「幸村」
「何ですか、兼続殿。」 翌日、兼続は悩んだ末、幸村を呼び止めた。 微笑んでこちらに歩いてくる幸村は、さらに痩せたように見えた。濃く隈と疲労が滲む顔は、誰でも不安になるくらいに青白い。 兼続は奥歯を噛んだ。 不思議そうに覗き込む幸村の肩を掴んだ。瞳に瞳が映る距離で、兼続は言い聞かせるように言った。 「あれは三成ではないよ」 途端に幸村の表情が苦く歪む。 「見てらしたのですか」 ああ。 頷くと、兼続はもう一度言った。 「あれは三成ではないよ。怨霊の類いだ。」 懐から数枚の紙を取り出す。 それを幸村の手に押し付ける。 「此れを部屋の戸に貼って、寝なさい。部屋からは一歩も出てはいけないよ。」 幸村は黙って札を受け取った。 日が沈んだ。 幸村は、受け取った札を暫く見つめたあと、襖の中心にそれを張り付けた。 幸村は分かっていた。三成の面影を追い続けていれば、このまま死んで仕舞うだろうことを。あれは三成ではないと、心では分かっている。愛しい温度も色も声も持たぬ幻想だと。 それでも、会いたいと思う心に抗うことはできなかった。 だからこそ、兼続の札を受け取ったのだ。無理やりに札で心を封じ込めるようにするしかなかった。 幸村は、そろりと冷たい布団に入り込み、目深く被ってギュッと目を閉じた。 夜は無情だ。等しくやって来ては、暗闇で世界を包み込む。 幸村が目を覚ました時、辺りはまだ闇の中だった。 しばらくの間に深夜に起きるのが習慣になっていたからなのか、それとも三成の霊の仕業なのか、ともかく冴えた頭に眠気は欠片も残っていなかった。 やがて冷え冷えとした空気が部屋に漂い始め、今宵の亡霊の訪れを知らせた。 ひた、ひた、と裸足の足が冷たい廊下をゆっくりと歩いてくる音がする。 耳は拾いたくもない音を明確に拾う。幸村はじっとしていた。 ひたひたという足音が、止まった。 ガタガタと襖が揺れる。 だめだ。 幸村は、今直ぐ駆け出して札を引き剥がしてしまいたい衝動を、ぐっと堪える。きつく目を閉じ、布団を引っ張った。 だが、ちっとも眠気はやってこない。 掛布を握る手が震えた。 暫くそうしていると、襖の揺れが収まった。 それでもそこにぴたりと寄り添うような気配と、場を支配する寒気が消えない。 幸村は声を殺して朝を待っていた。 そのときだった。凍りつくような静寂を破って誰かの声が聞こえた。 「幸村…」 間違いない、あの人の声だ。 失われたはずの、愛しい声が、幸村の鼓膜を揺らした。 「三成殿っ!」 幸村は跳ね起きた。 転ぶように襖に駆け寄って、張り付いている札を乱暴に掻き毟る。 もう自分が取り殺されるかもしれないなんてことは頭の中から吹っ飛んでしまった。 幸村は襖を開け放った。 「やはり、お前は行ってしまったのだね」 幸村が行方知れずだと聞いた時、兼続は冷静だった。 そんな気はしていた。 兼続は暫く後、ポツリと呟いた。 「お前達は幸せだったのだろうか」 |