木漏れ日に置き忘れたあなたへ


彼女が転校してきてから、ひと月余りが経った。俺が情けなくも泣いてしまったあの日、翌日から来なくなってしまうのではないかと危惧したりもしたが、彼女の姿は変わらずそこにあった。

けれどいつかふと存在ごと消えてしまうような気がして、朝のホームルームで彼女の名が呼ばれる度に胸を撫で下ろす日々を送っている。

「名字ー。は、今日も遅刻か」

そして、彼女は朝に弱いらしかった。ホームルームは疎か一限目の授業に席に着いていることもまずない。いつも昼過ぎにひょっこり姿を表して放課後いつの間にかいなくなっているのが常だった。

けれど、もう三日も彼女の姿を見ていない。雨の日は休みがちであることは何となくカレンダーを見ていて最近気づいたが、ここ数日は晴れの日が続いている。

あの日から言葉を交わすことも少なく、彼女の正体に迫る話は何一つ出来ていない。彼女は学校に居る時間のほとんどを誰かしらと過ごしていた。男子も女子も関係なくその周りには常に人が溢れていて、俺の入り込む隙など皆無だ。そんな中で昔の話を持ち出すのは何だか気が引けて声を掛けられずにいる。でもやっぱり話したいこと、聞きたいことは日に日に積もり俺の中で燻っていた。

彼女に会いに行こう、と思い立ったのは今日が初めてではない。部活の後神社に寄ろうと思っていても、いざ帰路に就くといつも通りの道を通って帰ってしまうのである。思い出すのは決まって眠りに着こうとベッドに寝転がった時。そこで明日こそはと意気込むのが最近の日課になりつつある。

ゆえに今日は何としてでも行こうと手の甲にでかでかと"神社"と書いた。これならば絶対に忘れない。きっと部員からはこれでもかと質問攻めにあうだろうけれど、本格的に明日こそはと思うのが日課になってしまったら困る。

「気合い入ってんな」

ぼんやりと手の甲の文字を眺めていれば笑みを浮かべた大地に早速突っ込まれた。朝練の度にまた忘れた!と報告していた所為で彼もまた気にしているのかもしれない。

「おいそこのバレー部!ホームルーム中だぞ」

大地に笑いを返し二言程会話を交わしたところで担任から怒号が飛んでくる。大地と揃って緩い返事を返し、俺は神社で彼女に会ったとき何を言おうかと考えを巡らせた。


部活終わり、とっぷりと日が暮れた道を駆ける。汗や水ですっかり滲んでしまった神社の文字は、それでも役目を果たしてくれた。

辿り着いた先で見上げた鳥居に、あの頃の面影はない。きっとそれは周りが暗いからだけではなくて、神社が廃れてしまったからなのだと突き付けられたような気がした。

「寒っ……」

鳥居をくぐり階段を上がろうと足を踏み出したところで、背筋がぞくりとするような嫌な風が吹く。学校から走って来て火照った身体を一瞬で冷ますようなそれに思わず口元が引き攣る。

普段は神聖である筈のこの場所に、邪気が溢れているような気さえした。

「君、迷子?」

不意に掛けられた声に息が詰まる。それは俺が探している人物の声ではない、少し高めの男性のものだ。痛い程に脈打つ心臓を落ち着かせながら恐る恐る見上げた先に立っていたのは、俺と同じ位の歳の男子だった。

足の有無を確認してほっと胸を撫で下ろすと同時にもう一度同じことを問われる。首を横に振り否定を示し、階段を駆け上がった。

「人を探してるんだ」

「名前は?」

「名字名前、だと、思う」

先程まではここに彼女がいるだろうと信じて疑わなかったが、パッと見た限り人が住めるような状態ではない荒れ果てた境内に今更ながらに羞恥心が生まれる。

「へえ、君が」

「え?」

けれど返ってきたのは思いもよらない言葉だった。思わず短い問いを漏らせば怖いくらいに整った笑みを向けられる。

「名前ちゃん、もっと奥にいるからさ。案内するよ」

有無を言わせず踵を返すその背を慌てて追う。久し振りに彼女に会えると図らずも浮き足立った俺には、彼が纏う空気が鋭くなったことに気付くことが出来なかった。

「本当に奥なんだなー」

本殿すら通り越し獣道を幾らか進んだところで、ひたすらに前を向く彼に声を掛ける。灯りの一つもない真っ暗な道を無言で歩き続けるのは些か辛いものがあったからだ。

「うん、猫に見つかると面倒だからね。ちょっと遠回り」

猫に見つかるとは一体どういうことだろうか。アレルギーか何かかと問おうとして紡ぎかけた言葉は、彼の舌打ちによって掻き消された。

それから刹那の間を置いてがさりと大袈裟に音を立てる木々に肩が跳ねる。後ずさろうにも身体が金縛りにあったように動かない。

ただ瞳だけが身体から隔離されたように動いた。目の前に立つ彼の視線の先、辺りの黒を裂く真白。じっと目を凝らし、それが着物であると理解するのに然程時間は掛からなかった。次いで視界に映った狐の面に、身体の力が抜ける。

白い着物に狐の面、初めて見る出で立ちの筈なのに酷く安堵を覚えた。きっと彼女であると、そう直感した。

「及川。その人の子を何処へ連れ行くつもりだ?」

静かな、本当に静かな問い。それでも目の前の男──及川が息を呑むのが分かった。

「お前に男を喰う趣味があったとはなあ。天狗は生娘だけを狙うもんだと思ってた」

及川が彼女の問いに答えない為に生まれた沈黙を破ったのは、初めて耳にする低い声。彼女の後ろから姿を現した声の主は闇に溶けるような黒色をしていた。

「男なんか喰う訳ないでしょ。縁起でもないこと言わないでよ」

「ふーん。それで?何に見つかると厄介だって?」

身震いした及川を射竦めるような鋭い眼光は、闇の中獲物を狙う猫そのもので。きっと彼らは人ではないのだと、鈍く痛み始める頭でぼんやりと思う。

──恐らく、彼女もそうだ。

「絶対、名前ちゃんを呼びに行くだろうと思ってこそこそしてたんだよ」

またあの身体の芯を凍らせるような嫌な風が吹く。風に煽られて舞った木の葉が俺の頬を掠める。ピリッとした痛みに手を伸ばせばぬるりとした感触と鼻腔を掠める鉄の臭い。

裂けたのだ。たかが木の葉が触れた程度で。

黒色の男は及川を"天狗"だと言った。きっと彼は風を、自然を操れるのだろう。普段ならば笑い飛ばすような非現実的な事も、衝撃的な事実を突き付けられるとすんなりと受け入れてしまう。ガンガンと頭の中で鳴り続ける警鐘に従える程の力はもうない。立っているのがやっとだった。

「黒尾」

狐の面の下で彼女が言葉を紡ぐ。それが俺の耳に届く頃には既に浮遊感に襲われていた。思わず瞼を閉じた刹那の間に再び足の裏に地面の感覚が戻る。

次いで開いた瞳で捉えたのは表情を歪めた及川の姿だった。真後ろには黒、隣には白。パニックに陥った頭では状況を理解することなど出来なかった。眩暈すら覚えるような錯乱状態の中で、必死で巡らせた思考が導き出したのは真後ろでにたりと笑う男の名が黒尾であり、俺はその腕によってここに移動させられたのだろうということ。微かに残る浮遊感と腹回りの圧迫感がそれを肯定していた。

「だって、その子見える子でしょ?名前ちゃんが少しでも力のある人間を喰らえばもっと長く、」

「及川」

悲痛に満ちた彼の言葉は、その名を呼ぶ彼女の声によって遮られる。及川は再び泣きそうな程に表情を歪め、風と共に姿を消した。

「人の子よ」

ぼうっと彼がいた場所を眺めていれば、隣から柔らかな声が掛かる。無機質な面からは彼女がどんな顔をしているのか知ることは出来ない。

「妖にとって人は恰好の獲物だ。若い者なら尚の事。日が落ちたら、此処には近寄るな」

緊張や恐怖、混乱から渇ききった喉からは掠れた声すらも出なかった。何を言うべきなのかすら分からない。ただ彼女が口にした"妖"という単語と、及川の姿だけが脳内を占めていた。



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