昼休みの開始を告げるチャイムと共に、微睡んでいた意識が浮上する。保健室のベッドよりも些か寝心地は悪いものの、ぽかぽかと暖かい春の日差しが好きでこの頃は専ら屋上で授業をサボっていた。

それができるのも夏が来てしまうまでの僅かな間だけ。残された時間を楽しもうと、名前はもう一度眠りにつくことにした。

「やっぱりここにいたー!」

馬鹿でかい声に眠りの世界へと誘われつつあった意識を強制的に引き戻される。忌々しく瞼を上げればムカつく程整った顔が眼前にあった。

初めは柄にもなく頬を赤らめたりもしていた彼女であったが、もうこうして起こされることにも慣れ、いつも通りその整った顔面に頭突きをお見舞いする。

「痛っ!?」

「今日、彼女は?」

鼻をおさえて蹲る彼を感情のない瞳で睨みつけながら、久し振りに言葉を交わす彼にそう問う。確か少し前にまた新しい彼女が出来て、ここ数日くらいは一度も現れなかったはずである。

「あー、フラれた。昨日」

「またかよ。懲りないねー」

へらへらと笑って答える及川の言葉に微かに喜んだ己の心を戒める為、名前は小さく舌打ちを零す。

彼女は入学式で彼を見たその日、一目惚れの如く恋に落ちた。それでも告白する勇気などなく、結局"悪友"的なポジションに落ち着いてしまったのである。

「それにしてもさ、名前ちゃん最近また派手になったよね」

思い出したような及川の呟きに、彼女はぐっと言葉を詰まらせた。入学当初の名前は地味とまではいかないものの、目立つ方ではなかったのだ。しかし、3年になった今彼女は生徒指導が時たま入る程度には落ち着きがない。

何故そうなったかといえば、目の前にいる男が彼女にする子にはそういった傾向が多いからで。

──アンタに釣り合う為に頑張ったなんて、カッコ悪くて言えなかった。

「うるさいチャラ川。ほっといて」

「チャラ川って何!?」

ぎゃーぎゃーと喚く及川にガン無視を決め込み、名前は立ち上がって制服についた砂を払う。それから枕にしていたジャージを敷き直し、その上に腰掛ける。膝の上でお弁当を広げる頃には隣の騒音も収まっていた。

「今何考えてるの?」

「んー、ピアス開けようかなって」

黙々と食べ進める彼女の右側に腰を下ろした及川が口を開く。それに一瞥をくれることもなく名前が答えた。

「辞めときなよ。痛いし、またセンセーに目つけられるよ?」

驚きに満ちた顔で制する彼に対し、名前は気の無い生返事を口にする。牛乳パンを頬張りながら尚も説得する及川の言葉は、彼女にはあまり響いていないようだった。

「でもさー、結婚式にイヤリングってダサくない?」

「え!?名前ちゃん結婚すんの!?!?」

思わず牛乳パンを吹き出した彼に軽蔑の眼差しを送り距離を取りつつ、名前は無表情でいやしないけど、と言い放つ。あからさまに安心したという単語を並べ立てながら及川は開いた距離を無遠慮に埋めた。

「でも、そうだよね。結婚なんてするはずないよね。名前ちゃん人を好きにならないんだもん」

うんうんと一人納得しながら頷く彼にいつもなら緩い肯定を示す名前が、今日は異なった言葉を紡ぐ。及川が彼女と別れたという事実が、彼女にそう言わせたのかもしれなかった。

「いるよ、好きな人」

相も変わらず何の感情も宿っていない声を及川は思わずそうだよねーと流してしまいかける。彼女が投下した爆弾発言を理解した彼は短く困惑の声を漏らした。

「え、誰?」

ぞくり、と背中に悪寒が走った為に視線を投げる。交わった及川の瞳に名前は恐怖すら感じた。いつものように貼り付けられた笑顔もそこにはなく、ただならぬ雰囲気を醸し出している。

「お、いかわには、関係ないでしょ」

名前が辛うじて呟いた言葉に彼が纏う怒気が膨らむ。鋭い視線に縫い付けられたように彼女は身動きすらとれずにいた。

「関係ある。誰?俺の知ってる人?」

ずい、と目前に迫った両の目に射抜かれ名前は反射的に頷く。何とか逸らすことが叶った視線の下で持っていた箸が落ちた。

初めて見た及川の姿に指先が震える。カランとプラスチック製の箸が奏でた安っぽい音に彼は吹っ飛びかけていた理性を取り戻した。怖がらせてしまったと自らを戒め、張り詰めていた空気を緩ませる。

短い謝罪に返ってきたのは酷く安堵した表情で。及川は威圧しないように努めながらも、逃す気などさらさらないと彼女の冷え切った掌を握った。

「んー、俺の知ってる人かー。岩ちゃん?」

思いもよらない問いに考えるよりも早く、名前は首を横に振る。次々と挙げられる名前に彼女は冷や汗を流した。

もしかしてこれ、当たるまで続くのか?と。

「でもやっぱバレー部でしょ?国見ちゃんとか?」

首を振る度に、握られた手が軋む。痛みに顔を歪めながらこれが喉元にあったらとっくに絞め殺されているな、などと縁起でもないことを思う。

「まさか、飛雄!?」

「いや、誰だよ」

聞いたこともない名前に思わず突っ込めば、手を握る力が少しだけ弱まる。決して離されないそれは、漸く心地の良い程度の圧力に落ち着いた。

「大体さ、息を吐くみたいに彼女が出来る及川サンが、何で一女子生徒の恋愛事情なんて気にすんのよ」

それは、淡い期待を打ち消すための自嘲にも似た呟き。及川はその問いに二、三度瞬きをしてから勢いよく立ち上がる。

「名前ちゃんが好きだからだけど!?」

雄叫びにも似たそれに今度は彼女が瞬きをする番だった。

「は、はあ!?コロッコロ彼女変わる癖によく言うわ!どの口が言ってんだ!」

「違うし!ヤキモチでも妬いてくれるかなって思っただけだし!!」

「その割に会うの久し振りですけどね!?」

それは岩ちゃんが云々と続き、二人で暫くそういった言い合いをして、どちらからともなく腹を抱えて笑う。馬鹿みたいだと、目尻に涙を浮かべながら名前は思った。

「冗談じゃないから。本気だから俺」

真剣な彼の表情に名前の右手が触れられてもいないのにじくりと痛む。身を持って思い知りましたと彼女は苦笑いを零す。

想いを燻らせていた長い時間を返してくれ。そんな思いを乗せて、及川にデコピンを一発お見舞いする。

「私、意外と嫉妬深いから行動には気を付けてね?」

先程のお返しにと精一杯の威圧感を込めて微笑む。色を抜いて傷んでしまった髪にも、もう少し優しくできそうだと名前は言葉を詰まらせる及川をもう一度だけ小突いた。

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