桜歌 Celebrate Kirsche13(2) 正直途中からレヴェリーが何を言っているのか頭に全然入ってこなくなっていた。 脳裏を満たしたのは強烈な怒りで、その思考ゆえに真っ白に脳裏が塗りつぶされていたからだった。 程なくしてその怒りは消えて、再び虚無が襲って来た。 何もない、もう何にもないというただ只管な空虚、やるせない程の無力感だった。 更にどれだけの時間が経ったろう。 大通りの車の行き交い、その喧噪、十七分署の無残な焼け跡、ぎらぎらと不躾に辺りを照らす品のない街頭の光。 その中バーナビーの頬に触れるもの。 ちらちらと夜空を何かが飛んでいる。なんだろうと頬に触れたそれに手を伸ばすと、それが小さな白い花びらだということにバーナビーは気づいた。 そう、今はもうなくなってしまった虎徹の変じたあの桜の花びら――幻覚かと思えばそうではない。余りに臨場感があって不思議に思う。 そうして思い出した。 第十七分署から下、イーストリバー沿いの並木道は全て桜だと。 ああ、あれから二週間経ち、桜が開花したのか。 思えば遠くに来たものだと思う。アーモンドの花を眺めながら桜が見たいと虎徹が言った。 そして先週僕も思った。虎徹さんが戻ったらあの桜を一緒に見に行こうと。 僕が桜の花を見たいなんていったから、虎徹さんは桜の花びらに変じてしまったのかな、それほど僕に桜の花を見せたかったのだろうかと思ったあの日。その願いは叶わず虎徹は戻ってこない。それでも桜は咲くのだろう。それでも桜は咲いたのだろうと。 バーナビーは大通りの先にあるアトラス像に向かった。 そこから高速エレベーターが出ていて、ブロンズステージとシルバーステージ、ゴールドステージを繋いでいるのだ。 その直下にイーストリバー、桜の並木道がある筈だ。 特に期待したわけでもない。ただ、虎徹との最後の約束だったから機械的にそれを果たしに行っただけだ。 もう虎徹は居ないけれど、桜を見ようと言ったあの約束だけは覚えている。まだ虎徹の感触をその存在を匂いを覚えているうちに約束を果たそう。 それぐらいしか僕にはもう何もすることが出来ないから。 そうやってエレベーターを降りて昇降口からその並木道に出るとバーナビーは空を仰いで息を飲んだ。 まさに満開、満開の桜。 見上げるとこうこうと輝く月の下、まるで花びらの一枚一枚が星のように煌めいている。 そしてその星はちらちらと夜空に舞い、水のように零れ落ちて行く。 唐突にバーナビーは悟った。そして思い出した。怒涛のように感情が蘇り、その余りの悲しみに翻弄される。 その悲しみと喪失感は圧倒的だった。 綺麗だ、綺麗すぎて痛い。こんなに美しくて、綺麗で世界はここにあるのに虎徹さんがいない。虎徹さんはもういない。 満開になった曙の木の下で膝をつき、しおりを握りしめてバーナビーは号泣した。 夜の街灯に照らされて、白いその花弁は残酷なほど美しく、まるで雪のようにバーナビーに降り注いでいた。 ごめんなさい、虎徹さん、ごめんなさい。 貴方を見殺しにしてしまった。貴方を失ってしまった、貴方を救うことが出来なかった。 もう二度と逢えない、もう二度と。 神様、いっそのこと僕の事を殺してください。 何故僕はあの時彼を助けに行かなかったのだろう。いや行きたかった。何にも代えて貴方を助けたかった。 だけど僕はどうしても彼女を見殺しに出来なかったんです。彼女を――ヒーローの助けを必要としている全ての人たちを。 出来なかった、きっとまた出来ない、何度同じことが起こっても僕はきっと虎徹さんを見殺しにする。 だけど神様辛すぎます。どうかいっそのこと僕を今ここで殺してください。 桜の花が舞う。 散る、零れ落ちる。一枚一枚が輝く星のように舞い注いてくる。 バーナビーの涙が頬を伝い、その時しおりに貼られた花びらに零れた。 街灯に照らされて水銀のように輝くその涙がしおりに貼り付けられていた花びらに触れた瞬間、何の化学反応か、何の奇跡かそれが始まった。 花びらが輝く。 夜空に輝く宝石の如く。 収束し大きな一つの白い影となり、ゆっくりと一つの形を取り始めた。 しおりにたった一枚だけ残ったあの虎徹の花びらから立ち上がるとふとうたた寝から目覚めたかのように目を開く。 そうして彼は目の前に身も世もなく号泣するバーナビーの前に屈みこみその身体を抱くのだ。 「そんなに泣くなよバニー」 顔を上げてバーナビーは信じられず、口をついて出た言葉は「何故?」だった。 「見てたよずっと、お前が頑張ってるところ。俺を凄く大切に思ってくれてるのも最初から知ってた。ずっと傍にいたよ。お前はわかんなかっただろうけど、それでも良かった。だって俺はずっとお前と一緒だったから」 「だってでも、だって、貴方……!」 燃えてしまったのに。貴方が変じたあの美しい桜の花びらは何処にもない、たった一枚を残して全て燃え尽きてしまったとそう思っていたのに。 「信じてくれなくてもいい、俺が変じたのは桜の花びらで、その花びらはただの器なんだよ。同じ器があれば、そしてそれが俺であることを許してくれればそれでよかったんだ。彼らは許してくれたよ、自分の身を俺の器にしてもいいよって。教えてくれた。貴方の大切な人が泣いてるよ、だからこんな私達で良ければ散った分全てあげるから泣き止ませてあげてってここにある桜の木たちが全員許してくれた。後はお前が俺の為に何かを捧げてくれれば願いが叶うって。多分それはお前が流した涙だったんだろうな」 信じてくれなくてもいい、全部俺が見た夢だったとそれでもいい。でもありがとうな、バニー。それと桜たちにも礼をいってやってくれ。 ありがとうな。みんな、本当にありがとう。 だからな、バニー、そんなに泣くな。 「お前が俺を置いて出て行った時、お前の本当の気持ちが俺には判っていた。よくやった。辛かったろう、苦しかったろう。どんな思いでお前が俺を見捨てていったか、彼女を助けたか――知っていた。大人になったな、それとお前は本当に彼女の言う通り最高のヒーローだ。バーナビー、お前は正しいことをした、誰にも成し遂げられないことをしたんだ。俺はお前の事を誇りに思う。俺の相棒がお前で良かった。愛してる」 余計にバーナビーは泣き出した。 嗚咽が止まらなくて言葉が紡げない。 虎徹は本当に本当に悪いことをしたと思った。 自分の身に置き換えたら判る。俺なら耐えられたかどうか判らない。友恵に続いて二度目、また俺は成す術もなく見送るほかなかったのかと、例えそれが正しい事でもバーナビーが望んだことでもきっと気が狂う。今度こそ耐えられなかっただろうから。 だから虎徹は何も言わずにただバーナビーの嗚咽が収まるのをずっとずっと抱きしめながら待っていた。 大丈夫、もう大丈夫、今は俺が居る。こうやって現実で抱きしめられる腕もある。 肉体を失くしても人は愛しい人の傍に居られるのだと俺はあの時この世の真理を知った。 死ねば愛が終わるなどとどうして人は思えたろう。終わったりはしないのだずっとずっと大気に大地に時間に刻まれて残り続ける。 例えバーナビーが気づかなくてもずっと傍にいただろう。それでも再び取り戻してこの肉の重さを愛しく思う。代え難い宝物だと感じるのは、触れることによって感じる相手の体温が愛しさを倍加させるからだろう。 愛してると言葉にするのは容易いが、俺はそれをよしとしない。 そんなものでは表現できない。バーナビーはそれを言葉にせずとも俺に教えてくれた。だから俺もそれを返そう、いつか気づいて貰えるその日まで、ただ静かに待とう。バーナビーがこのまま涙で溶けてしまわないように。ただ抱きしめていたい。 やがてどれだけの時が経ったろうか。 泣き止んだ後もずっと虎徹に抱きしめられたままだったバーナビーがぽつりと言った。 「信じてました」と。 一度身体を離し、まじまじと虎徹を見つめるバーナビーは目を真っ赤に泣きはらしていたが、また一粒涙を零して笑顔になった。 「僕たちがこんな風に終わる筈がないと。だけど辛かったです。悲しかった。もう貴方に二度と逢えないことが。自分じゃ死ぬことは出来ないから誰か殺してくれと願いました」 「俺も――」 そう言いかけて虎徹は口を噤む。 答えの代わりに再びバーナビーをきつく抱きしめて「ごめん」という。 「貴方のせいじゃない」 「それでもだ」 それからキスをされてバーナビーは目を見開く。 自分からする人じゃない。いつもキスするのはバーナビーからで、虎徹はそれを日系人には酷な習慣だと言い、いつもはぐらかされてばかりだった。 それを不満に思う事がなかったと言えば嘘になるが、最初に関係を持った時虎徹は最大の譲歩をしてくれた。あの時多分虎徹は自分の事を好きではなかったという真実を知っていたからなお更に。何時何処で同じ気持ちで向き合ってくれるようになっていたのか、いつ虎徹が自分を本当に愛してくれるようになったのかそれを知らない。でもずっと願い続けた自分の真実の想いは頑なな虎徹の心にいつしか浸透していたのだろう。どうしても信じきれなかった。彼が自分を愛することは決してないと。 初めての虎徹からのキスだったのに、なんだか茫然としたまま終わってしまった。 相当自分はぽかんとしてたのだと思う。 まじまじと目を見開いて眺められて虎徹は「えっと……」と困ったように視線を泳がす。 「なんか、ヤだった?」 「いえそんな、だってもう、なんかもう」 バーナビーが肩を揺らして笑いだしてしまったので、今度は虎徹がぽかんとする番だった。 「なんだよー、もう恥ずかしいのに……」 おじさん一生懸命頑張ったのになあと困ったように言うのもまた愛しくて、可笑しくて。 「なんかホッとしたら可笑しくなっちゃいました。勝手に花びらになって飛び散った時誰かに踏みにじられてないか、水中に落ちたら苦しいんじゃないのか、焼け死ぬのはきっと熱くて辛かったろうなとか――そんなことばかり考えてホントに辛くて悲しくてたまらなかったけど、よく考えたら貴方、花びらになっちゃってた時、能天気なことを呟いてましたもんね。ああもー安心したら凄くお腹が減りました。ここ三日ぐらいろくに食べてないんですよ僕」 「俺も大分腹減って来た。NEXTで分散しちゃってから今日で二週間ぐらいだろ、時間の感覚がちょっとおかしくて一週間ぐらいにしか思えないんだけど、それにしても人間だったら一週間飲まず食わずなら死んでるもんな。どういう仕組みだか判んないけど生きててよかった」 虎徹のいいように再びバーナビーが吹き出して、虎徹も変だなと笑う。 それから虎徹が立ち上がり、バーナビーを立ち上がらせる為に手を差し伸べる。 バーナビーはありがたく虎徹の手を借りた。その体温がまた嬉しかった。 立ち上がり、周りを見るとあれだけ沢山あった桜の花びらが一枚も落ちていないことに驚く。 それから思い出したようにまた上からちらりほらりと数枚の桜の花びらが散ってきて、一枚はバーナビーの肩に落ちた。 「花びらになるってどんな気分でした?」 「割と楽しかったよ。楽しかったというよりなんていうか陽だまりでうっとりうたた寝してる気分だった、全体的に」 このままどこかに食べに行こうかと虎徹が河川沿いを歩きだす。この河川沿いをずっと行くとブロンズステージの繁華街へ出るからという。 バーナビーは虎徹の帰還を皆に伝えなければと思いながらまだふわふわした気分で、取り合えず何かお腹にいれてから考えようと思った。 ちゃんと頭に血を回さなきゃ。 「じゃあそんなに辛くはなかったんです?」 「一枚というか一か所だけ? 意識がはっきりしてたのは覚えてる。でも俺がたくさんの俺になったっていう感覚もちゃんとあって、色んな事を同時にしながら同時に聞いて同時に考えて何もかもが全部俺っていうか。時間も空間も認知ってのかな、全てが混とんとしてたな。後、回り中に沢山の音があったよ。聞いたことがない声も沢山きいた。感じたっていうべきか。あれは全部植物の声じゃないかと思う。自分自身と存在が近いものとは気持ちが通じるところがあるんじゃないかな。動物に限らず植物も生きて会話してるんだなって思ったよ。だからこそ、桜たちが俺とバニーに同情して力になりたいって思ってくれてるって判ってた、知ってたから力を借りることが出来た。彼らの気持ちがバニーに寄り添ってた、バニーはあの時俺という人間の為にも泣いてたけど、桜の花びらの為にも泣いてたから。結局のところ俺のお前の傍に居たいっていう祈りじゃなくて、お前の俺に逢いたいって気持ちが桜たちの気持ちを動かしたんだ。俺の為じゃなくてきっとお前の為だったんだろうな。あんなに泣いて辛かろうって」 「そんな優しい彼らの花びらを、結果的に殆ど全部奪うことになってしまった。大丈夫かな、まだ咲いていた花びらも相当失わせてしまったみたいなのに」 すっかり花が無くなって枯れ木のようになった桜並木を見上げ、真顔で申し訳ないと謝る。 そんなバーナビーに虎徹は心配ないよと言った。 「もう聞こえないけど、最後に聞いたよ」 大丈夫、また来年咲けるから。 [mokuji] [しおりを挟む] Site Top |