どくどくと心臓が煩い。まるで耳元で鳴っているみたいだ。手元の携帯と睨めっこをしながら、心音を気にしないように努める。それが指し示す現在の時間は18時52分。約束の7時まで、もう10分を切っている。

どうしよう、どうしよう。浴衣変じゃないかな。着方間違ってないかな。髪の毛崩れてないかな。好きな色だろうか。というか、付き合ってもいないのに浴衣なんて張り切りすぎだって笑われないかな。

あ、やばい、お腹痛くなってきた。

考えれば考えるほどよくない考えばかりが浮かんでくる。どうしても直接言えなくて、文字で誘った夏祭り。部活で忙しいなら無理しなくて大丈夫だよ、と続ける前に付いた既読と、「練習終わってからでもいいなら」の返信。

まさかオッケーしてもらえるとは思わなくて、嬉しさのあまり馬鹿の一つ覚えみたいに"!"を連打した文を送ったことは記憶に新しい。その勢いで着方も分からないのに浴衣まで買ってしまったのだ。我ながら単純だと乾いた笑いが溢れる。

──ピロリン

一人携帯を握り締めながら百面相を繰り広げていれば、手の中で軽快な音楽が鳴った。

『黒尾鉄朗がスタンプを送信しました』

送信者は待ち合わせしているその人だが、なにゆえにスタンプ??と疑問符を浮かべながらトーク画面を開く。着いたのなら着いたと連絡してくるものだと思っていたからだ。

「目……?」

送られてきたスタンプは、大きくデフォルメされた可愛らしい目玉が二つ。意味がわからなくて首を捻れば、続けてもう一度携帯が震えた。

「や、矢印?」

送られてきたスタンプは、上を向いた矢印の簡潔なもの。待って、益々意味が分からない。

目と上矢印。取り敢えず携帯に注いでいた視線を上へと上げてみた。

「うひゃあ!?」

眼前に広がる人の顔に思わず変な声が出る。目の前で笑い転げる人物が黒尾くんであると認識するのに少しばかりの時間を要した。

「ちょっと笑いすぎだよ黒尾くん!」

「流石に今のは笑うだろ」

未だににやにやと口元を歪めながら、黒尾くんが口を開く。恥ずかしさから顔が熱くなるのを感じたけれど、久し振りに会うことに緊張していた私には有難い出だしだった。

もう学校は夏休みに入っているし、どの部活にも所属してない私には、バレー部の主将で毎日学校にいる彼とは会う機会が全くないのだ。

漸く冷静になった頭で改めて黒尾くんを見やる。部活の後にシャワーでも浴びたのだろうか見慣れている髪型は崩れ少ししっとりとしていた。というか私服初めて見たかも。

「それにしても、今日は随分と大人っぽい格好してるんですね」

そんなことを考えながら黒尾くんを眺めていれば、急に笑いを引っ込めた彼と目が合う。気恥ずかしいような、恐ろしいような感覚に襲われて思わず俯いた。

「へ、変……かな」

「いや、似合ってる」

いつものおちゃらけた感じじゃない、真っ直ぐな言葉に心臓が跳ねる。顔は余計に上げられなくなったけれど、背伸びして良かったと心から思った。

──ピロリン

再び音を奏でた携帯を反射的に見れば、先程と同じスタンプが同じ人から送られてきていた。

「ね、これどういう意味なの?」

首を傾げながら画面を突きつけて問えば、呆れた瞳が返ってくる。溜息と共に手の中から携帯を奪い取られてしまった。

「ハイ、没取ー」

「え、なんで!?」

私の声に答えることなく、黒尾くんはスタスタとお祭り会場へ向かって歩き始めてしまう。慌てて追いかければ、片目で一瞥した後歩く速度を合わせてくれる。

慣れない下駄でいつもよりずっと遅いのに、嫌な顔一つしない優しさに頬が緩む。携帯は返してくれないけど。

「お前、下向きすぎ」

何となくつま先あたりを見つめながら歩いていれば、感情の読めない声で黒尾くんが呟く。反射的に顔を上げれば、彼の指がすぐ目の前にあった。

「目」

どうやら私の両目を指さしているらしい。それから上を示す指先を追う。

「こっち見ろっつってんの」

「いひゃいれふ」

頬を両手で挟まれて思わず上げた抗議の声は、日本語として紡がれることはなかったけれど何とか通じたらしく、頬に触れていたぬくもりが離れていった。

「10分くらい、携帯と睨めっこしてるお前見てたわ」

「え!?うそ、ごめんなさい」

先程のスタンプはそういう意味だったんだ。申し訳なさすぎて穴があったら入りたい。というか百面相見られていたのかな、恥ずかしすぎて寧ろ穴に埋もれてしまいたい。

「分かればよろしい」

にやりと笑う黒尾くんの後ろで、祭りの明かりが揺れる。年甲斐もなく走り出しそうなのをぐっと堪えて、歩を進めた。気を抜いたら嵩を増した人混みに流されてしまいそうで、自分よりも高い位置にある彼の横顔を追う。

「腹減ってんの?」

軒を連ねる屋台に近づいた頃、黒尾くんが口を開いた。思えば、着付けに手間取った所為でお昼ご飯を食べてから何も胃に入れていない。とはいえ、お腹周りを帯できつく締めているから沢山食べれるかといえば否だ。

「少し、減ってるかな」

「何か食いたいもんある?」

近場の屋台をぐるりと見渡せば、焼きそばや焼き鳥、カキ氷などの定番メニューから、モツ煮やタコスなどの変わり種まで豊富に並んでいる。部活帰りの黒尾くんはきっとお腹が空いているだろうとボリュームのあるものの名を上げようとして、視界の端で捉えた好物が咄嗟に口をついた。

「りんご飴!」

「飯じゃねえし」

やってしまった。黒尾くんはぶひゃひゃひゃと盛大に笑い転げているし、今日何度目かも分からない羞恥に押し潰されそうだし。気を遣えない女だと思われたらどうしよう。

「ボーッとしてっと置いてくぞ」

すっかり笑いを引っ込めた黒尾くんの声に我に返った。少し離れたところからこちらを見ている彼を追おうとして、目の前を人が横切る。私が前に進むよりも早くたくさんの人にそうして行く手を阻まれ、あっという間に人混みに埋まってしまう。

いくら辺りを見回しても黒尾くんの姿はない。こんな短い時間ではぐれてしまうものなんだ。もしかしたら鈍臭すぎて本当に置いていかれてしまったのかもしれない。

人とぶつかっても謝ることすら出来ないくらい余裕がなくなって、段々と泣きそうになってきた。唇を噛み締めて立ち尽くしていれば、突然強い力で手を引かれる。

「だから下ばっか向いてんなって言っただろ」

私を人の海から引き上げてくれたのは紛れもない黒尾くんで、恐る恐る見上げた彼の瞳はびっくりするくらい優しい色をしていた。私が口を開く間もなく、そのままぐんぐんと引っ張られる。私が人にぶつからないように身を盾にしてくれているのが分かって、有難くも申し訳ない気持ちになった。

「すみませーん。りんご飴一つ」

「え」

それから屋台を3つほど過ぎたところで足を止めた黒尾くんがそう口を開く。思わず声を漏らせば、食いたかったんだろ?と返事が返ってきた。

「毎度!運試しにルーレットやってって!」

ずい、と差し出されたのは木箱などで作られた簡易的なルーレット。そこには1.2.3と数字が振ってあり、そのほとんどの面積を1が占めている。3なんてルーレットの針の鋒が入るくらいのスペースしかない。どうやら、針が止まった数字の数だけりんご飴がもらえるようだった。

「可愛い彼女にイイトコ見せてやんな」

挑発的な屋台のおじさんの言葉に黒尾くんがニヤリと笑う。私はといえばおじさんの発した"彼女"という単語に意識を持って行かれてしまった。いや、確かに引っ張られていた手はそのまま繋がれているし、夏祭りに男女二人だし、私なんか張り切って浴衣着てるし。

繋がれた右手が途端に熱を持った気がして、心臓がどくどくと跳ねる。恥ずかしすぎてどうにか手を離そうとすれば、余計に力強く握られてしまった。

黒尾くんを見るのがどうしようもなく恥ずかしくて、私は藁にもすがる思いでルーレットを睨む。それにしても本当に希望の少ない代物だ。いくらチャレンジしても私なんかは1しか出せないだろう。

黒尾くんが空いてる方の手でそれを勢いよく回す。カタカタと手作り感溢れる音を立ててくるくると回る針は、思ったよりも早く失速した。

「な、」

止まった針の鋒を見て、おじさんが言葉を失う。目を見開いて固まる彼を尻目に黒尾くんは心底面白そうに口元を歪めた。針が指し示す数字は3。おじさんの反応を見るに、このルーレットでこの数字を叩き出したのは黒尾くんが初めてのようだった。

「ラッキー」

吐き出される台詞とは裏腹に彼の笑みは確信犯のそれと同じである。黒尾くんが詐欺師と呼ばれる片鱗を見た気がした。

「ん」

悔しそうに顔を歪めながらおじさんが包んだりんご飴を手渡される。ぎこちなくお礼を述べて、慌ててお金を払おうとすればきっぱりと断られてしまった。

「座って食うだろ?俺も適当になんか買うから」

「あ、う、うん」

彼と共に歩き出せば左手に下げたビニール袋が、がさりと音を立てる。りんご飴が3つも入ったその袋は割と重量があって、全部食べきれるかなんてことに思考を巡らせた。でなければ、熱いくらいのぬくもりに包まれた掌に意識を占拠されてしまいそうだ。

「手、やだった?」

目玉焼きの乗った焼きそばの屋台に並んでいる時、黒尾くんが唐突に口を開いた。聞いてくるわりにはまだ繋がれているんですけど。私が首を横に振るのを分かっていて聞いているんだろう。

「嫌じゃない、けど……黒尾くんは平気なのかなって、その、」

好きでもない女の子と手を繋ぐの。

紡いだ声は最早声になったかどうかすら怪しいくらい微かなもので。でも確かに彼の耳には届いてしまったようだった。

「は?」

黒尾くんもこういう表情するんだ。と場違いに思ってしまうくらい、彼は驚きに満ちた顔をしていた。驚愕に揺れていた瞳はそれから直ぐに微かな怒気を孕んだものとなり、口元には引き攣った笑みが浮かぶ。

「何とも思ってない女と、部活で疲れ切った後に人混みに揉まれに行くような男に見えるんですか、ボクは」

「ご、ごめん、黒尾くん女の子に慣れてる感じするから、手を繋ぐくらいなんでもないスキンシップなのかなって」

鋭い視線に射抜かれて余計なことまで口走ってしまう。あ、やばいなんて思ったってもう遅い。私は思い切り地雷を踏み抜いてしまったみたいだった。

「ほぉお?言うねえ」

怖い、怖いです黒尾さん。とても。笑っているのは口元だけで目なんて鋭利な刃物みたいに鋭い。あと握られてる手がとても痛いです。ごめんなさい。

「俺こう見えて意外と一途だってこと、思い知らせてやるから」

ああきっと、蛇に睨まれた蛙はこんな気持ちなんだろうなと焼きそばを買う黒尾くんの横顔にそっと思った。

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