「駅前のカフェでタワーパフェ奢ってくれんならいいよ」
顔の目の前で手を合わせながら懇願する坊主頭に冷たい視線を投げながら名前が口を開く。
「太るぞ」
田中の一言に踵を返しかけた彼女に平謝りを繰り返し引き止めると、彼は名前の前の席に腰掛け、椅子を跨ぐようにして彼女に向き直る。
「龍が勉強ねえ?明日は槍が降るねきっと」
幼馴染みとして人並み以上に田中のことを見てきたが、彼の口から勉強という言葉が飛び出してきたのはこの日が初めてだった。名前はそう刺々しく毒づきながら、恐らく彼の所属するバレー部で何かあったのだろうと考察する。
「大体ね、勉学っていうもんは詰め込むもんじゃないの。日々積み重ねていくもんなの。わかる?」
「うっ……」
田中の真っ白なノートを眺めながら溜息交じりに放たれた言葉に、彼は言葉を詰まらせた。
「それで?どこが分かんないの?」
「分かんないところがワカリマセン」
なるほど、これは中々骨が折れそうだ。名前はもう一度短く息を吐くと、スクールバッグから自身のノートと教科書を取り出す。
テスト対策として彼女がヤマを張った部分を重点的に効率よく教える。田中の飲み込みが意外にも早いことも手伝って、自習時間の終了を告げるチャイムが鳴る頃には要点はあらかた終わっていた。
残りの練習問題と応用問題に取り掛かろうとすれば、田中がどことなくそわそわし始める。凡ミスも目立ち集中力が切れたのかと、ふと名前が時計に目をやれば、彼の落ち着かない理由に合点がいった。
「部活、行ってきてもいいよ。終わるまで待ってるから」
部活動が始まる時間から、優に30分は経っている。恐らくテスト勉強の為に強制参加ではないのだろうが、バレーそっちのけで勉学に励めるほど彼は器用な人間ではない。
歯切れ悪く渋る田中の瞳は、呟かれる言葉とは裏腹に期待に満ちている。名前は呆れたように笑みを漏らしながら、彼の背を押した。
「その代わり、今までやったこと忘れてきたら承知しないから」
これでもかと威圧感を込めてにっこりと笑ってやれば、顔を引きつらせた田中が逃げるように教室を出て行く。
「さて、と」
随分と静かになった教室でポツリと呟き、名前はノートへと向き直る。教科書の問題だけでは心許ない。田中の部活が終わるまで何もしないのはもったいないと彼女は様々な問題をノートに書き殴る。
これが意外と骨が折れる作業であり、時間が経つのもあっという間だった。部活動の終了時間まで残り十数分だ。名前は簡単に身支度を整えると第二体育館へと向かった。
*
彼女が体育館に着いたとき、丁度片付けが終わったところだった。視線だけで田中の姿を探せばマネージャーと頬を染めて話す彼が目に入る。
──確かあれはキヨコさんだ。一個上のセンパイで、美人。
側から見ても相手にされていないのがよく分かる。でも田中に言わせればそれがいいらしい。全く、男という生き物は理解に苦しむ。
そうして暫く坊主頭を眺めていれば、締めの挨拶の後彼が駆け寄ってくる。
「悪ィ待たせた!」
そう短く謝ると田中はそのまま真っ直ぐ昇降口に向かう。着替える時間まで待たせるのは悪いという彼なりの配慮だった。
「で、そのナントカパフェいくらぐれーすんの?」
「2300円+税」
「は……!?マジ!?」
何でもないように淡々と答えた名前に彼は驚きから足を止める。みるみるうちに菩薩の様な顔へと変化していく田中の表情に、名前は思わず吹き出した。
そして何故か、先程のマネージャーと話す彼のあの赤面した表情を思い出す。
──キヨコさん。
ズキンという胸の痛みに付ける名を知らないほど名前は子供ではなかった。
二人は彼氏と彼女という名のもとに交際をしている。しかしそれは幼馴染から繰り上がったような男女関係で、付き合ったきっかけも何となくで、どちらとも告白じみたことはなかった。
故に。名前は彼に出会ってからただの一度も照れたように笑うあの顔を己に向けられたことがない。
なのに、何でもない、一介のマネージャーには毎日のように見せている、なんて。至極──
「つまらない」
小さく呟かれた言葉を拾ってしまった田中は、突然のことに目を見開く。己を見上げてくる彼女の瞳には、確かに怒りの色が滲んでいた。
「え、俺何かマズイこと言っ」
ドンッと耳元で響いた音に、彼はびくりと肩を震わせる。かき消された声は、名前の唇に吸い込まれた。
柔らかく、熱い感触。眼下に揺れる長い睫毛と漆黒の髪。
「キスする時は目を閉じるもんだって知らないの?」
離れた唇が、挑発的に弧を描く。身体中の熱が頬に集まるのを感じながら、田中は口を開けないでいた。手を繋ぐとか、抱きしめ合うとか、そういうものを全てすっ飛ばした口づけは余りにも唐突で、そして酷く甘美な味がした。
望み通りの表情を拝めた名前は満足げに笑む。彼の耳が真っ赤に染まっていくのを見つめながら、そのすぐ隣で壁についていた手を離す。
そして漸く、田中が口を開いた。
「こここ、こういうのは、おと、男が女にするもんだろ!!」
所謂壁ドン状態で唇を奪われれば、男として面目も何もあったものではない。
「何?やだった?」
くつくつと喉で笑う名前を精一杯睨みながら、田中は彼女との距離を一歩詰める。目の前の少女に毒されてしまった頭を横に振り、声を絞り出した。
「も、」
「も?」
「もう一回……」
放たれた言葉に面食らった名前は、暫し放心してから口を開く。
「次のテストで満点取れたら、いくらでもしてあげるよ」
そういたずらに笑う彼女の頬も、ほんのりと桃色に染まっていた。