彼は誰(2) 手にしたグラスを傍らのサイドテーブルに置いて、ニュースを消した。 いつの間にか日が沈み、室内は真っ暗。ニュースを消してしまうと、シュテルンビルトの地上の星の滲むような明かりが差し込んでくるだけになっていた。 バニーの表情が判らない。居心地の悪い違和感、多分バニーもらしくないからだ。俺たち二人とも今日どうかしてる。 「・・・・・・ごめん、気をつけるよ。確認するのもやめる。らしくないもんな」 悪かったな、もうしないから。今日はな、俺帰るな。 「家で反省するよ」 ははっと力なく笑って首を振り、立ち上がろうとした時、それまで黙って椅子の横に立ち尽くしていたバニーが動いた。 軽い仕草だったが、虎徹の肩をとんと押すのでそのままリクライニングチェアーに戻される。虎徹はぽかんとバーナビーを見上げた。 「バニー?」 「帰さない」 「え?」 気分じゃないよ、削げちゃった。互いにそうだろ? 虎徹は首を傾げる。バーナビーはその時俯いていて何を考えているのか判らなかったが、多分同じ気持ちだろう。気分じゃない。 だが、バーナビーはそっと虎徹の肩を両手で掴むと身体を寄せてきた。 おいおい、若いな。気持ちがなくても身体はそうじゃないってか。いや、それより行為を持ってして自分を傷つけようとしてるのだろうかと虎徹はふと考える。 まあいいか。行為に没頭していれば、嫌な事は考えずに済む。バニーはとても優しいからそういったとき酷くするっていってもたかが知れてる。むしろ現実逃避する手助けをしてくれるのならありがたい、そんな風に思っていたのだけど。 だがバーナビーが次に取った行動は、虎徹の想像の範疇を超えていた。 というより、意味が判らなかった。かつてバーナビーがこんな行為に出たことはない。 びくりと跳ねさせる。突然肩口に顔を埋めてきたバーナビーに怪訝そうな顔を向けた後、虎徹は身を捩って悲鳴を上げた。 「痛い! バニー痛いっ!」 嫌と言うほど食いつかれたのだ。皮膚が破けて血が流れる感触。虎徹は食いつくバーナビーの顔を自分の肩口から引き離そうとその頭を両手でぐいと押す。だけど全力で押したらバーナビーの首の骨を折ってしまいそうで、思うように力を込められない。 痛みに目の端に涙が浮かぶ。ぎりぎりと歯を食いしばって痛みに耐えながら、虎徹はバニィ、と吐息のように哀願した。 「痛ぇよ、バニー・・・・・・、痛い、――なんでだよ」 痛い、痛い、熱い。 容赦なく食いつくその歯に虎徹は悲鳴を上げてもがいた。冗談じゃなく痛い。ギリギリと食い込んでくるその強さに怯む。なんで、どうしてこんなこと。 本当に食べようとしているように小さく咀嚼するような顎の動きでぞっとした。痛い――、熱い。 なんとか引き剥がそうと無駄な努力をしていたが、虎徹は暫くして諦めた。 気が済むまで食いつかせてよう。なんだかもういい、痛いのも大分麻痺してきたし。 諦めて体の力を抜くと、一瞬バーナビーが躊躇したのか他の理由か、少しだけ食いつく歯が緩んだ気がした。 かちりと音がする。 鎖骨にバーナビーの歯が当たった音だ。 首筋から胸の方にじんわりと濡れていく感覚。 自分の血は当たり前だけれど自分と同じ体温で、流れているそのつるりとした感触以外全く判らない。ただ、シャツが濡れたところから冷えていくのかじっとりと左指先に水が伝うようにそれが落ちてきた。 それからどれくらい経ったろうか。 食いついていた歯から力が抜けて、そっと離れていく。完全に離れていく瞬間、外気の冷たい空気が傷口に染みてびくりと虎徹が身体を竦ませるとそこに触れる柔らかな湿ったもの――バーナビーが舌で血を舐めとった。 「気が済んだ?」 虎徹がそう聞く。 その静かな声色に、バーナビーはええと答えた。 ぐいと右拳で唇を拭う。 バーナビーの手の甲にべっとりと血がついて、なんだか酷く非現実的に見えた。 「不味いだろ?」 「美味しくはないですね」 バーナビーの返答に苦笑して虎徹は傷の痛みに肩を押える。 このシャツはもう駄目だろうな、捨てるしかないな、――ネクタイも、下手すれば下も駄目だろうかと思う。 別に服を惜しむ訳ではないけれど――、虎徹が嘆息したのをどう思ったのか、バーナビーは薄く嗤った。 「貴方は――、いつもそんなで」 「そんなで?」 鸚鵡返しに聞く。バーナビーは自分の返答や態度を自分の計算だと思っているようだが、虎徹自身はそうではない、本当に判らなかったから。 「何故、受け入れるんです? なんで許してしまえる? 僕だから? ずっと僕はそれを貴方の優しさだと勘違いして――、貴方がそんなだから」 バーナビーは言った。 「僕が弱さを見せたら――、僕が何を恐れているかはっきり貴方に示したら、貴方は認められるんですか? 認めてくれるんですか。貴方の弱さを――僕がどんなに恐れているか――貴方の弱さが僕の弱さだってことを」 「何を言っているんだ?」 虎徹は血の流れる肩口を右手で押えながら聞く。聞きながら嫌な予感に――それは恐らく直感だ。本能的な震えが走った。いけない、聞いてしまったら俺は。 「この期に及んでまで認めないんですね。――貴方は本当に卑怯だ。それは本当に僕のためなんですか。自分自身の弱さを常に見せ付けながら、僕に貴方の問題を考えさせながら、その癖逃げようとした。確かに僕が貴方の弱さにつけこんでいたというのは事実です。認めます。でも! 虎徹さん、貴方本当に判っていないんですか。本当に――判ってなかったくせに僕にあんな惨い事をしたんですか・・・・・・」 「惨い事――って?」 「バディを解消しようとしたこと」 「だってそれはお前、ライアンの方が俺なんかと組むよりお前の力をより一層際立たせてくれる、実際減退しちまった俺なんかよりずっと彼の方がいい。これは別に俺の卑屈さからの言い訳じゃない。事実なんだ。冷静に考えてもそうだ、撤回しない。しかもライアンは、アイツは若い。先の短い俺なんかよりアイツの方が――」 「ライアンに僕らの苦しみが解るだなんて本気で思ってるんですか!」 虎徹はその台詞に一瞬頭が真っ白になる。 苦しみ――、僕ら? の? 俺とバニーのか? 「え、なんで複数形――」 バーナビーは涙を零しながら微笑んだ。まっすぐ自分を見つめる翡翠の瞳、眩暈がする。 バーナビーは歪んだ笑顔ではっきりとこういった。 「ああ、なんてことだ。虎徹さん、僕は今貴方をこの場で殺してやりたい」 「バニー・・・・・・」 「引き裂いて、食べてしまうことが出来れば・・・・・・! 一つになってしまえれば。だったらどんなに楽だったろう! 僕だって考えずに済んだのに!」 虎徹の前でバーナビーはけらけらとひきつけを起こすように嗤う。嗤いながら泣いて、虎徹の膝に縋った。そしてぎゅっとそこに自分の頬を押し付けて絶叫するのだ。 その叫びに虎徹は胸を刺された心地になる。ああ、バニー、お前はなんて。 「怖い――! 虎徹さん、怖い・・・・・・、怖くて堪らないんです。貴方が頑張ってくれなきゃ、貴方が僕に証明してみせてくれなきゃ、僕は生きていけない。だって、虎徹さん、僕は減退する!――後何年ですか、貴方は判っていて僕を一人にしようとした。怖い、貴方を見ているのが怖い。でもそれにも増して貴方が――未来の僕の姿に重なって見える。だから僕は――あなた、知っていたでしょう? だって僕もOne hundred powerなんだから・・・・・・!」 「――!」 [mokuji] [しおりを挟む] |