がくん、と肘が机から落ちた。パソコンのプログラミングは見事にエラーを叩き出している。
「ちっ」
まだぐらぐらとする頭を無視してパソコンを強制的に閉じる。もう集中はできないだろう。焦点もなかなかに危ない。
けれど目を閉じるわけにはいかなかった。過度の寝不足と恐怖から震えがとまらない。血が出るほどに噛み締めた唇でなんとかこの睡魔と震えを堪える。もうそろそろラボで堪えるのは限界だった。
目を閉じればあの光景が蘇ってくる。夢はいつだって悪夢だ。下卑た笑い声とそれ以上に高らかにあがる自らの嬌声。ぐるりぐるりと回る世界。そしてよく知ったあの緑に俺は手を伸ばす。そうすると笑ったアンタは俺の首を絞める。きゅう、と絞まる気道の感覚に乗せて小さくアンタの名を呼ぶ。そしてアンタはそんな俺に、
『お前は要らない』
「っ……!」
気がつけばまた夢に沈んでいたらしい。震えが止まらない指先を必死に掴まえて椅子にうずくまった。もうそろそろ本当に限界だった。ラボにいればアンタに気がつかれることもなくただ自分で堪えれば良かった。ラボにこもって何かを作っているのはいつものことだしきっと誰も気付かない、アンタも気付かない、それでよかった。でもどうやら自らの気持ちの深層はそれを許してはくれないらしい。がくがくと震える体がもう嫌だと駄々を捏ねる。アンタに笑いかけて欲しい。この悪夢を嘘だと思わせて欲しい。
だからアンタに会いたい。
「ばっか…みてぇだ」
分厚い眼鏡でその隈を隠して俺はラボを久しぶりに抜け出した。
「あっクルルー!久しぶり。今ご飯できたとこなんだけど一緒に食べる?」
「ククッ、カレーなら食うぜぇ」
「うん、クルル専用にカレー用意しといたよ」
だって最近クルルなんも食べにこないから心配してたし。カレーなら食べるかなって。そう冬樹が言った。
テーブルには先輩たちとタママ、そして夏美に冬樹と勢ぞろいだった。明るくて賑やかなその食卓に俺は不覚ながら安心感を覚えた。あの暗い悪夢が掻き消される。
「おおっ、クルル!久しぶりでありますなぁ」
アンタのその笑顔。俺は悪夢の恐怖とは違う震えがした。良かった。何故かそう思った。ふわりと意識が軽くなる。目の前の世界がくらりと揺れた。
「?クルル、なんか体調でも悪いでありますか?なんかいつもと違う…」
ああ、やっぱアンタは偽善者だぜ。こんな俺をそんな風に気遣うなんて。でもそれが嬉しいのは?なんで?
暗転していく世界、驚いたように見つめる周り、ずれた分厚い眼鏡の隙間からアンタを見る。なあ、どうかアンタは俺を必要として、
そして意識は途切れた。
「隊長…?」
返事はない。あんなに豊かだった地球の大地は全て灰色と赤に染まっている。
何かが足に触れる。驚いて下を向くとそこには見慣れた黒いケロン人。咄嗟にその体を引き起こす。タママ!そう体を揺さぶるけれど返事は返ってこない。更に視界を広げれば赤い、青い、そして緑の。
「っっ………!!!!」
「クルル!?大丈夫でありますか!」
ばくばくと鳴る心臓。あの灰色の大地はそこにはなく目の前には緑の髪と瞳、それは見慣れている鮮やかなままの色だった。
「寝ちまったのか…」
「びっくりしたでありますよ。クルルったら汗びっしょりだし途中からすごくうなされていたから。」
隊長の手が優しく俺の汗を拭った。その温度が酷く心地よくて安心して、ああ良かったあれは夢で。そう思えた。
「もしかしてずっと寝てなかった?」
「…改造に没頭してたから」
隊長が笑う。
「嘘だね」
なんでそう思うんだ?と聞いたら我輩はクルルのことはなんでも判るんでありますよ。と言った。
「こんなに隈ができるほど眠れないなんてどんな悪夢を見たの」
「隊長には関係ない」
「我輩の夢でしょ」
「!!」
当ーたり、隊長は楽しそうに口元を引き上げた。
「クルルはかわいいなぁ。ほら、我輩に言って?何がそんなにクルルを苦しめてんの」
口を結ぶ。言えない。言えるわけがない。アンタに助けられたあの日が幻だったら、アンタがいつか俺を捨てる日が怖いなんて。こんなにアンタに依存してるなんて。自分でだって認めたくなんかないことなのに。
黙ってしまった俺に隊長は呆れたように、でも楽しそうに俺の隈を撫でた。そのまま頬も撫でる。
「クルルが我輩のせいでそんなになるのは我輩も困っちゃうの。ね、クルル。」
いい子だから、って俺はガキじゃねえってのに。それでも精神も体も弱っちまった俺はぽつりぽつりと話してしまった。隊長は何も言わずただその言葉をひとつひとつ拾ってうん、うん、と聞いていた。話せば話すほど馬鹿らしい話。
「…ただそんだけ。くだんねェって笑ってもいいんだぜ」
そういってそっぽを向くと隊長の手が今度はよしよしと髪を撫でた。だから俺はガキじゃねえってのに。
「クルルはほんとにお馬鹿さんでありますなあー」
我輩がクルルを捨てるなんてありえない話で、そしてそんな日は絶対に来ないというのに。
「確信なんてねぇよ」
「いやいや絶対にこないであります。だって我輩はクルルにはじめて会った時からクルルを誰にも渡す気なんかなかったでありますから」
あの日、偶然出会って、そして、もうおしまい。寂しい世界は二度とこない。
「だからクルルは安心して眠ればいいんであります。起きたらきっともうそんな心配は消え去ってしまうからね」
「だから確信なんてねぇって」
「大丈夫でありますよ。我輩がクルルを何度だって助けるから。どこにいたって見つけるから」
このとんだ偽善の言葉。でもそれでも安心してしまう。うとうとと柔らかい夢心地が訪れる。久しぶりにとても心地がいい。アンタの偽善はどうしてこんなにもあったかいんだ。どうしてこの偽善がいつの間にかほんものの優しさになるんだ。どうして俺はいつだってアンタに救われるんだ。アンタへのこの想いはなんなんだ。
まァいいや。いまはすげぇ眠い。アンタのぬくもりに甘えて今だけ。今だけ。
「 」
閉じていくまぶたの隙間からアンタの驚く顔が見えた。そして、笑ったアンタが我輩もだよ、と。そこまでで俺は深い眠りにおちた。
「おやすみ、クルル」
end
他のケロンと冬樹たちは空気を読んだので部屋の外で聞き耳をたてています笑