それぞれの選択


名前と二人で昼ご飯を食べたあと、宣言通りにバナナジュースを奢らされ、担任の先生に呼ばれた彼女を見送って教室へ戻る。
まだ昼休みが終わるまで10分くらい残っていた。席についてぼうっと黒板を眺めながら、考えるのは名前のこと。

彼女が宮城に戻ってきてから、俺は弱いところばかりを晒し続けている。
高い高い壁に阻まれて心がぽっきりと折れてから正直名前に会うのが怖かった。

彼女がもうバレーボールが出来ないかもしれないと聞いた時、俺は目の前が真っ暗になったのを今でも覚えている。ただの幼馴染の俺ですらそうだったのに、彼女が突き落とされた絶望はどれだけ深かったか想像することも出来ない。

なのに、俺は、いつまでもいじいじして、名前の優しさにひたすらに甘えている。

もしかしたら引っぱたかれるんじゃないかと思っていた。いや、そうであって欲しかった。
彼女が再びこっちに戻ってきた時、名前の流す涙と会いたかったと零した言葉に、その時になってやっと彼女がどれだけのことを飲み込んで戻ってきてくれたのかを悟った。

一年もの間、俺が戻ってきなよと声を掛けても、名医として名高いご両親に誘われても、名前は頑として首を縦に振ることはなかった。
俺には彼女の気持ちを想像することしかできないけれど、きっと怖かったんじゃないかと思う。名前にとって親御さんは言葉通りの最後の希望だから。彼らにもどうすることも出来なければ、名前は本当の意味でバレーボールを諦めなくてはならなくなる。

分かっていたのに、そう理解していたはずなのに、俺は彼女に縋ってしまった。
自分ではコントロール出来ない激情と絶望感の中、その感情のままに名前に掛けた電話越しに全てを吐き出したのだ。

最低だったと今なら分かる。どれだけ辛くても苦しくても彼女にだけは言ってはならなかった。
楽しくないからバレーは辞める、と。そう、と一言だけ言葉を返した名前に漸く我に返っても遅い。吐き捨てた言葉は元には決して戻らないのだから。

次の一言が紡げずに歯切れ悪く唸る俺に、名前は何も言わずに一方的に電話を切る。込み上げてくる自分自身への嫌悪感と後悔に、名前への罪悪感に押しつぶされてしまいそうだった。

だから、彼女が瞠目する俺の目の前で机に両手を叩きつけた時、その勢いのままぶん殴られると思ったのに。そしたら、少しは許されるんじゃないかとか自分勝手に思ったりしたのに。

名前は決して逃がしてはくれなかった。

ぶさけるなと一言言ってくれたなら、俺はまた人の所為にしてバレーから目を背けていただろう。辞めるって言っておきながら退部もせずに宙ぶらりんな俺を見ても、いつまでも煮えきらずに答えを出せずにいる俺に、ゆっくり考えたらいいよと言う彼女が一体どんな気持ちでいるのか、考えなくても分かるのに。

名前が誰の為に宮城に戻ってきてくれたのか、分かっているのに。

答えの出せない自分自身にどうしようもなく嫌気がさす。
本当は俺が名前を支えてやりたいのに。どうしても彼女の優しさに甘えてしまう。

「東峰ー!お前に客!」

クラスメイトの声に現実に引き戻された俺は、教室の入口に立つ二人の姿に苦笑いを浮かべた。名前の言った通りになったな、と。

「何で一緒に練習もした事ない俺が気になるの?
今の面子であの青葉城西に勝ったんだろ?西谷もなしで」

「あっ、アサヒさんが戻ってこないと2、3年生が元気無いから!!ですっ」

オレンジ色の髪の毛の男の子から放たれる廊下に響き渡るような大声に、思わず面白いなと笑う。

「けど……悪いな。俺は高いブロック目の前にしてそれを打ち抜くイメージみたいなのが、全然見えなくなっちゃったんだよ……。
必ずシャットアウトされるか、それにビビって自滅する自分が過るんだ」

俺の言葉に、1年のチビにこんなこと言われたら生意気って思うかもしれないけれど、とオレンジ色に前置かれたのでそんなこと思わないよと答えて先を促す。

「おれ、それわかります。
おれ背が低くて技術も無いからブロックに捕まってばっかで、でも今は影山のトスがあるからどんな高いブロックも躱せます。
ブロックが目の前から居なくなって──ネットの"向こう側"がぱあっと見えるんです」

身振り手振りを交えて話す彼に、その景色ちょっと分かるなんて思った。

「一番高いトコでボールが手に当たって、ボールの"重さ"がこう……こう手にズシッとくるあの感じ──大好きです!」

──ああ、それも知ってる。
よく、知ってる。

自らの右手に視線を落とすと、あの頃の感覚が手のひらにじわりと広がった気がした。

「おれアサヒさん羨ましいです。
今のおれには一人でブロックをブチ抜くタッパもパワーも無いけど、アサヒさんにはそれがある。今までたくさんブロックされてきたのかもしれないけど、それよりもっといっぱいのスパイク決めてきたんですよね?
だから皆──アサヒさんを"エース"って呼ぶんだ」

昨日彼が言っていたエースになりたいと言う言葉を思い出す。
タイミングよくチャイムが鳴ったので教室に戻ろうと踵を返すと、もう一人の1年生から呼び止められた。

「一人で勝てないの当たり前です。コートには6人居るんだから。
……俺もソレわかったのついこの間なんで、偉そうに言えないっすけど」

それだけ言って走り出す彼らの背中を見送って、教室へ入る。握りしめた右手がほんのりと熱を帯びたような気がした。



放課後。下駄箱へと向かうために廊下を歩いていると体育館への連絡通路の先からもうボールの音が響いている。
その音に釣られるようにして、気付けば体育館へと歩を進めていた。

そこには先程の1年生コンビが速攻の練習を行っている姿があった。オレンジ色の凄いバネと、目付きの悪い方の完璧なタイミングのトス。
思わず魅入ってしまう。そして脳裏に浮かぶ、西谷の声。

──俺全部拾って繋ぎます!だからそのボール、ガッツリスパイク決めてくださいね!
旭さん!!

グッと力を込めて瞼を閉じれば、張り付いたあの日の試合の映像が流れ込んできた。

ドドン、というボールと腕がぶつかる音と共に渾身の力で放ったスパイクは俺の足元へと吸い込まれていく。

またブロック……もう何本目かもわかんねえ……。
西谷がこんなに拾ってんのに俺は全然決めらんねえ。
苦しい時にボールが回ってくるのがエース。それを決めるのがエース。何度もトスを呼んだ。
"俺に持って来い""俺が決めてやる"

でもそのうち──トスを呼ぶのが、怖くなった。

「よっしゃ!!対音駒戦も速攻決めるぞォーッ」

そんな走馬灯のような記憶を掻き消したのは、オレンジ色が叫んだ一言だった。

音駒?あの音駒と、試合──?

「ゴールデンウィーク最終日に練習試合なんだ」

突如掛けられた声に、身体がビクリと跳ねる。思わずゲッと息を漏らしていそいそと引き返そうとすると声の主である大地に逃げるな、と叫ばれる。

だってお前怒ると怖いんだもん!、今別に怒ってないだろ!という言い合いの中で、大地の背の後ろから名前がけらけらと笑うもんだから、余計にいたたまれなくて、でも帰ることも出来なくてもう俯くことしか出来ない。

「……聞いたろ?あの音駒が来るんだ」

俺達からすれば、音駒の事は昔話みたいに聞いてたし、今の代の烏野と音駒に何か因縁があるワケじゃない。でも、よく話に聞いてたあの"ネコ"と今俺達が数年ぶりの再戦ってなるとちょっとテンション上がるよな。

そう続いた大地の言葉に、俺はただひたすらに自分の爪先を見つめ続ける。

「…………けど俺は、スガにも西谷にも合わせる顔がない」

ホントのことを言えば名前にだってそんなもんはなかったんだけど。そんなことを思っていれば、大地に肩を叩かれる。

「まったくお前は、デカイ図体して相変わらずへなちょこだな!西谷と対極にも程がある!」

「も少し言葉をオブラートに包めよ……」

大地に小さく抗議の声を上げれば、相変わらずころころと笑っている名前が先に行ってるね、と大地に告げて、俺の肩に同じように手を置いた後に体育館へと掛けて行く。その心遣いが、有難くも申し訳なかった。

「……ひと月もサボった事とか、なんか色々気まずいとか来辛いとか、関係ないからな。
まだバレーが好きかもしれないなら、戻ってくる理由は充分だ」

エースに夢抱いてる奴も居るんだからな、と最後に腕へのパンチと共に大地も体育館へと入っていく。

彼の言葉を反芻しながら、確かに熱の宿った右手をもう一度強く握りしめた。



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