A secret novel place | ナノ
雨上がりの空を待って(2)



 次の日の朝、二人で出社して珍しく真面目に書類を仕上げている虎徹と、いつになく上の空で仕事が手につかないらしいバーナビーを交互に見ておばさんが「何かあったのかい?」と聞いてきた。
「あ、いえ……」
 すみません、すぐに仕上げますから。
そう言い訳じみたことを慌てて言うバーナビーと対照的に、虎徹は何も言わない。
ちらと伺うと、すっと鼻筋の通った精悍な横顔、意外と彫りの深い目元が二三度瞬きする。
本来アーモンド色なのだが光彩が薄いせいなのか、虎徹は光の入り具合によって瞳が金色に見える。
襟足のところを右手で撫で付けて、首を鳴らす。日系人特融のナイロン光沢をした黒髪が指に綺麗だ。ふと見ると首筋にうっすらと判で押したようなバラ色の箇所があって、それが自分のつけたキスマークだと突然気づいて真っ赤になった。
「なに?」
 バーナビーの視線に気づいたのかそう怪訝そうに聞いてくる。
ほんのり微笑んでくれて虎徹が特に不機嫌な訳ではないと知り、バーナビーは安堵した。
「いえ、なんていうかその、真面目な虎徹さんは珍しいなって思って」
 そう?
「いやちょっとさすがに貯めちゃって。いつもバニーに丸投げだったからこれからは気を付けようかなって思ってさ」
「どういう心境の変化で?」
「区切り?」
 それから虎徹はばーか、突っ込んで聞くなよと笑う。
でもやっぱりこれまでと違っていて、虎徹はさぼることなく真面目に仕事を続けていて、何故かバーナビーは虎徹の方にも何らかの変化があったのだろうと思った。
 昨日の夜、バーナビーは初めて虎徹の体を隅々まで見た。
以前のそれは泥酔していたのもあって、虎徹に無理強いをしたというその事実ばかりが苦い記憶として刻まれていた。
虎徹の方も痛くて苦しいばかりで、実際のところ気を失ってしまい何をされたのかよく覚えていなかったらしい。
 ただ痛みの記憶だけが鮮烈で、バーナビーが記憶を取り戻して付き合うと決めた後は只管その行為に対する恐怖を募らせていたそうだ。
それもまた彼の罪悪感の一つになっていて、実際そのことに及ぶときが来たとしたら、俺はバニーを突き倒して現場から逃走してしまうのではないだろうかとずっと苦悩していたらしい。勿論虎徹は恨み言一つ言わなかったのだが、バーナビーにしてみたらそれも無理もないと思う。
実際ヒーローが出動する事件の中にはHERO TVが放映できない凄惨な事件が割合あった。
特に放送禁止となるのは未成年者に対する暴行殺人事件だ。運よく救い出された者も大抵が身も心にも傷を負って、後々まで引きずることが多い。
強姦というのは魂の殺人なのだと虎徹がとある現場でぽつりと呟いたのを覚えている。自分もまさにそうだと思った。そうやって救い出された人間の何割かが後に自ら命を絶つ。
 自分よりも十年以上長く現場にいた虎徹がその事実を知らないわけがないのだ。
自分がやったことはそれと同じだ。ただ、虎徹が自分のことを好いていてくれていただけで。
 無理やり合意だと思い込もうとしているのだろうか?
それぐらい虎徹の体はガチガチに緊張していて、キスの後押し倒した瞳が今にも泣きだしそうに潤んでいた。
頬に触れるとぎゅっと目を瞑って何かに耐えるような顔をした時、虎徹は自分では自覚していなかったのだろうけれど、本当はとても怖かったのだろうと悟ってしまった。
この人は自分の痛みには本当に鈍感な人だから。
「触れてもいいですか? 絶対に痛いことしませんから。触るだけ」
 答えの代わりに虎徹は目を開いてくれた。
なんだか自分はとても情けない顔をしていたらしい。虎徹は目をしばたいて「泣くなよ」と言った。
 実際したのはキスだけ。
耳元に顔を寄せると、ふわっと立ち上がるような柑橘系の香りがした。
虎徹がつけているフレグランスの香りに交じって、彼自身の体臭がする。
虎徹の体臭はごく薄く、ヒーロー活動中はスーツを着ているせいもあって余り知覚されないのだが、実際触れてみて凄く好みだと思った。
 懐かしい香りと言えばいいのだろうか?
「なんかちょっと、あんまり嗅がないで」
 虎徹が押しのける仕草をしたので微笑んで抱きしめる。
「虎徹さん体温高いから、抱きしめてて気持ちがいいです」
「シャワー浴びたい」
「一緒に入ります?」
「いや、やっぱいい!」
 バーナビーは吹き出した。
「見ても?」
「別にいいけど……」
 上半身だけ抱き起してシャツから腕を抜かせると、思ったよりも華奢な上半身。
うっすらと幾筋かのひっかき傷のような白い痕。活動時の負傷が残った痕なのだとすぐに判った。そして右わき腹に広がるレーザーライフルで撃たれた痕が痛々しかった。
この痕だけは恐らく一生残るのだろう。けれども、とても綺麗な身体だと思った。実用的に鍛えられた筋肉だ。一度かなり落としてしまったと言っていたが、ちゃんとやることはやっていたのだろうと思う。いつもさぼっているようにしか見えないのに、そうじゃないことを証明している形がそこにあって、「もうちょっと身体を大切にしてくださいよ」とバーナビーは虎徹に囁いた。
「これ以上傷つけたらダメですよ、ホント」
「うん、気を付ける」
 こんまま寝るの?
虎徹にそう聞かれてそうですねと答える。
「今日は特に何もしないですから」
 それからふと気づいてこう聞いた。
「虎徹さんって、する前にシャワー浴びるタイプですか?」
「普通だろ」
「それ、日系人特有の癖だと思います」
「え? マジで?」
「普通ことが終わってからでしょう? 二度手間ですし」
「いや、ことが終わったらそれはそれでまた入るのが普通じゃね?」
 大体シーツも変えたいしさ。
「うーん、どっちが濡れた方で寝る? って聞く方が普通かなあ?」
「ええ〜」
 ヤダぞバニー、俺正気ならそれは嫌だ。できれば終わった後気持ちよく寝たい。
「気絶してただけだからな、前回は」
「じゃ、あの後家に帰って?」
「勿論シャワー浴びてそれなりに処置したよ!」
 当たり前じゃないかと虎徹がいい、それからどのみち野郎同士でことに及ぶならい前処理ってやつが必要になるからなんだその、日系人方式でお願いしたいと零す。
その様子がやってらんないよー的なふくれっ面だったのでバーナビーはますます笑ってしまった。
「奥さん、虎徹さんのことがきっと可愛らしくてしょうがなかっただろうな。その調子でいつもなら」
「いやいやいや」
 カッコいいだろそこは? 幾らなんでも可愛らしいなんて思われてなかったよ! と抗議する虎徹を抱きしめてそのまま横になる。
こらー、バニー、重いー、と虎徹がぽかぽか頭を殴ってきたけれど、全然力が入っていなくてそれも笑えた。
それからバーナビーの頭を抱え込むように抱きしめて、その背中に触れる虎徹の手のひら。
 近くにいてくれる体温を伴ったそれが愛おしくて、バーナビーも虎徹の髪の毛を右手で漉きながら瞳を覗き込んだ。
誰よりも近くにいてくれる。きっとこれからもずっと。

 思い出して幸福感で目が眩む。
こんな風に貴方の横にいられるようになるだなんて、ほんの数か月前までは思いもしなかった――。
「仕事しろよって、俺に言ってほしい?」
 始業時間から数十分経っても、ずっと自分を見てるなあと気づいていた虎徹がそう笑顔で言う。
「言って欲しいです」
 嬉しくてどうしても顔が綻んでしまうのをやめられない。
そんなだらしない笑顔、初めて見るなあと虎徹も笑った。
「仕事しろよバニーちゃん。じゃないと一緒に昼食べられないだろ?」
「そっか、じゃ頑張ります」
 バーナビーはよし、と気合を入れて自分の仕事に向かった。

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