喧噪の中でも、驚くくらいに響いた。
あの人が鋭い声で、彼女の名前を呼んだ。
“はるかとおく”
珍しく試合を見に来た彼女が、観客席で突如倒れた。
すぐに意識は戻って、ただの貧血だということで、ひとまず安心は、したけれど。
「いやー驚いたね。ただの貧血みたいでよかった」
「及川さん」
何事もなかったみたいにいつもの調子で話す、かつての先輩の言葉を遮る。
もうはっきりさせておきたい。
『名前』、確かにそう言った。
俺の彼女のことを名前で呼ぶのは、
誰よりはやく駆け寄ったのは、
あのとき二人で会っていたのは、どうして。
「俺に言うこと、ないですか」
「ないよ。飛雄こそ、言いたい事あるなら言ったら?」
冷たく一変した声音に怯む。でも言いたい事は、ある。
「名前さんは…、俺のです」
「ふーん」
「会うのとか今後一切やめてください」
「へえ、言うね」
少し先を歩いていた及川さんは笑って、ようやく俺のほうを振りかえる。
「じゃあ俺も、言おうかな」
この人のこういう表情、やっぱり苦手だ。
面白がるように笑っているけど酷く冷たくて、真意が見えない。
ゆっくり口を開いて、そしてはっきりと、言う。
「あの子はお前のものにはならない」
息を呑む。
何かを言い返そうとするけれど、結局何も言えなくて視線を逸らした。
それはずっと、感じていたことだった。
何をしたって一度だって、彼女が本当に自分のものだなんて思えなかった。
やっと手が届いたはずなのに、
近づけば近づくほど、離れていくようで。
「手に負えないって、思うでしょ」
「…及川さんには違うっていうんですか」
「さあ、どうかな」
飄々とした物言いに苛立って見上げると、どこか寂しそうに遠くを見ていた。
何だよ、それ。
そんな顔する権利、あんたにあるのかよ。
そう罵ってやりたかったのに、彼女の顔がよぎった。
うっすらと目を開けてこの人の姿をとらえたときの、
どこか安心したような、あの表情。
当然何も言えるはずもなくて、ただ唇を噛み締めた。
fin.
(認めたくない、現実)
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