拭えないから、泣かないで
さようなら、と彼女の唇は確かにそう紡いだ。彼女から放たれる言葉はいつも、俺の日常からはかけ離れすぎていたけれど、それは今までで1番頭が追いつかないものだった。
「どう、して……」
やっと、こうやって話すことが出来たのに。何で、どうして、と疑問符だけが脳内を占める。
だって、まだ俺は、名前の事を何一つ知らない。空白の十余年、君が何をしてきたのか。どうして再び俺の前に現れてくれたのか。これから、君がどう生きていくのか。
大事な事は何一つ、知らないんだ。
「本当は、何も言わずに去るつもりだったんだ。けれど、お前に名を呼ばれて足を止めてしまった」
そう言って名前は酷く穏やかな笑みを浮かべて、続ける。
「社の取り壊しまで余り時間がなくてな。先にも言ったが、挨拶回りも終わっていないんだ」
だから、もうここには来れないと彼女は柔らかい声で紡ぐ。瞳も声も口元も穏やかで優しげな色を灯して。
「笑えねえよ」
やっとのことで絞り出した声は、情けなく震えていた。彼女の口にする別れの言葉は、もう2度と会えないという重さを孕んでいる。ならば、俺が会いに行けばいいとかそういう可能性さえも微塵も感じさせないような。
なのに、どうして、そんな風に笑えるんだ。
「そんな一言で納得出来るわけないだろ!?やっと、会えたのに!」
真っ直ぐに絡み合った視線は、冷たい感情を宿していた。ピクリと眉尻を上げて、それからほんの間を空けて怪訝に顰められる。
「何故そんなにも、ただ一人の女狐如きに熱くなるのか。理解に苦しむ」
「そんなの決まってるだろ!好きだからだよ!出逢った時からずっと!!」
刹那、俺は言葉を失った。彼女の表情はとても悲しそうに──それこそ今にも泣いてしまいそうなくらい歪められている。
けれどそれも瞬きをしていたら見逃していただろう程に一瞬のことで。再びかち合った瞳には、何の感情も宿っていなかった。
「"狐につままれる"という言葉を知っているか?」
彼女はゆっくりと立ち上がってそう口を開く。余りにも脈略のないそれに、思わず困惑の声が漏れた。
「私の周りにいるお前のクラスメイト達が正にそれだ。所詮は狐に化かされているだけのこと。お前のその感情も偽物だよ」
「違う……!だって俺は思い出した!昔のこと、その時確かに抱いていた気持ちを!」
「──ならば、また忘れればいい」
ピシリと空気が張り詰めるような感覚に、立ち上がろうと踏ん張った足から力が抜けて膝をつく。痛みに顔を歪めながら見上げた彼女は、いつか見た白い着物に身を包んでいた。
ただ違うのは、周りが明るくて、彼女は面をつけていないということ。故に、その姿がよく見える。
その背には太い尾が伸び、爪も牙も鋭い。真っ直ぐに俺を見下ろすその瞳に宿っているのは殺意だ。あの日見た及川のそれと酷似している。ぞくりとした悪寒が背筋を凍らす。俺はやはり金縛りにでもあったように身体の自由が利かなかった。
初めて見る彼女の本当の姿は、酷く恐ろしい。ただ目が合っているだけなのに、心臓が握り潰されるような心地だった。
それでも禍々しいというより、神々しいという言葉が似合うのは、一つの神社を護ってきたからなのだろうか。
「所詮人と妖は相容れぬもの。そのような感情を抱く筈がないのだ」
実に淡々とした声色だ。何の感情も宿さないような。けれど、その中に確かに、微かな悲しみが滲んでいるような気がした。
「神社が取り壊されたら、どうするのかと問うたな」
殺気を鎮めた瞳に、俺は首だけを動かして肯定を示す。彼女は目を薄めてゆっくりとその唇を動かした。
「消えるんだ。存在ごと、跡形もなく」
言って、彼女は俺との距離を一歩縮める。白い袖を揺らして、そこから伸びる細い指が俺の頬に触れる。俺はその指を絡めとることも出来ず、ただ彼女の言葉を理解しようと必死だった。
「誰の記憶にも、遺らない」
忘れるならば、早い方がいいだろう?と続けられた問いが耳に届くのとほぼ同時に、ガラスが砕けるような音が辺りに響く。劈くようなその音の先に、黒。
それは、あの日俺を及川の凶刃から救ってくれた男、黒尾だった。彼はその瞳に静かな怒りを湛えている。彼の視線の先には表情を歪めた名前の姿があった。
「神社以外で、お狐様にお戻りになられて、オマケにこんな大層な結界まで張られて、一体何考えているんですかねえ?」
俺に向けられた言葉ではないのに、喉元に刀の鋒を突き付けられたような得も言われぬ恐怖心に支配される感覚。彼の一言は、それだけで人を殺してしまえそうな鋭さを持っていた。
「高が一人の人間の為に、神力使って。死に急いでんじゃねえよ」
ふらりと、目の前の白が揺れる。俺が指先ひとつ動かす間も無く、黒尾が気を失ったらしい彼女を受け止めていた。
「忘れた方が楽だと思うぜ、お前も、コイツも」
表情のない瞳に射抜かれて、喉が鳴る。気付けば手が微かに震えていた。逃げてしまいたい気持ちでいっぱいなのに、視線を逸らすことさえ許されないような威圧感を彼は纏っている。
「怖ぇんだろ?逃げちまえばいい。コイツのことも、俺たちのことも忘れて。そうすりゃ全部モトドオリ、だろ?」
厭らしい笑みを浮かべる黒尾の言葉は正しいのかもしれない。今までそうして忘れてきたんだろう。あの日、日向に促されて思い出すまでは。だから、今回だってきっと──。
胸の中に微かに残る違和感までも、目の前の男に溶かされてしまいそうだ。彼の言う通り、全部が元に戻るだけ。
「お前のクラスメイト達はもう、コイツのことを綺麗さっぱり忘れてる。名前が消えたところで、お前らの世界は変わらないんですよ」
頭がガンガンと痛む。思考回路なんてとうに焼き切れてしまっているのだ。黒尾の言葉に頷きさえすれば、頭痛からも息苦しさからも解放される。
「ち……がう、」
けれど、口からでたのは否定の言葉だった。僅かに訊けた彼女のこと。神社と共に彼女は消えてしまう。それなのに、元通りになんてなるはずがない。
「例え苦しくても、俺はもう、忘れたくないんだ」
次の瞬間、この場を満たしていた息の詰まるような圧迫感が消える。黒尾の瞳は柔和な色に変わり、それでいてどこか試すような挑戦的なものになっていた。
「3日後、その気持ちが変わってなかったら神社に来い」
それだけを言い残して、黒尾の影は跡形もなく消え去る。止まってしまっていた時間が、動き出したような気がした。