長編 小説 | ナノ
episode 1-1


生まれた時から世界が何色なのかを知らなかった。
生まれてすぐから世界から隔離された。
毎日のように、ある声は囁いていた。
『決して世界を見てはいけない。決して、触れてはいけません』
呪文のように、お呪いのようにその言葉は永遠と心に刻まれていった。

暗闇しか見えない世界。
一体何色でどんな風景が、己の想像と違って存在しているのだろうか。









周囲から騒々しい声と、甲高い音、数多くの足音が強弱をつけて聞こえてくる。
多大な数の音はそれぞれ違う音色を奏でていて、フードで隠れて見えない彼の耳は、変わった音を聞くたびにそれを動かしていた。
あるものに寄りかかり、目を閉ざして音を聞くことに集中する。
研ぎ澄まされた聴覚は些細なその会話さえも拾っていた。
「いらっしゃい!」
明るい少し癖の入った声音。
「これ、何?」
怪訝そうな甲高いよく聞き知った女性の声。
「ああ!これかい?これは帝国で育てられた”きゃべつ”ていうらしいよ!」
「きゃべつ?」
「ああ、そうだよ。帝国近くじゃよく売ってる代物だけどねぇ。知らないのかい?」
「うん」
「あら、田舎者かい?なら安く売るよ」
「ありがとう」
ちゃりん、と金属の交わった音が聞こえた。
後にとたとた、と走り寄る足音が自分の目の前で止まる。
「はい」
何かと千切った音がして、疑問に思っていると何か得体の知れないものが口元に押し付けられた。
躊躇してなかなか口を開かない彼に、彼女はむすっとした声音で「あーん」と言うので、渋々口を開く。
無理矢理口内に押し込まれたそれは、素っ気ない味としゃきしゃきとした音を響かせる不思議な薄っぺらいものだった。最近食したものに似ているものといえば、木の薄皮だろうか。
「美味しい?」
問いかけの声は素直な返事を求めているのかお世辞を求めているのか。
少し悩んだ末、ここはお世辞にするべきだと思った。
「良いんじゃないか」
「ん、嘘だね。嘘つきおおかみさん」
お世辞だと分かっていながら、嘘だと言いながら彼女は嬉しそうだった。
おおかみは息をつき、彼女の頭をフードの上から軽く撫でる。強請るようにさらに頭を押し付けてくる彼女に僅かに苦笑した。
「うさぎ」
「はい?」
「満足か」
ぶんぶんと勢いよく頭を横に振るのは手越しに伝わってくる。
「全然!まだ!だって、おおかみさんも楽しまないと、ね」
「良いよ。俺は…」
「大丈夫!うさぎさん、ちゃんと手!握ってるから」
不意に髪に触れた彼女は、彼の目元に覆われていたものを外していく。彼女を止めようと手を伸ばしかけるが、彼は素直な彼女の思いを素直に受け止めることにした。
瞼に抑えつけていた圧迫感が取れ、閉じていた目をおそるおそる開く。
久しぶりに目に沁みる光の眩しさに、小さく瞬きをする。彼の開かれた瞳に、最初に映ったのはフードの中から見えるうさぎの真っ赤な双眸と、真っ白な髪と、満面の笑顔だった。
茶色のマントに身を包み、フードの中に隠された真っ白な兎耳のせいで頭上が膨らみ、顔と髪がよく見えている。フードの被る意味があるのか、と思えてしまう。
ついと伸ばされた少し汚れた小さな手は、彼の片手を掴み、革の手袋を外していく。
素の手にうさぎは指を絡ませて手を握る。
「これで、大丈夫!…ね?」
無邪気に笑う彼女に、おおかみもまた薄く笑って一つ頷く。
見渡す景色は、賑わう動物たちばかりがいた。
様々な足音は、多大な種類の動物たちとその中に混ざるように人間がいて、道を交差して歩く者たちに、声をかける者たちが多くいた。
屋台を立てて目の前に多くのものを飾り、そのものそれぞれに数字の値札が張られていた。屋台はそれぞれの店で加工していて、とても色鮮やかな商店街だった。
商店街の中に舞い散る花びらは、屋台の後ろに立派に育てられた淡いピンク色の小さな花を咲かせた木々によるものだとわかる。
「あれ、何?」
うさぎが指差すのはその木だった。
「あれは桜だ」
「桜?」
「人間の言う”春”というものでしか咲かない花だ」
何本も立つ木々から散っていく花びら。それらに手を伸ばし、風に弄ばれて軌道を変えていくそれに彼女は手を伸ばす。
「きれい……初めて見た…!」
「初めてはまだまだ沢山あるだろ」
「うん!」
嬉しそうに、楽しそうに笑う彼女の笑顔は彼もまたそんな気持ちにさせられる。
人ごみに入り込み、握られた手を握り返し、その道を歩んでいく。
どの屋台にも脇に飾られた字は”四月六日”と刻まれていた。



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