「あ、あ……うそ、だろ」

丙が目を覚ましたのは自宅でも屋敷でもなかった。
やわらかなベッド、シャンとした清潔なシーツ、大きな枕。

「き、きき、着てな……っ」

起き上がった時、丙は上半身に何も纏ってはいなかった。きょろきょろと周りを見渡せば、少し離れたソファの上に、見慣れたふわふわの髪の毛が見えた。
昨日はカッチリとしたタキシードを着て、そして……と、記憶を巡らせる。
数分の後、思い出した事実に丙はサーっと血の気が引いた。
銀司と共に有れることが嬉しく、丙は前日碌に眠れていなかった、それが災いしたのだろう、彼は光雅の腕の中で眠りに誘われてしまっていたのだ。結局どれほどの時間ああしていたのかも、どうやって ここまで運ばれたのかすらも、なんで上半身裸であるのかすらもわからないまま、ただ焦りに顔を青くすることしかできない。

「し、したは……!?は、はいてた……」

離れている彼と、下着だけは身に着けている事実にほんの少し安堵しつつも、丙はベッドから飛び出すと、眠っている光雅をバシバシと容赦なく叩いては早く起きろと必死だ。

「あ、ひのえ……?」
「こうがぁ!おま、お前、こうなったのは何故か説明しろ、一言一句漏らさず説明してくれっ!」

目を覚ましたのか眠そうな声で答えた彼の肩を掴み、丙はがくがくと思い切り揺さぶった。

「お、落ち着け!何もない!何もないから!」
「銀くんは!?俺どうしてここにいるんだ!」

焦りからか二人だけの呼び名になっている事も気づかず、必死に問いかける。
揺さぶられ続ける彼はと言えば、落ち着くまでこうしようとでも思ったのか、抵抗する事をしなかった。

「どうなってるんだよぉ……」
「ようやく、落ち着いたみたいだな……安心しろ、丙があのまま眠ったから元々は皐月と泊まるはずだった部屋に連れてきただけだ。銀司君の連絡先は知らないから、金吾さんに事情を説明して銀司君に部屋番号も伝えてもらった……が、迎えには来てないな」

揺さぶられ過ぎたのか気持ち悪いという風にソファにもたれ掛かった光雅、その視線の先には首をもたげ、床に座り込んだ丙がいた。

「それなら、よかった」
「……よかった、のか?迎えに来なかったのに」

すっかり沈んだトーンで呟かれた丙の言葉に、光雅は疑問符を抱かずにはいられず、問いかける。
彼は丙がどれほど九条銀司中心に世界が回っているかなど知りはしない、けれどただならぬ関係であることははっきりとわかっていた。
ただ、それが丙にとって幸せな関係であるとは、どう見方を変えても思えないのだ。

「銀司様が俺を信じている証拠だから。少しでも疑うなら、ここに来てる」
「それは、丙との関係を揺るがす存在足りえないっていう自信か?」
「俺は銀司様じゃないからわからないけど、俺たちの関係は世間一般に考える番とは少しずれてるから……きっと番という関係にならなくても、俺たちは番なんだと思う。彼がいないと俺は生きられないし、銀司様もそう、だから迎えに来ないのは銀司様が俺を信じてくれている証。俺は裏切ってしまったのに」

昨晩、巻谷会長の元、九条銀司の隣に立っていた丙は光雅が知っている彼とはかけ離れたものだった。赤くなった頬に震える瞳、浮足立っていたかのような雰囲気、まるで小説に出てきたような恋する乙女そのものといった所だろうか。
今視線の先にいる彼は抜け殻に近いような、廃人寸前のような……これもまた光雅が見たことのない丙だ。
きっと九条銀司はそんな丙の全てを知っているのだろうと思えば、憂鬱なような、それでいて靄がかかるような気分になってくる。

「……それでも俺は、諦めないからな」

背もたれから起き上がりながら口を開く彼。
そんな光雅の言葉に彼はゆるりと顔を上げた、途端光雅は目が離せなくなった。今にも溢れそうな、どんな感情とも読めない涙が瞳を濡らしていたのだ。

「ひのえ……お前は本当に、綺麗だよ」

噛み締めるように零れた言葉と感情、そっと頬に両の手を添えれば、堰き止めていたものが決壊したかのように涙がボロボロと頬を伝った。

「おれ、帰る……」
「なんで、もう少しいたらいい……金吾さんには事情を説明してるって言ったろ、その時に銀司くんが迎えに来なければ、そのあとは丙の好きにさせてくれと、言伝を受けてる。今日一日は休みでいいとも……だから、丙がそうしたいなら、いてくれて構わないんだ」
「いい、かえる。銀くんにあやまらないと」

丙の考えは硬いらしい。行って欲しくないと思う光雅の気持ちとは裏腹に、ふらつきながらもゆっくり立ち上がった彼。光雅もそれに倣うように立ち上がれば、丙の肩に手を回し、彼を支えた。

「送らせてくれ」
「いい、一人で帰れる」
「馬鹿言うなよ!こんなにふらついて……いや、丙がそういうなら、わかったよ」

きっと一時的なショックなのだろうと思う。そういえば出会った日の丙もこんな様子だったと思えば、尚の事光雅の胸に燻る感覚が大きくなる。一般的に人を守りたいと思う感情を何というのだろうか、庇護欲だっただろうかと彼は頭の片隅で考えた。

「けどその変わり、もう少し休んでいけ、少しでいい、気分がよくなるまででいいから」

そう縋るように語り掛けながらソファに促せば、一度は困ったような表情を覗かせたが、軽く口元だけふっと笑わせると、お言葉に甘えてとだけ返し、素直に腰かけた。
しかし光雅はその光景を見守るだけに留めて、決して隣に座ることをしなかったのだ。

「……俺、そんな酷い顔してた?」
「してる、今も。そんなに銀司君が大事か」
「大事。銀くんに比べたら俺の命なんて紙より軽いくらいに」

先程から何度か聞いた無意識の愛称に、愛おしさが滲んでいる。丙に名前を呼ばれた時の光雅は、それほどまでに感情を込めて呼ばれた事などない。

「……服どうする?タキシードだろ」

自分から話題を振ったのに、それ以上彼の口からその名を聞きたくなくて話題を逸らす。

「タクシー呼ぶから平気、そのまま着る」
「飯は?腹減ったならルームサービス頼むけど」
「いい、少し気分が良くなってきたし、もう少ししたら帰るよ」

彼は丙が帰る前にあれやこれやと世話を焼いた、水を持ってきてみたりだとか、クローゼットからハンガーにかけたままタキシードを取り出したりとか……丙からすれば、キチンと皴なく掛けられたシャツやジャケットに感動という言葉を覚えずにはいられなかったらしい。

「成長が目に見えた……無駄じゃなかったんだぁ俺の日々」

驚きと嬉しさが同時に波になって襲っても来たのだろうか、感嘆の息を漏らし今日一口角が上がった。

「俺だって成長くらいするわ、料理はまぁ……あれだけど」
「あれは多分センスの問題」
「うるさい。それより、随分元気になったみたいだな」
「おかげさまで。なんか光雅と初めて会った時の事思い出した」
「丙もか、俺も思い出してた、お前もしかしてメンタル弱いのか?」
「そういうわけでもないとは思うんだけど……家族を除けば光雅くらいだよ、こんな俺を見てるのは」

丙が何気なく発した言葉にドクリと一度心臓が大きな音を立て、ついそれはどう捉えたらいいと問いそうになった口をぎゅっと噤んだ。
きっと丙にはそんな気など一切ないのだ、であれば聞かぬが仏だろう。

「よし、俺帰るよ。着替えありがと」
「ああ。タクシー呼んどくか?」
「大丈夫、またな」

また、と確かに丙の口からそう零れた。
光雅はそれだけで胸の辺りが苦しくなって、自然と口角が上がり始める。

「ああ」

声にまで感情が滲みそうで、そう返すのがやっとだった。
けれど行動は隠せなかったようで、丙が部屋を出るまでの間、ひな鳥のように後ろをついてまわっていれば、別れ間際最後に放たれたのは、光雅うざいという罵倒だったのだが。
ドアが閉まる音の余韻をほんの少し堪能した後、一度深く息を吐いた光雅は充電していたスマートフォンに触れ、何度か画面をスライドさせた。
そして、表示された彼、上杉皐月へとコールを鳴らす。しっかりと別れを告げるために。





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