佐原秋一(さはら あきいち)の家には毎朝毎晩押しかけてくる女房(男)がいる。
定時でぴったり帰ってくる、スーツを着たただの会社員……のはずだ。
その生活を除けば。

「秋一さんおかえりなさい!今日はハンバーグにしてみました、遥馬も喜んでくれるといいんですけど」

その男は元々会社の部下だったと思う、彼が新卒で入ってきてすぐの頃、結婚を期に好条件を提示してきた会社に転職したのだが、その後もその部下はほとんど会話らしい会話もしなかったのに、毎日のように連絡を入れてきた。
子供、遥馬も生まれ、落ち着くかと思えばその予想は外れ、それどころかおやつやおもちゃなど、日によって違うものの、毎回プレゼントを持ってきては、子供と遊んで帰っていく夜が週に三度ほど。
秋一の妻は育児を肩代わりしてくれる存在が出来たから楽だわ、と言っていたが、時間が出来たおかげか出張や彼が来ている時を見計らい、浮気をして出ていった。
それも、まだ物心がついたばかりの、幼い遥馬を置いてだ。
もちろん、一番悪いのは浮気をした上に家を出た妻だろう。
しかし秋一は、顔だけは抜群にいいと昔から言われてはいたが、それは裏を返すと性格に難があるということでもある。
誰かと付き合うと、最後にはつまらない男だと振られる事が多々あったと思えば、当然の結果だったのかもしれない。
その上、秋一は妻の浮気にも別段感情を揺さぶられることは無かった、ただ、サインとハンコがないせいで離婚届を提出出来なくて困っている、というくらいだ。
それどころか、よく遥馬の相手をしていた彼の方が落ち込んでいたようにも思える。
遥馬はこれから母親なしで生きていくのかとか、幼稚園のお迎えはとか、色々心配をした末、最終的に
『僕が遥馬のママになります!』
と勝手に結論付けた。
それからというもの、彼は毎日この家へ早朝遥馬が起きる前から訪れては、夜は遥馬が寝たのを確認して帰る、という事を繰り返している。

「衣笠(きぬがさ)くん、最近いつも言っているような気がするけど、もう遥馬も小学三年だ、そろそろ君をママと呼んでいる事に違和感が出てきてもおかしくない、いや、内心ではそう思っているはずだ。それに、私は君の年の頃には遥馬が生まれていた……いい相手を早く見つけなさい」

遥馬が生まれたのは秋一が齢二十七の時だ、当時二十二だった彼も今や三十路、結婚相手がいてもおかしくは無い年だ。

「とーきーは、この家にいる時は僕も佐原姓でいるつもりなので、時葉って名前で呼んで下さいって何度も言ったはずですよ」
「しかし……」

彼は秋一の言葉を別段気にすること無く、今まで着ていたエプロンをキッチン横のハンガーポールへとかけると、そそくさと玄関の方へと向かっていった。

「塾にお迎え行ってきますね、秋一さんは遥馬が帰ったらすぐご飯が食べられるように盛り付けお願いします」
「あ、ああ、わかった」

そして今日も今日とて彼に流されるのだ。
彼、衣笠時葉の事が、秋一はよくわからない。
例えば仕事だってよくも悪くも普通に出来ているようだし、シェフが作るもののように絶品とは言わないまでも、家庭的な料理はどれも美味しく安心する、性格だって悪くないし、その笑顔や口調から鑑みるに物腰だって柔らかい、遥馬との接し方を見ていると子供も好きなようだ。
そんな人間が何故結婚相手はおろか彼女の一人さえ作ろうとせず、逐一世話を焼いてくれるのか、何度考えても納得いく答えは見つからなかった。
とはいえそんな事を悶々と考えながらも、彼の言う通り盛り付けや配膳を済ませてしまうあたり、相当順応している事は否めない。

「ただいまー!あ、ハンバーグの匂いがする!」

丁度サラダからメインのハンバーグ、スープに至るまで机に並べ終えた所だったろうか、ガチャガチャと鍵が開く音がしたかと思えば、次の瞬間にはバタバタと廊下を走る音、いつも通りの遥馬の帰宅だ。

「遥馬ー?ちゃんと靴並べて、それから家の中では走らないこと!手洗いうがいもちゃんとしにいくよ」
「はーい」

後を追うように聞こえた時葉の声色は母親のそれで、男だとか女だとか、そんな枠に囚われることなく、ただ慈愛に満ちていた。

「ねぇママ、今日のデザートはなに?」
「牛乳寒天、みかんも入ってるよ」

洗面所へと向かう最中、二人の会話にそっと聞き耳を立てれば、どうやら今日の食後には秋一の好物が待っているらしい。
幼い頃にお手伝いさんに頼りきりで、ほとんど料理をしない母から数回だけ作ってもらったそれは、こんな関係が始まってすぐの頃、時葉に秋一の方から唯一リクエストしたものだ。
時葉はそれが嬉しかったのか、月に二度は必ず牛乳寒天を作ってくれる、それもまた、この関係をずるずると続けてしまう原因の一つであるような気もしてならなかった。

「おかえり、遥馬」
「ただいま父さん、ママが来たらいただきますしよ」

遥馬は秋一によく似ていた、元妻の遺伝子をどこに置いてきたか、もはや瓜二つ、生き写し、そんなレベルだ。
恐ろしい程に美形、くっきり二重でも涼やかな目元、通った鼻筋、薄い唇。さぞかし学校では多くの子を虜にしている事だろう。
けれど時葉の教育の賜物か、はたまた遥馬の本質か、彼はそれを鼻にかけることはせず、酷く素直で優しく頭のいい子に着々と成長していっている。
小学生になるまではパパと呼んでいたのに、いつの間にか父さんと呼ばれている事を考えると、日々の成長につい頬が緩む反面、時葉の事はもうずっとママと呼ぶつもりなのか、いまも変わらずそう呼んでいるせいで、若干寂しくも思える。

「おまたせ、食べようか」

手洗いから帰ってきた時葉が、いつものように遥馬の隣に腰掛けると、早速というように遥馬は嬉しそうに目を輝かせ、頂きますと手を合わせた。
夕食を食べながら話すのは、もっぱら遥馬の学校と塾での一日についてだ、例えば今日は体育の授業で何をしたかだとか、クラスではどんなゲームが流行っているだとか、話題は様々ある。
そうこうしているうちに、楽しい気分のまま皿は空になっていて、ごちそうさまのその後は、皿洗いが秋一の仕事だ。
時葉はといえば、遥馬と一緒風呂へと入り、上がれば今度は歯磨きまで一緒にしているのだ、もはや本当の親子以上の関係だろう。
とはいえ最近は自立を促すためか一人で風呂に入るように言っているらしいが、いつも聞き分けがいいはずの遥馬でも、それは聞いた試しがない。

「遥馬、風邪を引かないように早く髪を渇かすんだよ」
「うん、わかった!父さんはお風呂でゆっくり疲れを取ってね」

秋一はそんな息子の優しさに目を細め頷くと、その幸せに浸ったまま、一日の疲れをお湯にとかした。
遥馬の言うようにゆっくりとお湯に浸かっていれば、あがった頃には既に遥馬は夢の世界へと船を漕ぎ始め、時葉の手をぎゅっと握ったままもごもごと口を動かす。

「おやすみ、ママ……とうさん」
「おやすみ遥馬、また明日ね」
「おやすみ、いい夢を見るんだぞ」

言い終えて数秒、本格的に夢の中へと入っていったのか、遥馬はスースーと健やかな寝息をたて、時葉の手を握っていた力は徐々に弱まり、すっと解けた。

「……これで今日も、秋一さんと遥馬と一緒にいれる時間が終わっちゃいました」
「君も家族を作ればいい、そしたら……」
「本当に、秋一さんは鈍感過ぎます。そういう所も魅力的なので、いいですけど」

困った様に笑ってそう言う彼は、二人の時にしか姿を表すことはしない。遥馬が起きている時は、例え仮初だとしても、母親を演じているのだから。

「好意を向けてくれるのは嬉しいが、私は君に何も返せない」
「僕はここで過ごす事を許されているだけで、何かを返してもらう以上の幸せを得てますよ。遥馬の成長を秋一さんと共有出来てる、これ以上の幸せはありません」

秋一の辞書には恋愛のれの字もきっとありはしない。みんながみんな顔で惚れては、感情の機微さえ掴めず去っていく。
今まで言われるがまま付き合った女性たちは皆、愛されている自覚が持てないと口々にそう言った。
元妻はといえば、押しに押して結婚まで持っていった癖に、最後には動く美しい人形のような彼にへきへきしたらしい。やはり最後には同じ事を書き残したメモだけ置いて出ていった。

「何故、君はそんなに私に好意を向けてくれるんだ?」
「秋一さんの笑った顔が見たいからです、きっと自覚が無いと思うので言いますけど、この世の全てがどうでも良くなるくらいの破壊力なんですからね!特に遥馬に向けてる表情とか……考えれば考えるだけ」

彼は自分で話を遮る様にとにかく!と言いながら立ち上がると、ふっと秋一へ微笑みかける。

「僕は多くを求めません、ただこの幸せな毎日が少しでも長く続いてくれればいい、それだけです。それじゃあ、また明日」

時葉は彼に一礼し扉の方へと歩き出した、いつもと同様、自分の家に帰るのだろう。

「ああ、また明日。今日もありがとう」

今までただの一度だって時葉を引き止めたことは無い、制約でも定めているかのように、夜だけは必ず家に帰るのだ。
そして、いつの間にかまた明日と返す様になっている事に、秋一が気づくことは無い。








「おはようございます、秋一さん」

佐原秋一の一日は、衣笠時葉の声で始まる。
あれからたったの数時間、それでも時葉は健気に毎日佐原家へと訪れる。
合鍵を渡してからは、秋一が起きる前に家に入ってきては、朝食準備の傍ら丁度いい時刻に寝室へ起こしに来るようにもなった。

「おはよう、今日は少しゆっくりさせてもらったみたいだ」

時計の針は八時半を指し、いつも起きるより一時間以上多く寝こけていたらしい。

「土曜日ですから、ゆっくり休んで貰いたくて。遥馬を起こしてくるので、その間に顔を洗ってきてください。それと、盛り付けるだけにしてあるので、朝食の準備もお願いします」

そして今日も三人一緒の食卓を囲むのだ。平日ともなれば、秋一の場合お弁当まで作ってもらっている。
秋一は食費はもちろん出しているとはいえ、それだけしてもらっていて何も返せないでいる自分がもどかしいと、彼らしからぬ感情を時折抱く事が最近多々あった。
してもらって当然、むしろ相手が自分から進んでしたがるといった環境に、秋一は生まれてからずっと置かれていたせいか、感謝の感情というのが酷く薄いらしい。

「……折角の休みだし、少し遠くへ遊びに行かないかい?」

出ていく背中にそう語りかければ、まるで時が止まったかのように彼はピクリとも動かなくなった。

「時葉……くん?」
「本当に……?」

と思えば、突然まるで子どものように目をキラキラと輝かせ、喜びがぱあっと溢れ出る。

「じゃ、じゃあすぐにでも遥馬を起こさないと!それからお弁当も!一時間半あれば間に合うかな……」
「随分と、嬉しそうだね?」

その問に、時葉は何度もコクコクと頷いて、今まで見せたこともないような爽やかな笑みを秋一に向けた。

「当然です!家族で遠出なんて初めてじゃないですか!」
「……そういえば、妻が出ていってから出張以外で遠くに行ったことはなかったな。今日は君の行きたい所へ行こう?」
「なら遥馬の行きたい所が僕の行きたい所です!」

それからすぐに起された遥馬はといえば、時葉と本当の親子のように瓜二つの反応をしてみせて秋一を驚かせた。





「遥馬は水族館で何を見たいの?」

遥馬のリクエストは、最近友達が行ってきたのだという水族館だった。
それも街の中心街にあるものではなく、海のすぐ近くにある、一般的な水族館。

「えっとねー、サメ!それからイルカショーと、シャチと、ペンギン!あと食べられるお魚も見たい!」
「よーしじゃあ、丁度ついてすぐにイルカショーがあるから、最初にイルカショーを見ようか?ペンギンのお散歩の時間もあるんだって」

久しぶりに乗った車の後部座席では、楽しそうな会話が絶えず繰り広げられていた。
前に三人でこの車に乗った時はもう何年も前、それも楽しい思い出では決してなく、高熱を出した遥馬を連れて時間外診療へと連れていった時だ。
その時の後部座席はといえば、泣きそうな声で遥馬を心配する時葉の声と遥馬の小さな呻き声だけが響いていて、あまり思い出したくはない記憶である。

「秋一さんはどれがみたいですか?」
「私か……私は、鯛、かな」

意外過ぎるチョイスに耳を疑ったのか、一瞬沈黙が流れたかと思えば、突如どっと笑い声が聞こえてきた。

「ははっ、秋一さんが鯛なんて、想像してなかったです!」
「あははっ、ぱぱ、くいしんぼう!」

時葉が楽しそうに笑ったのはもちろんのこと、遥馬が、本当に久しぶりに秋一の事をパパと呼んだのだ。
どうやら、父さん呼びは無理をしていたようで、比較的しっかりしている遥馬のあどけない部分を垣間見たようで、秋一は胸のあたりが暖かくなった。

「泳いでいる鯛は綺麗なんだぞ、鱗がキラキラと光る度、赤の濃度が変わるんだ」
「じゃあ鯛も見なきゃね、ママ!」
「そうだね、いっぱい楽しもうね」

その日、三人はとっぷりと日が沈むまで遊びに遊んだ。
三十路過ぎの体に小学生の体力は辛いものがあったが、遥馬と時葉の笑顔を思えばそんなものは吹き飛んだ。
加えて、明日が休みだというのもあるのだろうが。
後部座席で眠る二人をバックミラーごしにチラリと見ると、幸せが具現化されたような、そんな気分にさせられた。
きっと、将来的に時葉もこうやって所帯を持つのだろう、そして、こうやって家族で遠出を……と、考えた所で秋一は思考を停止させた。
バクバクと鳴る心臓に、丁度よく現れたインターチェンジ。
まずいと思いつつ一般道へ下りた車を、秋一はハザードを灯し停車させ、フゥっと一つ息を吐いた。
しかし、まだバクバクとなり続ける心臓は全身の血液を勢いよく循環させ体温を上げようとしている。
だが、顔はサッと青ざめて、息も段々と荒くなっていった。

「……まさか、そんな……」

小さく呟いた秋一が思ったのは、時葉の事だ。
秋一の望みは時葉も所帯を持ち、遥馬も時葉をママと呼ぶことをしなくなる事……と、今の今まで思っていた。
けれど、後部座席の光景が遥馬一人になった所を想像した瞬間、恐怖に襲われたのだ。
いなくなった時葉、聞こえない声、向けられない笑顔……それら全てが、自分たち以外の人間に向けられている光景。
自然と浮かんできてしまった映像に、秋一自身が耐えられなくなった。
まだ見ぬ未来に嫉妬と絶望を抱いたのだ。
もし、このまま自分が所帯を作れと言い続けたら、そんな未来は現実になるのだろうか、恐ろしさが全身を包む。
そんなのは嫌だという思いが秋一に刻みつけられ、そこからどうやって帰ってきたという記憶は、あまりにも薄かった。
気付けば家に帰ってきていた秋一は、ただ呆然と、風呂に入っている二人が上がるのを待っていた。

「お風呂上がりました、秋一さんも入っちゃって下さいね」

フラリと廊下に出たところですれ違った二人は、同じせっけんのいい匂いがした。
風呂上がりの自分からも同じ匂いが漂うのかと思えば、妙に安心する。

「ああ、そうさせてもらうよ。遥馬はもう半分寝ているね」
「今日が本当に楽しかったのか、まだ寝たくないみたいですけどね。でも、瞼が下がってきちゃうんだよね?」
「まだおきてるー、おきるぅ……」

遥馬の部屋に入っていく二人を微笑ましく見送りつつ、自分も風呂に入れば、今日も今日とて疲れが湯に溶け出していった。
だが、やはりと言うべきか、先程から時葉がいなくなる光景ばかりが秋一の頭に浮かんでいく。
そして最後には、後悔している自分ばかりが残るのだ。

「はぁ……これはもう、言い逃れできないな」

今まで気付かなかった自分に苦笑しつつも風呂を出れば、向かうはいつもの通り遥馬の部屋だ。
そっとドアを開け中に入れば、遥馬はとっくに夢の中らしく、時葉の手も解かれていた。

「今日はすごく楽しかったです、今日も一日が終わっちゃいましたけど、すごくいい思い出を抱えて眠れます、ありがとうございました。それじゃあ、帰ります、おやすみなさい」

スっとその場を去ろうとした時葉に、秋一は一度ギュッと唇を噛むと、決心したかのように、その手を掴んだ。

「え……あき、いち……さん?」
「泊まっていってくれないか」
そして、ハッキリとそう告げたのだ。
「なに、いって……」
「ここにいて欲しい」

ふるふると、震えながら彼は首を横に振る。信じられないとでも言うように、目には溢れんばかりの涙がどんどんと貯まっていく。

「だって、そんな」
「遅くなってすまない。だが……私が君といたいんだ」

秋一の鼓動は先程同様に高鳴っている。けれど違うのは、今はしっかり顔まで熱い、という事だろうか。
こんなにも昂った感情を秋一は知らなかった。
痛む胸も、上擦る声も、焦燥感も、暖かさも、今この瞬間、一気に押し寄せている。

「それだけが理由では、駄目だろうか……?」
「っう、ぁ……だめ、じゃない……だめじゃないです!」

その場に座り込み泣き崩れた時葉。今までも女性に泣かれたことはあった、けれどこの涙は今までのそれとは違うのだと、秋一にもはっきりとわかった。

「私の部屋に連れていってもいいかな?」
「ぅ、はぃ……はい!」

もう何年もしていない、世にいうお姫様抱っこ。
それも、女性にするのではない、それなのに羽根のように軽いと思えるのは何故だろうか。
ドキドキと胸が高鳴っているのに、心地いいと感じるのは何故だろうか。
この温度を離したくないと思えるのは何故だろうか。
色々な疑問が頭を占める、けれど一つだけわかる事があった。
今この瞬間秋一がしたいこと、それは、衣笠……否、佐原時葉を抱き締めて眠ることだ。







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