君の名前を愛しく呼んだ日


昨日どうやって家に帰ったのか分からない。気が付いたら朝を迎えていた。どこかフワフワと浮ついた気持ちを抱えながら登校する。

ハッキリしているのは、彼女が人ではないということ。

そして多分、その正体は狐だ。狐の面をしていたこともそうだけど、あの神社は稲荷神を祀っている。

検索エンジンで稲荷神社とか、妖狐とか色んなことを調べてみたけれど結局収穫はほとんどなかった。

「あ、」

教室に入って一番最初に目に付いたのは、もう幾日も脳内を占めている彼女の姿。女子数人に囲まれ、談笑している。

彼女は朝は苦手だと思い込んでいた為、暫しその場で固まってしまった。それに、昨日の今日である。もしかしたらもう会えないかもしれないと、何処かで考えていたのに。

入口を塞いでいた為にクラスメイトにどやされて我に返る。菅原、と呼ばれたその時に、ゆっくりと彼女の視線がこちらを向いた。学校内では決して交わる事のなかった瞳に射抜かれて息が詰まる。

逸らすことも出来ず、だからといって何かを言葉にすることも出来ずにいれば、彼女の口元が歪んだ。そのどこか切なそうな笑みを、とても美しいと思った。

彼女は周りの女子達に対して何かを告げ、立ち上がる。銀色の髪を揺らしながら歩き、そしてそのまま俺の前を通り過ぎた。表情のない瞳はもうこちらを向くことはない。

彼女が教室を出た途端に、まるで金縛りにでもなったように動かなかった身体の感覚が戻ってくる。

「名前!」

考えるよりも先に、叫んでいた。駆け出した廊下の先で、俺の声に驚いた女子生徒が落とした花瓶が割れる音が響く。

足を止めた名前のすぐ隣で砕けた花瓶は床に水溜りを作り出し、散った破片が彼女の肌を裂く。

「驚かせてごめん!」

慌てて駆け寄り、女子生徒に謝罪をする。それから名前に視線を投げた。傷は決して浅くない。流れ出した血液が既に彼女のソックスを汚している。

俺の声に驚いたとはいえ、落としてしまったのは自分だからと平謝りを繰り返す女子生徒に名前が言葉を返すことはない。

破片を集めつつ、彼女の表情を伺う。痛みに歪められているわけではない。ただ、目を見開いて足元を睨んでいる。

「あの……?」

その表情の意味を理解した俺の行動に、困惑気味の女子生徒の声が鼓膜を揺らす。彼女の謝罪の対象が急に俺のジャージで隠されたのだから無理もない。

口早に適当な理由を述べて、周りを見渡す。

「大地、片付け手伝ってくれ!」

タイミング良く通りかかった大地に声を掛け、簡単に事情を説明する。二言程度で全てを察してくれた友人に感謝をしながら、名前の手を引いて保健室へと向かう。

名目は、傷の手当だけではない。俺のジャージを頭から被っている為に視界不良の彼女が物にぶつからないよう気を払いながら進む。

幸い、辿り着いた保健室に先生の姿はなかった。この状況を説明するのは些か骨が折れる。

彼女を適当な椅子に座らせて消毒液やら絆創膏やらを準備している最中も、名前はジャージを被ったまま微動だにしない。

髪を引っ張らないように注意しつつ、黒いそれを退ける。かち合った目はどこか気の抜けたような色をしていた。

「手当はいい。もう塞がっている」

半ば開き直ったような物言いに思わず笑ってしまい、慌ててそれを引っ込めて傷口を確認する。確かにそれは綺麗に塞がれていて、血痕だけが残されていた。

「昨日は、本当にすまかった」

濡らしたタオルで血を拭き取っていれば、不意に名前が口を開く。きっとはぐらかされてしまうだろうと身構えていた俺は、肩透かしを食らった気分だった。

ひやりと冷たい指先が、俺の頬に触れる。絆創膏を貼る程の怪我でもなく、そのままにしておいて瘡蓋になったそれを細い指が撫でた。

「言霊とは恐ろしい物だな。名を紡がれた位でこうも簡単に意志が揺らぐ」

思えば、彼女が転校してきてからその名を口にしたことはなかったように思う。名前が言う意志が何を示しているのか俺には分からなかったが、きっと喜べることではないのだろう。悲しげに寄せられた眉がそう語っていた。

「名前のこと、知りたい」

するりと口から出た言葉は、頭の中でぐるぐるとこんがらがっていた思考を全て絡めとって腹に落ちる。

知りたい。憶測じゃなくて、名前の口からちゃんと。教えて欲しい。この感情が、好奇心だとか恐怖だとかそういうものとは違うところから来ているのはもう分かっている。

「私の正体に気付いているから、それを寄越したのだろう?」

ジャージを指差して彼女は呆れたように言う。確かにその通りだが、確証など一つもない。素直にそう答えれば、長い長い溜息が返ってくる。名前が言葉を紡ぐ気配が感じられず、俺は予想を口にしてしまうことにした。

「お稲荷様なのかなって思ってる。今日色々調べてて、化けてる狐は人の目は騙せても水鏡に映る姿は変えられないっていう記事を読んだんだ」

だから、彼女は雨の日に学校に来ないのだろう。だから、彼女はあんなにも、割れた花瓶が作り出した水溜りを睨んでいたのだろう。

あの一瞬でそこまで考えられたのかと問われれば否だが、何かで隠してしまわなければと、そう思ったのだ。

「お稲荷様などという最初から祀られる為に生みだされたような神使とは違って、元は妖狐だった。死にかけていたところを神主に拾われて神力を分け与えられただけの、出来損ないだよ」

淡々とした言葉からは、その心を読み取ることは出来ない。その後に続く言葉は中々紡がれず、何を言うべきなのか思案しているような表情を零す。

「神社が取り壊されたら、名前は何処に行くんだ?」

存外、俺は気が短いらしい。口をついた言葉に、彼女は少しだけ眉根を寄せた。そして永遠にも思える刹那の間の後、名前から表情が消える。

「……」

どれだけ待っても問いの答えが紡がれることはなかった。ただ、伏せられて揺れた長い睫毛から酷く悲しい色が見えたように思う。

「じゃ、じゃあ、昨日の黒尾?さんの事とか……」

この空間に流れる沈黙は、中々耐え難いものである。フル回転させた思考の中で真っ先に思い付いた名を口にすれば、上げられた金色の瞳と目が合う。

逸らさずに見つめ続けていれば、観念したように彼女は短く息を吐く。

「黒尾も及川も、元はあの神社には縁もゆかりもない。黒尾は東方に居を構える化け猫、及川は二つ先の山の神の使い、天狗だ。妖だった頃の顔見知りでな、挨拶回りで社を留守にすることが多くなる私の代わりに番を頼んでいる」

新しい情報が多すぎて、早くも置いていかれそうだ。この目で目の当たりにしたことであったが、いざ化け猫だとか天狗だとか言われるとやはり混乱する。

一気に理解するなんて到底無理そうだった。それでも、知りたいと言ったのは俺で。その言葉に偽りはない。

「見た感じだと、その黒尾と及川ってあんまり仲良さそうじゃないんだな」

だから、答えてくれる限り、思考を止めるわけにはいかなかった。

「黒尾は文字通り気紛れで飄々としているからな。そのくせ、我も強い。及川はどちらかといえば忠誠心の強い方で、曲がったことを好まない傾向がある。言い争いは少なくないな」

目を細めて呆れたように言う彼女からは、確かな信頼が伺える。きっとそんな彼ら二人の間にも同じような感情は存在するのだろう。彼女の声音がそれを物語っている。

「あと、挨拶回りって?」

先程の名前の言葉でもう一つ引っかかったこと。再び訪れた沈黙を震わせた俺の声に、彼女はああ、と短く零した。

「世話になった他の神社や神使に、私の神社の神力が切れた後、その地域の人々の今後を頼むものだ」

「そんなものが、あるんだ」

名前が午前中、学校に来なかった理由はそれなのだろうと思い至って、自分の浅ましさを恥じる。

「社が一つ朽ちるということは、それだけ大きいことなのだよ」

上手く行っていない時は藁にも縋る思いで祀り上げるくせに、いざ流れに乗ってしまえば神頼みした事など忘れ、都市開発だとかそんな理由で取り壊してしまう。そんな都合の良い人々の為に、彼女達はどれだけのことをしてきているのだろうか。

それなのに、語る彼女の声色は相変わらず柔らかいもので。申し訳ないような、居た堪れないような、はたまた強い憤慨のような感情が腹の中でぐるぐると渦巻く。

「これから、そういったことも増えてくる。そうなれば人の世に出てくることも難しい」

──だから。

名前の付けられない感情を持て余しているところに降ってきた言葉は、今までに聞いたこともないくらい優しい声音で、酷く残酷なものだった。

「さようならだ、孝支」



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