

「午後?別に構わないけど、人手不足かなにか?」

けれどそうはならなかった。眠そうに目を擦りながらダイニングに訪れた金吾から、久方ぶりに職場に呼ばれたからだ。
銀司が大学を卒業するまでは、主に重要書類の整理などに駆り出されていたのだが、銀司が金吾の下で働くようになってからは、とんとそんな機会がなくなった。

「いや、取引先に会わせたい人がいるんだ」
「取引先か、わかった。何時までに向かえばいい?」

取引先、その一言で丙は恐らく大切な接待か何かなのだろうと察した。
金吾には遠野という腕の立つ秘書がいる、仕事は完璧にこなすし、その鮮やかさたるや丙でさえ驚いてしまう程なのだが、あまり人と接することが得意ではないらしい。例えるならば、ロボットが近いだろうか。
だからこそ、応接室などを使った軽い接待の場に借り出される事も少なくなかった。

「十五時までに頼む、今日は軽い顔合わせ程度のつもりだけど、もしかしたら夜までいてもらうかもしれない」
「わかった。俺が留守の間、政次の様子は誰に見てもらえばいい?」

顔合わせという言葉に多少の疑問は抱きつつも、丙は二つ返事で頷いた。
加藤さんにお願いしておいて、ベテランだし、出産経験もあるから」
加藤さんは日勤の使用人だ、両親が国内にいる頃からこの家に仕えていた彼女は、金吾と銀司はもちろんのこと、丙にとっても第二の母のような存在だ。
今でこそ丙の方が上に立つ立場ではあるが、仕事を隅から隅まで教えてくれたのは彼女だった。

「加藤さんなら安心だね、伝えておく。それと、そろそろ食べ始めないと政次に行ってきますのキス出来ないかもよ」

その言葉に金吾は時計を見てぎょっとすると、急いで箸を手に取った。
丙はそんな様子を横目に見つつ、政次用に煮たスープを持って、ダイニングを後にした。















「丙はね、少し特殊なんだよ」

丙に伝えた時間は十五時、けれど金吾は三十分前である現在既に、ある男と顔を合わせていた。

「特殊、ですか?どんな方だとしても金吾さんが紹介してくださるなんて光栄ですよ」

スラリと伸びた足をほんの少し崩して座っている男は、首を傾げながら問うた。同時に一見ふわふわに見える短い髪が想像とたがえ揺れ動き、優しそうな瞳を細める。

「そう言ってもらえて嬉しいよ。丙は元々生まれるはずのないオメガだから、ちょっと気苦労が多いんだ」

男へ微笑み返すように金吾も目を細めると、知りたいことがあるなら答えられる範囲で教えるよと続けた。

「なら、どうして丙さんはオメガに……?」
「隔世遺伝だよ、丙の両親はどちらもアルファでね、遺伝子が弱いオメガ性はまず番の間には生まれない。けれど先祖にオメガがいて、ベータとの間に子供を作った場合、確率は低いがオメガが生まれる。でも、アルファ同士での事例はあまり無い」

つまり、丙はその数少ない症例の一つなのだ。

「そんな事が有り得るんですね……」

丙はオメガであるとわかる前まで、将来を有望視され、屋敷の人間や遠い親戚にまで一目置かれていた。
それこそ九条夫妻のお付き同士の子供であれば、金吾の補佐役として活躍する未来もあっただろう。

「俺たちは丙がオメガであろうがなかろうが、大切な家族同然の存在ではあるんだけど、世間はそういうわけにもいかないみたいでね」

しかし丙の将来はあっけなく、成長過程で行われるバース診断にて覆された。
エスカレーター式で決まっていたはずの私立中学への入学は却下され、屋敷外の親戚連中からは白い目で見られ、残りわずかだった小学校生活も性差別の対象にされ、最後には金吾の補佐役という未来さえも奪われた。手の平を返すも同然の行為をさも当然に行われたのだ。
当時の彼の絶望が如何程のものかなど、想像をすることも出来ない。正に、翼を折られたと形容するのが一番しっくりくるだろうか。

「もう丙の辛そうな顔は見たくないんだ、そろそろ幸せに生きてほしい。だから、光雅くんならそれが出来るんじゃないかと思ってね」
「アルファ間で生まれたオメガ……そんな素敵な方がいるなら、早く紹介してくれればよかったのに、金吾さんも水臭いですね」
「あー……まぁね、光雅くんとは付き合いも長いし、いつかはとは思っていたんだけど、俺の踏ん切りが上手くつかなくて」

そう困ったように金吾は笑うと、誤魔化すように自分で淹れた紅茶を双方のカップへ注ぐと静かに口を付けた。
一瞬彼の頭に過ぎった銀司の顔は紅茶の香りで塗りつぶし、一つ息を吐く。

「とてもいい香りの紅茶ですね、まるで花の蜜のように甘い」
「花の蜜……?柑橘類ならブレンドされているけど、それが甘いのかな」

この紅茶の香りは爽やかで、口当たりもスッキリするはずのものだ。光雅くんはいままで香りを間違えることなんてなかったのにと、不思議そうに金吾が首を傾げた時だった、 ノックの音が三回部屋に響いたのは。









十五時十分前、早すぎず遅すぎない時刻だ。丙は自分の出来る仕事を全て終わらせ、加藤さんに政次を託すと、颯爽と会社に駆けつけた。
内心、仕事中の銀くんを一目でも見れないかな、と思いながら。

「卯月さんよくおいでくださいました、代表よりお話を伺っております。代表は現在執務室におられますが、先に内線をお繋ぎしましょうか?」
「いえお気になさらず、お仕事お疲れ様です」

受付に一度顔を見せ、軽い手続きを済ませる。もはや顔パスも同然なのだが、社員というわけでもないから、たとえ丙であっても自由に出入りする事は出来ない。
執務室はビルの最上階に位置している、会議室と応接室は最上階にもあるけれど、こちらの二つは重要な時にしか使われないらしく、いつも廊下はシンと静まり返っている。
はずなのだが、丙はエレベーターの扉が開いた途端、妙な違和感を覚えた。
甘いのだ、まるで花の蜜のようにねっとりと絡みつくような、けれど決して嫌味ではなく、叶うならばずっとこの匂いに包まれたいと思うほどに胸が擽られる香り。
似ている香りはどこかで嗅いだことがある気がしたが、どこでなのかは覚えていない、けれどそれすらも根本から覆される程にその香りは蠱惑的だった。
匂いの出処を探るように歩けば、いつの間にか執務室の前までたどり着いていた。
彼は香水か、それともアロマか、金吾が香りを嗜むのは珍しいなと思いつつ、三度扉を叩いた。

「丙かな、入っておいでよ」
「はい、失礼します」

丙は、家を出たその瞬間から表面上は仕事モードだ、内心このビルで銀司が働いていると思うと条件反射のように鼓動が早まる。

「お待たせ致しました金吾さ、ま……?」

そんな悠長な事を考えていた丙だったが、次の瞬間彼は目を見開いて口をポカンと開けた。
金吾一人だろうと思っていた場所には、既に見知らぬ男の姿があったからだ。

「いらっしゃい、早かったね丙」
「あ……お初にお目にかかります丙さん、赤柳光雅と言います、以後お見知り置きを」

にこやかに光雅と名乗った彼は、どうやら先程の甘い香りの根源らしい。通った鼻筋やキリッとした眉、それに恵まれた肢体、ここが会社ではなく街中であったならば、十中八九振り返っているであろう美青年。それがこんな香りを纏っているだなんて、もはや向かうところ敵無しではないだろうか。
現に今、銀司以外にときめいたことなどない丙が、トクリと小さく胸を鳴らし、数秒間目が離せなくなっていた。

「は、初めまして、卯月丙と申します。遅れてしまい申し訳ございません」
「丙は遅れてないよ、元々光雅くんに先に来てもらう予定だったから」

金吾の言葉に、はて、と頭上にクエスチョンマークが浮かぶ。接待のために自分が呼ばれたのであれば、彼との約束の方が後であるはずなのに、何故と。

「実は、今日はお仕事じゃありません」

なんの悪びれもなく、金吾は言った。むしろ、年甲斐となくてへっと語尾まで付けて。

「どういう……事でしょうか?」

仕事ではなく、その上目の前にはどう見てもアルファにしか見えない男性、この状況で接待ではないのだとしたら、可能性は一つ。

「顔合わせって、そういう事か……」
「ちなみに、銀司は重要な契約を取りに行ってもらってるよ、初めてだから俺の秘書も一緒にね」

どこまでも用意周到な男だ。金吾は一見頼りないように見える所もある、けれどその実彼の行動は計算の上で成り立っている所が多々ある。
今日だって、銀司と秘書を同時に遠ざける理由を作り尚且つ先方の予定も合わせ、丙の発情期が終わり、その上政次が安定期に入った時期と、タイミングが良すぎるのだ。
発情期が近いからと逃げる事も出来なければ政次には加藤さんが付いている、平日の昼間ならば突然銀司に呼び出される事も無ければ何かあれば秘書が対応するだろう。

「……金吾様、屋敷に帰った後改めてお話があります」
「構わないよ、丙は察しがよくて嬉しいな」

つまるところ、見合いだ。それも、仕事上の紹介という理由まで付けた、無愛想な対応を一切許さないもの。

「……申し訳ございません赤柳様、突然の事、さぞ驚かれた事でしょう」

丙と金吾の様子をずっと笑顔を保ったまま眺めていた彼は、とんでもないとでも言いたげにふるふると緩く首を降った。

「いえ、今日という日を楽しみにしていましたよ。それにしても、先程の紅茶の香りだと思ったのは丙さんのパルファムだったんですね……とても良いセンスをお持ちだ、どちらのものをご使用ですか?是非お教え願いたい」

その言葉を聞いた途端、丙は耳を疑った……と同時に心臓はバクバクと脈打ち、嘘だと言ってくれとばかりに顔はサーっと青ざめた。

「……あの、お、おれは……なにも、何も、つけてません」

お客様を前にした普段の丙なら、私と言っていた所だろう、しかしついいつものように俺と口走っていた事を彼は恐らく気付いていない、それ程までに衝撃だったのだ。

「え……あの、失礼ですが発情期は」
「先週、終えたばかりです……」

基本的に、発情期以外のオメガにアルファがフェロモンで反応することは無い。理由は単純に発情期にアルファを誘うフェロモンを貯めるため。
だがそれ以外に互いの匂いに誘引される理由が一つだけある。
その存在に出会う確率は雷に撃たれる確率よりもずっとずっと低く、信憑性さえも怪しまれるくらいにあやふやな名称、都市伝説とさえも言われる程に稀有なもの。

「魂の番……っ」
「魂の番……?」

願わくば、夢であって欲しいと丙は願った。けれどこれは紛れもない現実で、どこに感情をぶつければいいのかさえわからず、その場にふらふらと座り込んでしまった。

「銀くんじゃ、なかった……」

ポツリとそう呟いて。






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