目に染みた煙


「今日はもう遅いし、泊まっていったら?」

両親と繋ちゃんと4人で食卓を囲んだ後、お母さんがそう口を開いた。繋ちゃんは少し考える素振りを見せたけど、それに頷く。

彼がこの家に泊まるのは割と珍しいことでもない。私が中学生の頃はよく遅くまでバレーの試合の録画を見ながら、あーでもないこーでもないと言い合ったものだ。
初めのうちはリビングで語り合っていたけれど、熱くなることも多く煩いと怒られるようになったので、それからは私の部屋で行われるようになった。

高校に上がってからこういうことはなかったから、久し振りにわくわくする。繋ちゃんと顔を合わせてゆっくり話をするのも中学の時以来だ。

お父さんが持ってきてくれた簡易的な車椅子に乗り、お風呂に向かう。施術のお陰で支えがなくても歩けるようにはなったけど、無理はするなと言われたのだ。

手早く入浴を済ませ、エレベーターで3階まで上がって部屋に戻る。繋ちゃんがお風呂を出てここに来るまでに今日2人で観るバレーの録画を決めよう。
こんなことなら、今日の試合のビデオを持って帰ってくれば良かった。明日の朝練の前に大地と見返す約束をしたからそのまま置いてきてしまったのだ。

取り敢えず男子バレーの雰囲気ももっと確認しておきたいし、去年の春高の録画にしようとそれをセットする。繋ちゃんが来るまで少し観ていようかな、と再生ボタンを押す。表示されたトーナメント表には、私が高校男子バレーで烏野を除いて唯一名前を覚えている学校の名があった。

"白鳥沢学園高校"

全国3大エース牛島若利擁する、宮城で名高い強豪校。そしてその牛島は、私に向かって「お前は運のない奴だ」と言い放った男である。
まだ怪我する前だったし、言われてる意味が分からなくて聞き返そうとしたけど、奴は言うだけ言ってそそくさとその場を離れてしまった。
思い出したら胃の辺りがムカムカしてくる。
一人悶々と唸っていると、お風呂から上がった繋ちゃんが部屋に入ってきた。

「何一人で百面相してんだ?」

呆れたように笑う繋ちゃんに何でもない、と返し、一時停止されていた録画を再生する。
頭を軽く振って雑念を払う。煙草を燻らせながら画面を見つめる繋ちゃんと時折軽く会話を交わしつつ、試合に集中する。

「なあ」

そんな彼が少し声色を落としてこちらに視線を投げかけてきたのは、二試合程観戦を終えた時だった。
何となく真剣な表情に見えて、一時停止ボタンを押して繋ちゃんに向き直る。

「お前の足の具合のいい時だけでいいから、町内会チームにバレーやりにこねえか?」

「え……?」

繋ちゃんが高校卒業後に同級生達と町内にバレーチームを作ったのは勿論知ってる。中学の頃は何度も混ぜてもらっていたから。

バレーをもう一度やりたいという気持ちが胸の中で大きくなっている今、願ってもない申し出ではある。正直めちゃくちゃ嬉しい。だけど。

「調子が良くても、1セットコートに立ち続けるのは難しいと思う」

3セットマッチなんて夢のまた夢だ。
ほぼ私が動かなくてもいいようにサーブを打ってくれていた及川の球を受けただけでこのザマである。

「リベロだからコートを出入り出来るとしても、いつ使い物にならなくなるか分からない人間をチームに入れてても足手纏いにしかならないよ」

「そんな硬く考えなくていい。名前がこっちに帰ってきた時に、皆と話し合ったんだ。お前がまだバレーやりたいって思ってるんなら、力になれねえかなって」

「でもっ」

「お前はただ、やりてえかどうかだけ考えりゃいい」

私の言葉を遮るように繋ちゃんが続ける。そりゃあ、やりたいか否かだったら考えるまでもなく答えは決まっている。だけど、そんな簡単に頷いていいの?迷惑掛けるって分かりきってるのに?

「ちなみに、親父さんには俺が責任持つならって許可貰ってんぞ」

「よ、用意がいいね……」

きちんと後ろ盾まで得てるとは、ちゃっかりしてるというか、何というか。
もう断る理由がなくなってしまった。

「ほんとに、ほんとにいいの?練習のリズム乱して足引っ張っちゃうかもしれないよ?」

「ごちゃごちゃ考えんなって言ってんだろ。ガキはガキらしく、大人に甘えてりゃいいんだよ」

かち合った瞳が、これ以上ないくらい優しい色をしているから。ちょっと泣きそうになりながら、小さく頷く。

「よろしくおねがいします」

「おう」

そのままわしゃわしゃと髪を乱されて、熱くなった目頭をその勢いを借りてそっと閉じた。




翌日。私のベッドの下に布団を敷いて寝ていた繋ちゃんの目覚ましの音で目を覚ます。
寝ぼけ眼で携帯の時計を確認すると、ちょうど4時30分。

「悪い、目覚まし切っとくの忘れた」

「いつもこんなに早いの?」

「いや、水曜だけ」

そう口を開く繋ちゃんの話を詳しく聞けば、水曜日だけ早朝から家でやっている畑の手伝いをしているらしい。

「え、じゃあもう行く?朝早いのに昨日迎えに来てもらってごめんね」

「昨日のうちに母ちゃんに連絡入れてあっから、心配すんな。
まあ、目は覚めちまったからもう起きるけどな」

彼は慌てて立ち上がろうとした私をやんわりと静止して、布団を片付け始める。それをクローゼットの中に仕舞い終えて、大きく身体を伸ばしている繋ちゃんが口を開く。

「学校まで送ってくから」

「え、いいの?」

「お袋さんもその方が安心だろ」

煙草に火をつけながら彼は笑う。その心遣いを有り難く受け取ることにして、早速支度を始める。

「今日早めに体育館行こうと思って鍵預かってきたんだ」

大地も早めに来るだろうし。これから準備して向かってネットでも張っておこう。
繋ちゃんと共に下に降りて、適当に食パンを焼いて二人で食べる。5時過ぎに起きてきたお母さんに行ってきますと告げて学校へ向かう。

校門まで送ってくれるものだと思っていたのだが、裏口から入って職員用の駐車場に車を停めて体育館まで送ってくれるらしい。

「勝手に停めて大丈夫なの?」

「たまに購買に菓子パンとか卸してるから大丈夫だろ」

繋ちゃんはそれだけ言うとスクールバックを私から掬い取って歩き出す。もう普通に歩けるから大丈夫だと言っても、頑として譲ってくれなかった。

「昔と同じだな」

体育館に着き、鍵を開けて中に入った繋ちゃんは天井を見上げながらしみじみと呟く。当たり前か、と自己完結してそのまま足を踏み入れる。

「バレー部の連中は何時ぐらいに来んだ?」

「うーん、早くて6時くらいかな?」

今の時刻は5時18分。時計を確認した繋ちゃんは倉庫に足を向ける。

「20分だけ球出ししてやる」

そのまま倉庫からボール籠を引っ張り出してきてそう口を開く。突然のことで少し驚いたけど、せっかくの申し出だ。家を出るときにテーピングは済ませてあるし、なんならどうせ着替えるからとジャージで来ている。

左足の感覚を確認して、繋ちゃんから適度な距離を取った。軽いレシーブ練習みたいなものだ。彼が打ったボールを返す、それだけ。
それだけでも、ボールに触れられることに胸が高鳴った。

「昨日の今日だから無理はぜってえすんなよ」

「もち!」

念入りにストレッチを済ませて身体があったまってきたところで、繋ちゃんからゆっくりとしたテンポでボールが放たれる。それからの20分間、体感にしてみればあっという間に過ぎてしまったけれど、左足に違和感を感じることもなくとても楽しい時間だった。

繋ちゃんにたくさんお礼を言って、彼を送り出す。
それからボール籠を倉庫に戻して代わりにネットを準備する。まあ一人では頑張っても張れないから出来るところまでやるって感じだけど。

「名字!?」

女子用のよりも高いそれに四苦八苦していると、体育館に大地の声が響く。呑気に手を振って応えていれば、彼はズンズンと凄い勢いでこっちに迫ってくる。

「足はもう大丈夫なのか?」

「大丈夫!心配かけてごめんね。昨日はありがとう」

左足を軽く振って見せれば、大地は安心したように短く息を吐いた。

「なら良かったよ。
名字には少し高いだろ、ちょっと待ってて」

私が手こずっていたネットを見つめてそう言うと、大地は倉庫に駆けて行く。暫くして小さな踏み台を持ってきてくれた。

「よし!皆が来る前にさっさとネット張って、昨日の反省会だ」

大地の気合の入った声に私もつられて、おー!と拳を突き上げる。どちらからともなく笑い合って、支柱に括った紐を引っ張った。



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