青い空がそこには広がっている。緑の果てしない草原と黄色に彩られた小さな花が足元を埋め尽くす。流れる風は優しくて、時は止まったままだ。



「大王、ここにいらしたのですか」

鬼は言う。この悠久の平和を支配する神はただその景色に溶けていた

「うん、空が見たくなってね」

そう言う神は青い空を見上げる、けれど神は同時にあの地の底の景色をも見ているのではないかと鬼は思う

「貴方もやはり空が好きなのか」

「もちろんこの空が好きだよ。でもここだけじゃないよ。俺は全てが好きなんだ」

ああやはり。そう言うと思った。鬼はそう呟く。ふわりふわりと流れる大王の黒髪があの地の底に溶けることも知っている

この神は人を生み出すことはできない。彼に与えられたのは永久にまわる命を永遠と管理することだけだ。母なる土地にここはならない。何故ならここは一時の休息地でしかないからだ。故にここにある生命はまた地上へと還り大王を忘れてゆく。その命を一つ一つ見送りながら大王またいつか戻ってくるその命に幸せを願うのだ。産みの母にはなれない神は精一杯の愛を子供に与え、そして育てる。このひとはなんて大きな偽善を抱えているのだろう

ぜんぶぜんぶ、彼が腕の中にうけいれたものはすべてを愛すのだ。それが彼なのだ。それが許されることのない永遠の罪滅ぼしなのかは僕は知らない。知らないけれど。それでも貴方の愛は僕には重過ぎて。きっといつか僕をつぶしてしまうほどの愛をくれる。そんな貴方は無償の愛だけを配り続けているけれど、貴方はその偽善にも程がある愛を誰かに返してほしいとは思わないのか。

貴方を忘れていく、貴方を憎んでいく、貴方を否定する。どれも貴方の偽善の報い。それでも貴方は愛を配る。つらくはないの?


鬼はその背中に問いかける。神はなにも言わない。ただ微笑んで鬼の頬を撫でた。


「君のその言葉だけで俺のこころはいっぱいになるからいいんだよ」


鬼の頬を流れる涙を神の指先が優しく拭う。与えられた神の愛はこうしてひとつ、繋がっていくのだ













「わー降ってきちゃったねぇ」


突然の大雨は容赦なく降り注ぎ着物の裾から髪の一本一本まで濡らしていった。急いで逃げ込んだ大木の下だが大した意味を成さず、滴るしずくが体に落ちる

「次の宿までどれくらいだっけ?」
「確かあと一山越えなければならないと宿はないはずです」
「あちゃーそれは困ったね。松尾ショック!」

そういってけらけらと笑う師匠を横目に弟子は苛々と心に蟠りが出来ていく。季節はもう雪を目の前にしている。こんな冷たい雨にうたれて長時間過ごせる季節ではない。おまけに体を暖めるための風呂も布もないのだ



「ちょっと待っててください」
「え、曽良くん?どこいくの?」


師匠の言葉を無視し、弟子は雨の中を早足で歩いた


弟子は苛々とする気持ちをぶつけるように山道を歩く。雨が余計に鬱陶しく感じる。芭蕉さんは何もわかっていない。そう弟子は唇を噛み締めた


この雨の中では自分のような体力のあるものでも風邪をひいてしまうだろう。なのにあの師匠ときたらもう高齢もいいところだ。
そんな体でこの雨の中に長時間居たらどうなるか。弟子はその先を考えるのをやめた。それは自分の考えらしくないと。考えたくもないと。そして苛々が更に悪化した


師匠は馬鹿みたいに笑うのだ。弟子はよく知っていた。あの師匠はふざけていてもいつだって心配ばかりしてくれていると。自分のことから考えたらどうですかと言ったって彼は聞かない。どんな時だって笑うのだ。どんなに辛く当たったって彼は笑う。弟子は自分に出会うまえの師匠を少ししか知らない。けれどわかる。あの人は僕が笑わない分、更に笑うようになったのだ。そんな師匠はまるで、まるで。



目の前におおきな岩穴が見えた。ここならば雨も凌げるしもしかしたら火も焚けるかもしれない。とりあえずあの師匠をここにぶち込んでおけば少しはこの苛々もマシになるだろう。弟子は来た時よりも更に早足であの大木の元へ帰る。芭蕉さん、芭蕉さんと声を掛ける。返事はない。あの老いぼれ、またどっかに消えやがったな。帰ってきたら断罪チョップをくらわさなくてはならないな。そう思いながらまた芭蕉さん、と呼んだ。すると本当にか細く、消えそうな声が聞こえた。本当に小さくだ。けれど確かにその声は曽良くん、と呼んだ




「芭蕉さん!」




倒れている師匠のずぶ濡れの体を起こす。体は冷え切っていた。コホコホと小さく咳をする師匠に自分の体温も冷えていくのがよくわかった






その後はまったく覚えていなかった。弟子はその体をあの岩穴に運んだのかそのまま山を越えて宿につれていったのかもだ。けれど今師匠はいつものように満面の笑みで弟子の隣にいた。あの冷え切った体はいつものように体温を取り戻しいつものように軽口を叩く。だから弟子はいつものようにその体に制裁を加える。いつもの光景。けれどいつものようにまた山を越えて俳句を詠むことはもうなかった。



師匠は宿で医者にみせた。その時には元気そうにあの気持ち悪い人形を振り回していたからあと三日もすれば旅に戻れると弟子は思っていた。だが医者はもう限界だと言った。最初こんなに元気そうな師匠の姿をみて旅を中断するなんて嫌だと弟子は思った。
師匠もまだ旅は続けたいと言った。けれど医者に診察させるために師匠がその着物を脱いだ時に弟子も直感した。その痩せ細った肩と骨と皮からしか形成されていない胸。それはもう旅に耐え得る体である訳がなかった。そんなときですらも師匠は笑った。



「ごめんね、曽良くん」



笑って師匠はそういったのだ




松尾芭蕉の庵に帰った後、まるでそこに帰るのを待っていたかのように師匠の体は急激に変化し死期がみてとれるようになった。

弟子は毎晩毎晩訪れる松尾芭蕉の他の弟子たちの泣き声をききながらただ、師匠をみつめていた。弟子は理解ができなかった。それは本当に突然の事だった。あんなにも長かった旅は急に終わりを告げまるで色褪せていくかのように師匠の死が掻き乱していく。全て突然だった。あれもこれも。弟子のみていた日常が不変ではないとわかっていたつもりだった。けれどそれはわかっていたつもりだっただけでこんなにも自身を蝕んでいく。こうして不変ではないとわかっていた師匠を失ったら自分はどうなるのか。それを弟子は判らなかった。恐ろしかった。怖かった。そして弟子は師匠の庵に来なくなった。

他の弟子は次々と陰口を叩いた。師匠の大事な時に何故急にいなくなったのかと。あいつは自分にも弟子が欲しいから旅にでる準備でもしているのではないかと。それを少しばかり遠くなった耳に入れながら師匠はあのちょっと怒ると怖い弟子を想った。眠る時間の増えた老体は日々見る夢も日に日に増えていく。それは全てあの弟子との旅の日々だった。



そして師匠はその弟子の家へと随分と重くなった体を引きずりながら向かった。







「曽良、くん?」
「………は?」


へへ、来ちゃった。そう笑った師匠に一瞬弟子は目を疑った。あの松尾芭蕉が、また歩いてここに来た。けれど荒く浅い息を繰り返す師匠をみてそれは昔とは違うと弟子は思い返す


「なに、してるんですかアンタは!こんなとこまで来るなんて」
「だって、だって曽良くんに会いたくって」

「…っ!馬鹿じゃないんですかアンタ」
「ふふ、そう…かもね」


またそうやって笑う。弟子の横に座った師匠は一回りも二回りも小さくなってしまったのにその笑顔はひとつだって変わりはしない



「最近顔みせてくれなかったね。どうしたの?」
「別に理由はないです」

「……怒った?」
「何にですか」
「一緒にもう旅が続けられないことに」


そんなもの、そんなもの。


「ね、曽良くん。私最近夢をみるんだ。君と旅していた頃の夢をね」

ほんとうについ最近まで一緒に旅してたのにね。今はあんなに遠いなんて。そう師匠が呟く
「そうして考えるんだ。私にとって大事なものってなんだったんだろうって。死んでも失いたくないものってなんだろうって。そして気付いたんだ。それをどうしても曽良くんに伝えたくて今日は来ちゃった」


ねぇなんだと思う?師匠が問う。それはもうわかりきっているものだ。弟子は答えた



「俳句、でしょう」
「そうだね。俳句だ。これは死んでも失いたくないと思っていたよ。俳句が私のすべてだと思っていた」

思っていた?今度は弟子が問う。師匠はそう問われると少しだけうれしそうに答えた


「でも違ったんだよ。俳句じゃなかった。こうしてもうすぐ死ぬとわかったこの老いぼれがなにを失いたくないと思ったと思う?」






君との旅だよ、師匠は確かにそう言った。弟子ははじめて師匠に言い返す言葉を見つけることができなかった。


「曽良くんと見た景色がね。忘れられないんだ。曽良くんが前を歩いていくあの山道がね、忘れられないんだ。君の横でみた景色だからね、俳句に残したいと思うんだ。これを忘れてしまったら松尾が松尾じゃなくなるでしょ?」


ね、曽良くんに伝えておきたくてさ。言わないと松尾死に切れないから。そう師匠は言う。弟子は震える手を押さえることがどうしてもできなかった



「アンタは…馬鹿だ…」



アンタがそう言うのならアンタと巡ったあの旅は僕の人生のすべてだったのに。アンタが僕の全てだったのに。アンタはこれから僕を置いていなくなるというのに。そうなるのならば最初から僕の隣を歩かなければ良かったのに。アンタを知らなければ良かったのに。アンタを忘れて生きていくことなんてできないのに。どうして。どうして、どうして?どうして笑うんだ。どうして僕の隣で笑ってくれたの、どうしてこんな僕に笑いかけてくれたの。僕に優しさと愛をくれたの






「僕をおいて死ぬなんて許さない」


「そうだね、ごめんね」




師匠の手は優しく頬に添えられた。いつの間にか流れた涙が溢れていた。師匠は笑っていた。いつものように、僕のために。


アンタの笑顔が僕を照らして照らして、眩しくて仕方ないんだよ。師匠の愛は弟子の太陽で、優しく弟子を溶かす。そして太陽の下で溶けた氷が滴にかわって頬を伝うから









「与えられた愛はいつか誰かにその愛を与える。そしてまたその与えられた愛は誰かに渡される。そしてずっと巡る。それが大きな愛の形なんだよ」
「なんですかそのクサいセリフは」
「さあねー。とりあえずいい言葉だから憲法にでも加えとこうか」
「加えんな!」


「まあ私が妹子にあげた愛は計り知れないからちゃんとまわすんだよ」
「知りませんよ。大体太子からもらった愛とか他の人にあげられないようなものじゃないですか」
「ひどっ!」
「だからちゃんと僕が倍返しにしてあげます。太子本人に石とか草でも詰めて」






そう、君は不敵に笑うものだから。だから、この愛はきっとまた巡る。でも今は二人だけの愛を与え合おう。そうしていつかまた貴方に届けばいい。







end





つまりはうまれてきてくれてありがとうって意味






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