例えるなら、そう


【12月13日 午後6時 26分 神乃木荘龍の病室】

大袈裟なオレンジのキャリーバッグを引き、名前は病室のドアを開ける。部屋の主である男が横たわるベッドの横には既に人影があった。

神乃木の白い髪をゆっくりと撫でる千尋の表情は、名前の位置からは見ることは出来ない。けれどきっと、その指先と同じように優しい瞳をしているのだろう。

名前は彼女の気を逸らしてしまわないように努めながら、家から持ち込んだ折り畳み机に向かった。

神乃木が入院している医療センターの医院長が彼の知り合いであるから、多少の融通はきくのである。この病室は病院内で一番広い個室であったし、名前がこの部屋に泊まることも許可が下りていた。
故に、彼女は三日に一度家へと戻りそれまでの着替えを洗濯したり、キャリーバッグの中身を入れ替えたり、家主の居ない部屋を掃除したりしている。今日も用事を済ませた後、家からタクシーでここまで来ていた。

それから一体どのくらい時間が経ったのか、名前の鼻腔を甘い香りがくすぐる。ずっと下ろしていた視線を上げれば、湯気の立ったティーカップを持った千尋の姿が目に入った。

「そろそろ一息ついたらどう?」

彼女が差し出すそれを受け取り礼を述べてから、名前はゆっくりと紅茶を嚥下する。蜂蜜とミルクがたっぷりと入れられた甘いミルクティーは、名前が一番好きなフレーバーだ。

ふう、と息を吐けば緊張が解けたように体から力が抜け、ごちゃごちゃとしていた脳内が幾らかクリアになった気がする。

「あまり無理しちゃダメよ」

このところ、名前は寝る間すら惜しんで勉強に励んでいた。食事は片手で事足りる簡易食であったし、こうして声をかけられなければ彼女の集中力が切れることもなかったのだ。そんな彼女を千尋は酷く心配していたのである。

全てはあの日、彼女が御剣怜侍に出会ったその日からのことだった。

「来年には試験ですからね。やれることはやらないと」

そう言って微笑む名前の表情には、隠しきれない疲労の色が浮かんでいる。

彼女は一刻も早く検事になりたかった。誰よりも真実を望んでいる筈で見極める瞳をも持っているのに、その正しい使い方を知らず勝利の二文字に縋っているあの男に言葉を届ける為に。

「……そう」

千尋は名前の髪に指を滑らせながら、ただそう口を開いた。彼ならどうするのだろう、と横たわる恋人に視線を投げる。
無理するなと止めるのか、頑張れと背中を押してやるのか、はたまた共に学ぼうとするのか。きっといとも簡単に最善の選択をして、名前の心を掬い取ってしまうのだろう。

千尋にはどれも憚られた。自分に出来るのは見守ることだけだと。そう自己完結して、笑む。

神乃木の、そして名前の帰る場所であろう、と。



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